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日本人は一万回、一万種類の人種到来で完成する。学者の頭は起源を単純に考えすぎる



 

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日本人の源流をさぐる 斎藤成也国立遺伝学的治教授
July { August 2018 10
 
「ラテン語で「ヤポネシア」と呼ぶ日本列島には、4万年ほど前から人々がすんでいた。この時代を旧石器時代と呼ぶ。その後、縄文時代が1万6000年ほど前にはじまった。1万年以上続いた縄文時代は、水田稲作農耕がもたらされた弥生時代の到来とともに、およそ3000年ほど前に終わった。

 私たちがDNAを調べた福島県新地町の三貫地(さんがんち)貝塚人は、縄文時代の最後のころに生きていた。DNA解析から、かれらはとても古い出自を持ち、現代の東京地方に住んでいる典型的な日本人のDNAに彼らのDNAが2%程度伝わっていると推定された。のこりの8%は、弥生時代以降に大陸からわたってきた人々のDNAが伝わっているとされている。今の日本人は、このように土着の縄文系と、弥生時代以来の渡来系との混血なのである。同じ日本人でも、沖縄の人々は、九州以北の人々(わたしはヤマト人と呼ぶ(Kawakatuはクスオ人と呼ぶ。九州男である))とはすこし遺伝的に異なることが、以前からわかっている。縄文人のDNAもすこし多めに伝えているようだ。

 さらに、北海道に住むアイヌの人々は、日本人のなかで縄文人のDNAをもっとも多く伝えている。北のアイヌの人々と南の沖縄の人々に、より多くの縄文人の血が伝わっていることは、明治時代から「アイヌ沖縄同系説」という名前で予想されていた。この結果生じた地理的なパターンをもとに、縄文時代までと弥生時代以降の、おおきくわけて2種類の人々の渡来で日本人の起源を説明したのが、「二重構造モデル」(埴原など)だ。
 
ところが、今世紀のはじめに8億個の塩基からなるヒトゲノムが決定されたために、人間のDNAの歴史を、これまでよりも数千倍、数万倍くわしく調べることができるようになったのだ。この結果、日本人の源流について「二重構造モデル」をさらに発展させる必要がでてきた。

これまで弥生時代以降は1種類の人々がわたってきたと考えてきたが、どうやらすくなくとも2種類だったらしいことが、現代日本人のDNA研究からわかりつつある。九州・四国・本州のヤマト人に「内なる二重構造」が存在しているようなのだ。

 東海道新幹線と山陽新幹線が通る日本列島の「中央軸」とその周辺では、すこし人々のDNAが異なっている可能性があるのだ。この異なり方はとても小さいので、これまでは見つけることができなかったのである。

 そこで登場したのが、三段階渡来モデルだ。縄文と弥生の二段階の渡来のうち、弥生時代以降の渡来が、時代も人々の由来も、ふたつにわかれていたとするものだ。まだ時代も由来もはっきりしないが、弥生時代に水田稲作農耕を日本列島に伝えた人々と、そのあとの古墳時代以降に大陸から渡来した人々が少し異なっていたのかもしれない。
 
私たち国立遺伝学研究所のグループは、先日閉幕した国立科学博物館「人体展」に展示された、北海道礼文島の遺跡から発見された縄文女性のDNA解析にもかかわった。ここでもヒトゲノムの膨大なデータが彼女の顔の復元に役立っている。骨だけでは、髪の毛や皮膚の状態、目の色はわからないが、ゲノムDNAの情報から推測できるのだ。このような膨大なゲノム情報が、日本列島だけでなく、アジアのさまざまな地域の人々について続々と明らかになってゆけば、日本人の源流について、これまでおぼろげだったイメージが、明確になってゆくだろう。系統関係がいまだ不明の日本語やアイヌ語についても、DNAデータと言語データを比較することによって、系統関係があきらかにされるかもしれない。乞うご期待である。」
http://www.saitou-naruya-laboratory.org/assets/files/tentoumushi2018.pdf
2018.6月

 
さいとう・なるや
1957年福井県生まれ。東京大学理学部生物学科人類学課程卒業、
テキサス大学ヒューストン校生物医科学大学院修了。総合研究大学院
大学遺伝学専攻教授、東京大学生物科学専攻教授を兼任。著書に『日本列島人の歴史』『核DNA解析でたどる日本人の源流』など多数。
 




なんと単純化したがるのだろう、研究者たちは・・・読後感想はまずそれだけだ。
『日本人の源流』は文系にはなかなか数値や割合が多くて読みにくいところがある。しかも結論が出せてもいない。おしなべて学者とは、できるだけ単純化した仮説で知名度をあげ、やがて学者としての権威を高めたい生き物だ。つきあう必要はない。頭でまとめて、いいところだけ切り取り、自分だけの構造モデルを作り上げればいいのである。細かい数値は必要ない。それらは幻惑のための理科系人間の誤魔化す手法でしかない。だまされてはならない。無視すべし。

この際、Kawakatuも文系なので、いちおうは読み込んだけれど、それを文系他者に解説するほどの知識も持ち得ないし、暇人でもないし、あまりにばかばかしい仮説だから、ざざっとおおまかな文系向けの私説を、おもしろくわかりやすく展開しておこう。↓こむづかしい理系専門家の数値で遊ぶのにつきあうことほど、つまらない時間の使い方はない。こんな本ならまずは読む必要も、あなたにはないだろう。ぼくは読むが・・・。





筆者説
日本には、まだ温暖化による縄文海進が起こる前の、凍って大陸とつながっていた頃の日本列島にやってきた旧石器時代人=(アイヌだろうと斉藤は遺伝子から言っている。)が北海道にいて、温暖化に伴いこれが南下したし、また台湾から琉球弧を舟で遡ってきて、まだ証拠はないが五島列島や種子島にたどり着けた旧石器時代人もいたことだろう。前者は東北を中心に近畿以西までにも、一時的にだが広がり、後者は鹿児島の上野原縄文遺跡の担い手になったのかも知れない。そして後者は、姶良カルデラの大噴火で九州北部や本州へと離散したかもしれない。つまり最初はアイヌと琉球人の祖先がはじっこに入っていただけだったのだ。これまでと正反対である。彼らはそれぞれ渡来系日本民族=クスオ(九州男)により南北へ押し込まれたわけではないのだ。

だから縄文人と一口に言っても、出アフリカの最初の定住地だった中東シュメール地方(チグリス・ユーフラテス流域)から環境の寒冷化。あるいは熱風偏西風による乾燥化によって逃げるように各地へ拡散して、あるものは欧州へ逃げ込み、あるものは(アジア人の祖先)北方のバイカル湖周辺にたどり着いた。これは新人と同時代に生きられていた旧人生き残りもそうだったのである。

シルクロードで言えば北回りコース人と、インドからスンダランドやサフール大陸、ポリネシア、台湾などへ舟で移動した海洋系南回り人がいたのである。


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そしてバイカル湖周辺では、北周り人たちはすでにそこに来ていたネアンデルタール人やデニソワ人と出会い交配し、旧人の遺伝子の一部の混ざった混血児となってネオ・ホモ・サピエンスとなったうえで南下拡散。



一方、スンダランド各地に散らばった南回り人も、デニソワ人に出会うが、その前に、すでにインドの某所(いずれ特定されるだろう)で、ネアンデルタールでもデニソワでもない、もうひとつの旧人(未発見)の遺伝子を入手していたこともわかっている。もしやそれは、アボリジニの先祖であったかも知れないフローレス原人の遺伝子だったのかも知れない(仮定)。いずれにせよデニソワ人と混血した彼らは、南太平洋へと舟のたびを開始する。そしてハワイを中継地としてイースター島や南米にまで到達し、再び、陸地を延々と歩いてきた北方からの北周り人と出会って、北米ではカナダ・アメリカインディアンやの先祖と、中南米ではインカ帝国やアステカ王国を作ったインディアンたちと、三々五々再会を成し遂げることになるのである。


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さて、日本列島へは、
1 北回り人
 A バイカル湖で混血して南下し、モンゴル高原から中国南部の柳江遺跡のある江南海岸部へ進出したもの。台湾高山族となって琉球へ。港川人に変化して北上。
 B モンゴル高原から黒竜江(アムール川)河口部へ出て、アイヌの源流になり、やがて北海道へ入りアイヌとなって、温暖化で列島本州で縄文人と変化したもの。奈良県あたりまで。

の、大きく二種があっただろう。Kawakatuの推定は、だから斉藤よりももっと複雑で、北周りにも南回りにもさらに血脈の多様性があったと考えている。種は生物多様性があればあるほど生き残りの確率は高くなる。人類も当然、その知識はもってはいなくても、本能的に出会った民族、旧人と交配したはずである。デニソワ人でさえ、その遺伝子には原人ホモ・ハイデルベルク人の遺伝子があったことがわかっている。ネアンデルタール人とデニソワ人は、つまり祖先が違うことろから枝分かれして、偶然ほぼ同時代に存在した旧人なのである。先ほど書いたインドの某所で出てくるだろうもうひとつの旧人の遺伝子は、南回り人に受け継がれ、そのまま琉球人、アイヌそして列島日本人へと受け継がれたはずなのだ。

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埴原のこれまでの二重構造説では説明できない、三重構造の混血があると斉藤は言う。この古い図の縄文人をアイヌに、続縄文人を縄文人にそれぞれ置き換えてみると三重説になる。縄文人はアイヌから枝分かれしたか、進化したと斉藤は考える。
そしてその源流をミンダナオ島だと想定しているようだ。

海部陽介は台湾であろうという。

篠田謙一はいまだにMTDNAのとりこであてにならない。


しかしKawakatuはそれらすべての仮説は、まったく物足りない。すべてがまだまだ知恵が総身に回りきれない舌足らず説ばかりだと感じている。
人類の出会いと混血は、もっと細かく、もっと複雑に。もっと時代を重ねて、何度も何度も何度も起きるはずなのだ。
人が動く限り、出会いは無数にあった。
旧人も何種類もいて、それぞれ枝分かれした祖先を異にしていたはずなのだ。
  進化も、日本民族も、そんな単純でおおまかなくくりでは考えてはなるまい。



2 南回り人
 A 柳江人と出会い、台湾へ渡り、琉球弧を北上して少なくとも奄美大島には到達。
 B スンダランド大陸で、枝分かれして
   B-1 フィリピンミンダナオ島からポリネシアへ進出。
   B-2 インドネシア、スウェラシ島からポリネシアへ進出。
      やがてどちらかがハワイ、NZ、南米へ到着。
   B-3 スウェラシからボルネオを経てサフール大陸(オーストラリア・NZ)ま     
      で到達、アボリジニへ。



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※彼らの中のいずれかがポリネシアからマリアナ諸島を経て北上し、小笠原諸島へ到達。そして北上して伊豆諸島へ到達し、舟で本土縄文人と交流した(同系の石棒、石斧が出土する。ただし遺跡や人骨はまだ)。おそらく伊豆大島の黒曜石を本土各地へ運んだだろう。

※記録では鎌倉時代に腰にやしの葉のみのをつけて赤黒い鬼がやってきたから、酒を飲ませたが、やがて暴れだして人を殺すので退治したとある。詳細、出展はほかの記事で別記する。

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二つの石器文化をトカラの海が阻止している。いずれ港川人骨格が本土で出ればそのはざまをつないだ琉球人がいたことが証明されるだろうが。


このように、いまのところ、核ゲノム遺伝子や考古学や記録や民俗誌や骨相学などなどを合わせてみると日本人の縄文人の源流だけでも、その可能性が高い来訪者は、6種類があったことが想像可能なのである。北周りではスキタイ・テュルクが持っていたコーカソイド系遺伝子すら来ている可能性はある。


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こんな単純なら苦労はしない


そしてそこへ3000年前弥生時代の早期前後(後期縄文末期にも)には、半島や中国からの渡来人が、やはり複数回、複数人種としてやってきた。何度も何度も、舟を使って北部九州を中心に、日本海沿岸、日向、越、秋田、青森などへ流れ着くものもあったのだ。この渡来も、斉藤やそれ以前の研究者が言うような、3種類とかにはとどまるまい。筆者は、山ほどの遺伝子の渡来人が、三々五々、時代時代に少しずつおそらく1万回程度は渡来したと考えている。そうでなければ日本人の現在の1なまり多様性、2苗字多様性3習慣多様性4外見上の顔つきの多様性などなどは、説明できないだろうと考えている。

漂流者ならば今でも、日常茶飯事のごとく列島や琉球や北海道には、いつでもやってこれるのである。北朝鮮の漁民が勝手に北海道の小屋でどろぼうした事件は忘れてはおるまい。ざるなのだ、古代~現代まで海は。








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