「糸島には日本最多の銅鏡出土数と日本最大鏡を誇る「平原遺跡」をはじめ、「三雲南小路遺跡」、「井原鑓溝遺跡」等、弥生後期の王墓が多数発見されているのですが、なぜか装飾古墳が一基も発見されていないのが本当に不思議なことでした」
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51383656.html#more
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福岡の装飾古墳愛好家・蕨手氏もこう書くように、かつての伊都国があったと思われる福岡県糸島地区には装飾古墳が少なく、好事家を悩ませてきた。
「そのことに関する石山勲氏の結論は、コヒペのレジュメに示すように、
「高度な政治判断があって、敢えて控えた」
(『装飾古墳を考える - 伊都国では何故壁画は描かれなかったのか-』石山 勲)
と言うことでした。 なるほどですね。 この地域は古代外交上の要衝ですので「近つ飛鳥」の権力者たちに特に目を付けられやすい場所だったということでしょうか。十分考慮すべき見解ですね。(蕨手)」同ブログから
筆者Kawakatuの考える回答は少し違うことはある程度このブログにも書いてきたつもりだ。
筑紫国の中で伊都国と奴国の3世紀後半の政治的対立関係があったとい想定から、伊都国が一大率を置かれたゆえに、糸島には邪馬台国が奴国その他の古い筑紫・肥後結合体に対しての監督官庁的な意味合いがあっただろうと筆者は考えたい。
1.5世紀頃の竹斯国の中心地は金印授受・出土状態から奴国だったことは間違いない、3世紀に新たに出現する邪馬台国中心の結合体から見れば、それは旧態勢力で実力者となるだろう。30箇国ばかりの小国家の集合体であるかのように魏志は描くが、その結合はさほど強固なものではなかったはずだ。中国や朝鮮が気候変動とそれに起因した内乱状態の中で統一を模索したように、その影響下にあった倭国でも同様に、旧勢力が中国のどこの国に従うか、支持するかでもめたはずである。魏呉蜀の三国か、それとも遼東の新興国・北魏(公孫燕・燕国)につくか・・・。
考古学ではその頃の倭国は、ある土地では呉、ある土地では魏、またある土地では北魏と、つく盟主がばらばらだったことが見えるので、魏志の言う倭国の乱のあったことを後押しする。この土地土地とは、いわゆる邪馬台国集合体の範囲の国々であり、北は北陸~南は日向あたりまでが含まれるだろう。ほぼ西日本全体がすでに、ルーズな邪馬台国祭祀国家との連合になろうとしている時代だが、中身はそれぞれが別々に中国の情勢次第では・・・という虎視眈々の時代である。
そうした筑紫内部のばらつきは、その後も北部九州を一枚岩にしにくい状態にしたと思われる。そうした中で古墳の時代となり、いきなり前方後円墳から始まった九州・・・豊は早々に海部となり中央国家に管理され、火は吉備系国造支配で周囲を囲まれる。南九州では隼人的縄文集団が分裂し阿多隼人が近畿に連行されるごとくに集められ大王の警備集団(靫負)になった結果、熊襲は為政者的存在を失い、ほぼ崩壊しているといった有様。
そうした中央集権化時代にあって、装飾(幾何学壁画や線刻画)古墳を持った集団は、直弧文を持つ国造氏族とは違い、それに従属するように見せつつも、内心は古い在地的な海外との自由な交易を望んだはずであろう。九州は平安時代になってもその独自性を存続しようとしたのだから。
研究愛好家の世界でもいまだに、九州は北部も南部もそれぞれ独立意識が高いことからもそれは想像出来る。九州男はいつまでも古い価値観でありたいのだと見えてしまう。
それが伝統というものだろう。
装飾古墳が糸島地域に少ないのは、そこを邪馬台国為政者が一大率にできる土地だったからにほかなるまい。九州の海人的小国家の中で、糸島は奴国的旧態結合のない地域だったのだ。そういう人々とはいったいどんな人たちだったのだろうか。2世紀・平原の女性シャーマンに服属しなかった一族とは?そしてその後全国に散らばり海人文化を広めていく集団か?ではそれは安曇だろうか、宗像だろうか?あるいは?
筆者は骨格遺伝子分析から、奴国と伊都国では混血度合いが違っていたことを思う。
それは中国的だったか朝鮮的だったかの違いである。