Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

伊都国だけ少ない装飾古墳 2 高度な政治的判断


さきほどの続きである。

石山勲が「高度な政治判断で敢えて遠慮」したという伊都国内での装飾古墳。
するとその遠慮の意味がなんだったか気になるはず。

さきほど書いたように、奴国旧「九州王家」への遠慮なのか、邪馬台国女王国家への遠慮なのか?

筆者は遠慮であるなら前者かと思う。
邪馬台国への遠慮のはずはない。
なぜなら伊都国は卑弥呼の管理管轄することで成立、支配された国だからだ。
それまで伊都国の王は平原遺跡の女王シャーマンで続いてきたはず。いや、もっと言うなら平原の女性こそが卑弥呼である可能性もある。あれほどの巨大な鏡を何枚も手にして、しかもその鏡はあとの時代の伊勢神宮ご神体にそっくりさんだから。

伊都国領地の2世紀までの遺跡はどれもこれも、それはそれは見事なものである。素晴らしい数々の副葬品を持っている。それらの前では三角縁神獣鏡などまさにちんけなコピー模造品である。

しかしあのように巨大な鏡など、中国にも、近畿にも、どこにもない。では魏からいただいた鏡ではないのか?と言えば、逆に平原女王が直接2世紀の中国戦乱時代の誰かに造ってもらったものかも知れぬ。次の世代の女王となれた卑弥呼は、それにあこがれて大きな神獣鏡を作らせたかも知れぬではないか。奇妙なのは、平原のほうが中国漢的な内向花文で、近畿女王かと言われる卑弥呼のほうが南朝的な神獣鏡だという、逆転の構図だろう。魏に朝貢してまでなぜヒミコが神獣鏡を欲しただろうか?

戦乱明けの魏では、まだ鏡の鋳造などできなかったかもしれず、しかたなく呉鏡を代用したのか?あるいは漢のデザインを魏王は知らなかったか?


その辺はまったく不明だ。


さて、三国志の戦乱は、倭国はどっちにつくか虎視眈々であるが、国境を接する朝鮮半島はそれどころではない。

中国が三国時代になる前に、後漢が滅びてすぐに、もう公孫淵は遼東を支配し、呉と契りを結び、後漢はこれに対抗して高句麗を侵害。高句麗の広開土王は南下して百済を侵害するという歴史のピストン効果でてんやわんやである。

百済が呉王とつるんでいたから、中国はまだ国家にすらなれないでいた新羅と動かし、高句麗と百済をけん制しはじめる始末だ。とてもじゃないが虎視眈々などという悠長なことは言っていられない。伽耶もとっくに新羅によって侵害された。

魏志がなぜ朝鮮のそうした情勢を書いていないかだ。何か不都合なのか。

そもおそも新羅に手を入れて国家たらしめたのは中国であり、魏である。魏は公孫北魏が気に入らないから半島に干渉した。その結果、多くの伽耶・百済・高句麗の王族は倭国に逃れるしかなくなった。彼らこそが倭国を国家にしてゆくのは目に見えている。その過渡期が卑弥呼の時代である。


だから秦氏や漢氏などが日本に来るのなら、もう3世紀には起きていなければなるまい。そういう目で国内を見れば、すでに3世紀には山背南部宇治や深草に朝鮮式の遺跡が出ているのである。(宇治市街地遺跡・深草遺跡)
そのすぐ北にある稲荷に秦氏が登場するのが4世紀だから、彼らは秦氏の先鋭部隊と考えるのが順当。


ということは、3世紀の前半ににわかに河内・大和が繁栄し始めるわけもわかるだろう。しかも高句麗も百済も伽耶もどんどん逃げ込んでくる。彼らが前衛立地である九州にいつまでもとどまるはずはない。中国の威力を痛いくらい知っているのだから、早急に内地へ逃げねばならない。


だから渡来は3世紀前半すでに起きていたと見ていい。


虎視眈々できていた倭国は、海の中にあったからであり、半島はそれどころではない。そんな孤島の小国家までもが内乱しなったから、珍しかったと言える。だから書いたのかもしれない。半島の場合それは内乱どころではない、三つ巴、四つ巴の戦乱時代だ。乱と戦では雲泥の違いがある。応仁の乱と戦国時代の違いのでっかいのである。

逃げ込む渡来の情報で、ますます倭国には困惑と混乱が起きただろう。これは一致団結しなくては・・・となるのは必然。邪馬台国連合がしびしぶ出来上がった。そしてもともと中国とは親しかった九州奴国は怖い。監視せねばと一大率。そうなのだ、一大率は外を監視するのではなく国内の反発勢力を監視するための行政施設だ。

そういうことは日本では頻繁に起きている。不破の関もそうだし、熊襲征伐もそうである。発想は逆転しないと歴史がわからない。


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2

大陸と対峙しようとしたときに、その背後に敵がいたらいくさにならない。熊襲のような、かなりの高度で、縄文時代から中国南部と交流があった異民族は、何度も何度もたたかれるのが必然だったのだ。戦いの現場は近畿ではない。つねに九州なのだから。

だから外と戦う前には、絶対南九州は押さえ込んでおかねばならぬ。だからいつもなぜか熊襲ばかりがやられることになる。球磨と隼人はいのいちばんにやられるか、懐柔されたのだ。
しかもそれを在地九州の豪族にやらせてしまうのがいくさの常道でもあった。そうすれば、現場をばらばらにできる。それゆえに熊襲国との境界線に城を作ったのが狗奴国城=くこち城であろう。さらに靫負集団を置き、完全分断する



すべて常道。


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1



高度な政治的配慮とはつまり国内の一丸化への布石なのだ。伊都国と奴国を合体させないためである。連合とみせかけ、いつ裏切るかもしれない旧王家に手かせしてしまう。それが卑弥呼のかしこさである。

こうなると奴国は先代がいただいた国王の印である金印を隠すしかない。卑弥呼にとられたら国の盟主に返り咲けなくなる。それで伊都国王・ナシメに命じて別に金印をもらいにいかねばならなくなった卑弥呼。それに反発して呉王・百済王とつるもうとする筑紫。それにまた反抗して北魏を通じて百済と結びたい卑弥呼・・・。

このわだかまりが爆発したのがずっとあとの磐井の乱だろう。がまんの緒が切れた。なにか幕末の薩摩とよく似ている。恩讐であろう。


装飾古墳を作らなかったというのなら、伊都国にはそもそも平原などにも装飾風習などない。弥生時代にはそれがどこにもないのが、突然、4世紀になって登場したのだ。なぜ?


それが前方後円墳という近畿纒向型の象徴的墳墓を形式をとりつつも、「内部のだけは」独自性を見せておきたい九州古代人の、日本初代国王としての意地に見えるのは筆者だけなのか?


倭国大乱とは伊都国と奴国の戦いだったのではないか?
戦争傷痍遺骸が出るのはほとんど九州玄界灘沿岸ばかりなのだから。


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4





Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 5





Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3







奴国の「な」は那。
那珂川の「な」。
「な」は灘。
海の民は激しい。
























































Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>