予備知識として一つ前に過去記事「京都葛野郡太秦の古墳一覧」記事を再掲載してあります。
太秦広隆寺のちょうど北側におどろおどろしい古墳がある。
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蛇塚古墳(へびづか・こふん)という。
盛り土のすべてが長い年月と伏見地震などの影響、さらに戦後の宅地化によって紛失されてしまっているが、前方後円墳であると京都の考古学者から聞く。周囲にはからぼりがあったという。
秦造河勝(はたのつくり・かわかつ)の墓とも言われているが、不明である。
アクセス 嵐電「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅から南に約300m
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過去記事で書いているように太秦の古墳群は11の支群があるので、これらがみな秦氏の墓地であったなら、葛野の秦氏には11ばかりの枝族があっただろうと考えられる。10じゃなくてよかった。またぞろ失われたユダヤ10支族だ!と言われてしまう。
11支族の墓が今のところ見つかっているのであって、それが全部葛野秦氏の墓であるかなどわかろうはずもない。ただ地元の伝承でかつて「秦始皇帝之子孫秦河勝之墓」と彫られていたというだけである。前の部分は戦後に意図的に消されてしまったが。
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墳丘長:約75メートル からぼりまで含めれば100m規模?
6世紀末-7世紀初頭、終末期古墳飛鳥時代
石室全長:17.8メートル
墓自体は小さいが、石室全長は五条野見瀬丸山古墳、宮地嶽、石舞台に次ぐベスト5クラス。京都市内随一(京都府内でもかなり大きい)。
石材 チャート(角岩・珪質堆積岩)
京都では「丹波層群(ペルム紀からジュラ紀(約2億9,900万年前-約1億4,550万年前)に海底でできた地層)に属するチャート・砂岩・頁岩などが山地を構成しており、チャートは京都市北部に多く見られる」Wiki蛇塚古墳
古墳石室の石材としては珍しい。放散虫の殻が点状に見えるものもあるので、そもそもは海底にあった場所が隆起したのだろう。ただし蛇塚の石材がどこから運ばれたかは不明。推定するに保津川からか?
発掘 梅原末治「山城太秦巨石古墳」(『近畿地方古墳墓の調査』3・日本古文化研究所報告、1938
「石室の構造は、玄室の真ん中に羨道(玄室への通路)を取り付け、玄室の幅は羨道に比べて広くするという両袖型(りょうそでがた)に該当する[4]。側壁・奥壁とも巨石を2・3段に積んで形成されるが、天井石は一石を遺存するのみである[2]。この玄室内には家形石棺が存在したと伝わる[3]。 」上記Wiki
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http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/kyo_hebiduka/hebiduka.htmClik here to view.

推定築造時期は秦河勝の生きた時代に合致する。
ので、さてわからない。広隆寺最寄の古墳であるが、だからといって河勝墓所とする決め手は何もない。
「太秦には、蛇塚古墳のほかにも5世紀後半から7世紀初頭の築造とされる古墳が数多く点在している。これらは嵯峨野古墳群とよばれ、主な前方後円墳を築造年代順に挙げれば、段ノ山古墳、清水山古墳(全長約60m)、天塚古墳(全長約71m)、片平大塚古墳(仲野親王陵古墳、全長約63m)となる。」
ので、太秦秦氏なら秦酒公や秦公、太秦公など盟主とおぼしき人がたくさんいたので河勝とは決められない。そもそも河勝が実在したかどうかも文献以外では不明である。伝説的祖人としておくべき人物だ。むしろ秦公や酒公は実在しただろう。
「うずまさ」とは、うづたかく献上物を差し出したから拝領したというのが文献にあるが、定かではなく、「うつ」「まさ」に分けて考えるほうがいい。
まず「うつ」は朝鮮語で「ウル」だから、「蔚」は朝鮮半島の地名ウルサン(蔚山)である。
「まさ」は「勝」で、秦勝のことで、「かつ・すぐり」、つまり秦氏の支配者・管理者である。
つまり「うづまさ」は従来の「宇津高く」ではなく、「朝鮮蔚山から来た氏族の王」と理解できる。これは筆者オリジナル解釈。
●蔚山広域市
「蔚山広域市(ウルサンこういきし、韓国語表記:울산광역시)は、大韓民国南東部に位置する広域市。1997年7月15日に広域市に昇格する前は慶尚南道に属していた。市のスローガンは「Ulsan for you」。
※ちなみに熊本県に蔚山町あり。熊本県熊本市中央区新町一丁目、新町三丁目うるさんバス停。由来は加藤清正が朝鮮遠征で陣取ったのが蔚山城だったから。もしかすると清正が連れ帰った朝鮮人民を住まわせたのかも知れない??バス停に울산마치とわざわざ書いてあるそうな。
蔚山は
「三韓時代には辰韓に属して、西南部地域には于尸山国があった。中部地域には屈阿火村が形成されている。新羅時代には中部地域の屈阿火県と西部地域の居知火県、西南部地域の于火県、東北部地域の律浦県、南部地域の生西良郡があった。統一新羅時代の757年に屈阿火県が河曲県に、居知火県が巘陽県に、于火県が虞風県に、律浦県が東津県にそれぞれ改称された。」Wiki蔚山広域市
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つまり新羅になる旧伽耶地方にあった小国家のひとつがウルサン。その勝=王が日本に来て太秦になった。ちなみに蔚珍=ウルチンも秦氏出身候補地。
古代朝鮮地図
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ウルチン
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いずれにしても慶尚北道であり、海岸部であり、日本海に面している。
しかしまずは日本に近いのは蔚山。旧捕鯨基地もあり、海人族の舟ならここが最適だ。捕鯨基地はここと日本の壱岐・対馬が有名である。壱岐対馬は日本最古で、海士がいて、しかもアマテラス=天皇家の影の側近を意味する月読神社もある。清正が入ったのもそういうえにしだろう。そういうところから「うち」の氏族の武内宿禰の「うち」もまたそもそもは「うつ」でよかろう。
それがなぜ日本で「はた」と名乗るかは明確。朝鮮語パタ=海・波、巨大。
たくさんいて、海から来たので。
漢字「秦」を使ったのは始皇帝子孫をステータスにしたからだ。当て字である。
昔奈良の多神社に参ったとき波を描いた瓦を使用していたが、多氏も海から来たのだろう。秦氏の祭った宇佐神宮の伝承に「「八縷の旗」を降ろし八幡神が降臨する」ともある。旗も秦も波田も波多も同じであろう。
『日本書紀』地名説話にはいつも信憑性を疑ってかかる必要がある。