葛野(かどの)郡は
大正時代に
衣笠村が京都市上京区に編入。
朱雀野村・大内村・七条村、西院村の一部が京都市下京区に編入。
昭和6年に
嵯峨町・花園村・西院村・太秦村・梅ヶ畑村・梅津村・京極村・松尾村・桂村・川岡村が京都市に編入。
などしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E9%83%A1
大正時代に
衣笠村が京都市上京区に編入。
朱雀野村・大内村・七条村、西院村の一部が京都市下京区に編入。
昭和6年に
嵯峨町・花園村・西院村・太秦村・梅ヶ畑村・梅津村・京極村・松尾村・桂村・川岡村が京都市に編入。
などしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E9%83%A1
現在の京都御所(平安京大内裏)は葛野を開闢した秦河勝邸宅跡に建てられたという説が有力である。
その秦氏眷属は葛野一帯に11支族がいたと考古学的に考えられている。というのは葛野の古墳群が11の支群に別れているからである。
まずこれらの古墳群のうち、宮内庁陵墓参考地に指定されているのが二ヶ所。宗教団体伯清教会が管理しているのが国指定天塚(あまつか)古墳。国指定なのに?詳細は各自調べられたし。
また山中に点在する群集墳や古墳群も管理がずさんだったためにとても散策するには困難な状態。
まずこれらの古墳群のうち、宮内庁陵墓参考地に指定されているのが二ヶ所。宗教団体伯清教会が管理しているのが国指定天塚(あまつか)古墳。国指定なのに?詳細は各自調べられたし。
また山中に点在する群集墳や古墳群も管理がずさんだったためにとても散策するには困難な状態。
京都の古墳と聞いてピンと来ない理由がこれ。
葛野以外にも古墳は存在するが、誰に尋ねても知らないだろうと思う。
葛野以外にも古墳は存在するが、誰に尋ねても知らないだろうと思う。
も、さいてーの管理状態。それ以外の古代の遺跡も推して知るべし。
これらの秦氏、あるいはその眷属の朝原氏などの支族の古墳からは、実は以前にも対談を転載しているが、秦氏出自とされる半島新羅系土器はわずかに1点しか出ていない。須恵器窯跡もなく、それはお隣の丹波やずっと東の山科地域(陶)で出る。
広隆寺境内にある河勝顕彰碑からは「七文字」が消された過去があるが、この七文字とは「秦始皇帝の子孫」という一文だろうと思われている。これは在日朝鮮学者や団体の行ったことであるそうな。詳細は知らない。これはうがった見方をすれば、むしろ秦氏が新羅系というよりも中国南部、江南系であった可能性を示唆しているような気がしてくる。
必ずしも秦氏が新羅本貫だったという証拠もないし、その志向性からは呉越、秦からだとしても別におかしいともいえぬところがあるのは確かである。
必ずしも秦氏が新羅本貫だったという証拠もないし、その志向性からは呉越、秦からだとしても別におかしいともいえぬところがあるのは確かである。
江南を×にする理由もないし、新羅を○にする理由もないと森も書いている。
長江から半島へいき、一時そこにいて、加耶から海を渡った可能性もわれわれは頭に入れておいてよかろう。もちろん渡来人でない可能性も×とは言えない。
長江から半島へいき、一時そこにいて、加耶から海を渡った可能性もわれわれは頭に入れておいてよかろう。もちろん渡来人でない可能性も×とは言えない。
秦氏の中にある不可思議な宗教性や伝承のほとんどは、中世になって秦氏部民、下層民、芸能民の中から出たものだと検証して来た。つまり管理者秦氏はどこから来てもよいのである。
またそれよりも早くから伏見にいた深草秦氏や松尾の秦下氏との血縁関係も、このさい「ない」可能性も考えておいてもかまうまい。