就職は来週からと決まったので、今のうちにかけることだけ書いておきたい。
まだ一週間あるから、すべて書きおおせるかも知れない。
大山誠一は関連論文をネットに一部だけだが掲載している。それを引用しよう。
大山 誠一
『記紀神話の解明と伊勢と出雲』
「記紀の神話が、天皇および天皇制を正当化するためというきわめて政治的な意図をもっていることは自明としてよいであろう。そうだとすれば、神話の解明には、古代の天皇制に対する正確な理解とその成立過程に対する正しい歴史認識がなければならないだろう。」
大山が言う
●天皇制の特徴
1 天皇は権力を持たず、実権は有力貴族の合議の場である太政官にあった。
天皇は国家意志の決定の場から排除されていた。
●天皇制の特徴
1 天皇は権力を持たず、実権は有力貴族の合議の場である太政官にあった。
天皇は国家意志の決定の場から排除されていた。
2 太政官における貴族たちの力関係は、逆に、天皇との姻戚関係が決定的意味をもった。
それは外戚となることである。その最初は、藤原不比等が擁立した草壁皇子の子の軽(文武)と宮子との婚姻から始まる。以後、藤原氏の娘が代々の天皇を生むことになる。
3 外戚が有効であるためには天皇に権威が必要である。そのため、神話により天皇を神格化した。
以上の3点は、論理的に補完関係にあり一体のもの。
1のKawakatu解説(あくまでもこれは天武から持統への時代のことで、大山は実際の天武には律令制改革への実権や意欲などなく、天武の死後、不比等が実際には改革をしたと考えているようだ。
天皇制が始まって以来、平安の白河法皇・後醍醐天皇などの例外を除けば、天皇には政治的実権はなかったと言っていい。それは今も同じである。
天武が壬申の乱を実際に起こす実力とやる気があったかどうかも、Kawakatuは疑う。さらに天智や天武が実在したかどうかも疑義がある。
およそ飛鳥の欽明~推古前後の話にしても、実際は蘇我氏的な天皇家とは無縁で、前政権だった倭五王を受け継いだ大王がいて、それを隠匿するために、歴史すら作り変え、あるいは大和ではない地域、または中国にあった王権交代事件を題材に、まったく創作した虚構であるとすら考えるものである。
そのためには河内や日向に大古墳群を作ることすら辞さなかったのが不比等だとすら疑うのである。そして蘇我氏王権も継体大王も新しい持統天皇以下の天皇制を正当化するために、系図上だけで血脈をつないであると。当然、倭五王も、記紀の置き換えた雄略前後の天皇たちも、中国が書き残した倭五王の存在を無視して、彼らが住まっていただろう吉備や葛城をも無視して、強引に河内に巨大古墳群を作ることで、近畿にはオリジナルの大王家がずっとあったのだとさえ、不比等は錯覚させたかったのである。)
2のKawakatu解説(=神話でも、天孫降臨直前の天照大神(アマテラス)と須佐乃男命(スサノヲ)(実際の日本史では=持統女帝と天武天皇にあたる)の息子である男神・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(アメノオシホミミ=草壁皇子にあたる)が降臨する予定だったのが、子供の二二ギ誕生で、突然二二ギ(軽皇子つまり文武天皇)が、まだ生まれたばかりの幼児であるにも関わらず降臨することになったことは、この現実(草壁が弱い体を理由に辞退して息子の軽に譲る。その後草壁夭折=暗殺による天武直系の消滅は藤原不比等と持統の画策である)の反映である。それはそのままKawakatuが考えている(天皇家よりも)藤原氏のための神話が必要だったことをネタバラシで、思わず語ってしまっていることになる。)
3のKawakatu解説(つまり天孫降臨にまつわる神話のすべては、当然、持統女帝と藤原氏摂政政治の正当性をいうがためのまったくの政治的あとめ争いという現実を反映させた創作だと理解できる。)
大山説続き
●天皇制成立はいつか?
構想の段階ではあるが、天武10年(681)である。その年の2月、
(a)律令の編纂が命じられ、同日に
(b)草壁の立太子、3月に
(c)歴史書の編纂が命じられた。
●天皇制成立はいつか?
構想の段階ではあるが、天武10年(681)である。その年の2月、
(a)律令の編纂が命じられ、同日に
(b)草壁の立太子、3月に
(c)歴史書の編纂が命じられた。
(a)により、天皇と太政官の関係が規定され、これが、国家秩序の基本となった。
(b)により、草壁を擁立した不比等の権力が確定し、
(c)により、草壁系の天皇が神格化された。
結論として、天皇制は、681年、不比等の構想により、藤原氏が天皇を利用して権力を掌握するシステムとして成立したのである。神話はその一環であった。
●正しい歴史認識
それを安易に『書紀』に求めることはできない。なぜなら、記紀の編纂意図と深く関わる『古事記』序文では、その当時、すでに、諸豪族は帝紀と旧辞をもっているが、その内容は虚偽だから正せと言っている。
帝紀とは帝王系図である。新しい部分を付加するというのならともかく、過去の記述を虚偽と称している。それは、現王家の帝紀ではなかったからであろう。つまり、王朝が交替していたのである。
では、どのような歴史があったのか。重要なのは、一次史料によって語ることである。具体的には『隋書』(636撰)と考古資料である。それらによれば、600年頃の倭王は男で、強大な権力を持つ人物であった。都の飛鳥に残る遺跡は、飛鳥寺、嶋宮、石舞台古墳などすべて蘇我馬子のものである。それを蘇我王権と呼ぼう。しかし、記紀編纂を命じた天武は息長系である。つまり、蘇我から息長へ王朝が交替していたのである。それはもちろん、乙巳の変によるものであろう。こういう歴史を前提として神話を考えねばならない。
●神話の内容
複雑なようでいて、実は、整然とした三幕物である。
第一幕は、イザナキ・イザナミの国生み・神生みである。国土(葦原中国)の誕生であるが、神話の舞台設定に過ぎない。
第二幕は、その葦原中国でスサノオとその子孫のオオナムチ・大国主・八千矛らが活躍し、葦原中国は統一される。これが大和王権を意味することは自明であろうが、なぜか出雲を舞台としている。
そして第三幕は、その出雲の大国主の国譲りと天孫の降臨、そして天皇制の成立へというものである。
複雑なようでいて、実は、整然とした三幕物である。
第一幕は、イザナキ・イザナミの国生み・神生みである。国土(葦原中国)の誕生であるが、神話の舞台設定に過ぎない。
第二幕は、その葦原中国でスサノオとその子孫のオオナムチ・大国主・八千矛らが活躍し、葦原中国は統一される。これが大和王権を意味することは自明であろうが、なぜか出雲を舞台としている。
そして第三幕は、その出雲の大国主の国譲りと天孫の降臨、そして天皇制の成立へというものである。
問題は第二幕と第三幕であるが、このうち、明快なのは第三幕の天孫降臨である。不比等が擁立する草壁から始まり、その子孫の軽(文武)、首(聖武)の即位を説話化したものである。三人の皇子たちはみな不比等の傀儡で、首は不比等の娘の宮子の子である。
複雑なのは第二幕の出雲神話であるが、出雲大社で祭られている大国主はオオナムチを言い換えたものである。ナは土地(国)を意味し、ムチは主である。重要なのは、オオナムチという神と、国譲りという行為である。
まず、オオナムチであるが、神話に登場する神々の多くが、ストーリーの展開のために観念的に創作されたのに対し、この神は土地に根ざしている。
●オオナムチ=オオクニヌシとは大和国葛城の神である。
吉野に大名持神社があり、御所に大穴持神社がある。前者は、貞観元年に正一位となり大和最高の神格である。祭っていたのは、古くは葛城氏、その後は蘇我氏である。また、『出雲国造神賀詞』では、このオオナムチの分身が三輪の大物主、葛城のアジスキタカヒコネら大和の神々とされる。出雲神話の神々は、大和の神だったのである。こう見てくれば、出雲神話は蘇我王権のイメージを、国譲り神話は乙巳の変のクーデターでの息長王家の成立を明らかに象徴していると言えよう。刃物で大国主らを脅した神はタケミカヅチとフツヌシであるが、彼らは藤原氏の祭神として春日神社に祭られることになる。そして、その藤原氏が天武の皇子たちのうち草壁を選択し、これを擁立して実権を握るのが天孫降臨の神話である。これが天皇制である。とすれば、伊勢神宮も出雲大社も、蘇我王権の遺産を藤原不比等がとらえ直したものと見てよいであろう。
Image may be NSFW.
Clik here to view.![イメージ 1]()
https://blogs.yahoo.co.jp/iomiags/13698609.html#13698609Clik here to view.
吉野大名持神社
Image may be NSFW.
Clik here to view.![イメージ 2]()
Clik here to view.
正一位になったとき大神神社は従一位だった・奈良県最高位の社格で
祭神オオナムチは葛城地方の地主神である。出雲の神ではない。
出雲国譲りとは大和が、卑弥呼時代から続く葛城を牛耳った史実を出雲に置き換えた神話だと大山は言う。そしてKawakatuは、出雲を実際に奪うのは『日本書紀』継体大王に相当する飛鳥蘇我王権だと考える。
総論 神話と持統擁立、出雲・日向神話のあとづけ、虚構性のKawakatu解説
大王の古墳をあとから持統と不比等が造るなど可能だったか?また、畿内豪族たちはある程度機内の過去の歴史を知っていたのではないのか?という疑問を諸氏は持つだろう。また教科書を信じ込み、天武こそが確かに大和朝廷と律令制を作ったはずだ。壬申の乱は絶対に日本最初の革命だったとも信じる人はまだ多いことだと思う。だまされてきたのだ。学者も研究者もそれを読まされた民衆も、すべてが1300年間、聖徳太子像も含めて、延々と藤原不比等の魔術にかかりっぱなしだったのである。おめでたいことに、日本の歴史教科書や教師たちは、『日本書紀』にまったく疑いを持つこともなく、営々として、戦前のあやまった解釈もさることながら、戦後になっても嘘と虚構の神話と歴史を信じ込み、それが弥生時代から続いてきた、正しい日本と天皇の始まり方だったと思い込まされてきたのである。
オクニヌシが最初の近畿・葛城の開拓者だったと大山は言う。それを簒奪したものが天孫族つまり天皇家・藤原家であり、実際にはその王権交代劇とは蘇我政権が倒された一巳の変だと大山は考える。しかしKawakatuは、出雲簒奪とはそれより古い倭五王王権=吉備・出雲・筑紫連合の簒奪であり、そのことを前倒しして雄略の吉備・葛城王権簒奪として、責任を河内王朝に押し付けたとすら考えている。
吉備・葛城王家は、考古学的にはすでに3世紀後半には金剛葛城山系ふもとの、大和の西側から河内の東側~紀ノ川河口までを掌握した近畿最初のそれぞれ王家であり、その遺物は、魏志の卑弥呼の頃から存続してきたものだった。岡山の造山などの大前方後円墳後円古墳も、葛城のヒビキ遺跡も、彼らが邪馬台国の主要メンバーではないかと思わせるものばかりだ。これに奈良天理にある和邇氏の古墳・遺跡群をも考え合わせると、彼らの連合国家がすでに3世紀に畿内にあって、筑紫の奴国の助力を借りながら共立されたのが邪馬台国女王であろう。さらにそれ以外に、丹後、若狭、古志、東国・和歌山・筑前の紀氏、豊前の物部氏、中臣氏等々の、さきの勢力をも取り込まねば連合共立政権は存続できまい。
出雲に最初から神話のような国家があったとは思えない。日向にしても日向神話などと呼び習わしているけれど、神話の中心的現場は、今で言う薩摩地方であり、宮崎県は一切神話の舞台として出てこないのだ。つまり今の高千穂の神話的な神社や古墳や遺跡は、すべて記紀成立後に、持田古墳群の氏族が高鍋に入って作り出した記紀神話の幻影であろう。そしてそのことを知っていたのは、高千穂周辺に囲い込まれるように住まわされた山の民であった。ゆえに彼らは天皇家の貴種の子孫を堂々と名乗り、菊の御紋章すら使うものまでいたのである。これが「菊池」の招待ではなかろうか?熊本・宮崎・鹿児島の人々には、かなりショッキングな妄想説ではあろうが。
筆者Kawakatuが、これらをくまなく回ったあげくの、それが最終の答えである。鹿児島にもオオナムチを祭る神社がある。桜島の正面だ。薩摩半島と大隅半島の「またぐら」に当たる場所に鎮座している。つまり葛城や吉備同様に、薩摩の阿多・大隅隼人たちもやられた一族だとなる。両者が天皇の御前で相撲を取らされるシーンが『日本書紀』にある。ちょうど当麻と野美の相撲と同じで、王家への敗北と恭順の印である。意図的に書かれたのだ。そして阿多隼人は恭順し、大隅隼人はのちには滅ぼされたわけである。 まったく吉備・葛城の敗北と恭順・・・つまり出雲神話そのものである。そういう虚像の証拠品まで、不比等たちは、遠隔地にまで作った。だからその頃、なぜか突然、近畿では薄葬礼によって、氏族の前方後円墳の建設が禁止になっている。全国に大古墳を作らせねばならなかったからではないのか?しかし、まだ近畿に完全敗北していなかった東国だけは、どんどん大古墳を作り続けるのである。その墓の主こそが紀氏であろう。筑前・肥後から豊を経て吉備、紀州へ動いた海人族である。大谷や塚古墳の盟主でもある。おそらく淡輪もそうか?それが埼玉、群馬へと移住していったのだ。こうしたことが平安時代まで中央紀氏の立場を悪くさせた。最終的に貫之の左遷となって歴史に出てしまう。大伴氏もそうだった。
つまり3世紀からたどれば、邪馬台国は狗奴国に破れ、解体した後、倭五王が吉備に登場し、出雲を良港にして、畿内へ進出し、出雲というよりも伽耶に縁の深かった葛城と確執ののちに、両者ともに乗っ取られる。代償として妃を出せる=恭順した・・・これが出雲神話の正体なのだ。それは誰がやったか?雄略の河内王朝か?いやそんなものもなかっただろう。あったのは倭五王政権だがそれは邪馬台国から続く吉備の王権である。ならば一時的に葛城が吉備を押さえ込んだのか?彼らこそが神話の出雲建国の天孫・スサノヲなのではないか?それをオオナムチに禅譲した。=吉備・葛城勢力範囲が「スサノヲの子孫である葛城のあとつぎ氏族としての蘇我氏」ではないのか?
蘇我飛鳥王権こそは、3世紀から続いた邪馬台国の残照のすべてを解体した、新しい王権だったのだ。そしてそれを静かに乗っ取ったのが藤原氏である。いくさの実力のない文官である彼らには、先の王権の弱体化、あるいはカリスマ王の死によって、再び女帝を立てることで、歴史を虚像化することしかできない。そして、文字のなかった日本では、豪族たちも自らの正しい歴史をあまり知らないばかりか、中国歴史官を使ってそれぞれが作らせていた蘇我王権正当性の史書でさえ、焼かれてしまったのであろう。
『日本書紀』編纂のために不比等は風土記を早く知りたかった。正史のつじつまをあわせるため、また、各地の中央への思惑を知るためである。これも教科書では記紀よりあとに完成するかのようにしているが、実際はどうだったかわかったものではなく、しかもほとんどの「都合の悪い」つまり言うことを聞かない不都合な歴史事実をそのまま書いた地方の風土記は消えてしまったのである。焚書だろう。残されたのは、畿内大和朝廷に都合がいい、迎合した風土記だけだったのだろう。出雲国風土記でさえ、ほかより提出は遅れさせたものの、結局、畿内から送り込まれた出雲国造による指示で、記紀神話に祖語のないように改変させられたのは当然だろう。そもそもスサノヲなど出雲では小さな地域神でしかなかった。ところが大和では、天武・蘇我氏・吉備・葛城の役どころとしての災害神スサノヲが必要だった。災害神こそは日本民衆が最も畏れ続けていたたたる神であった。
卑弥呼に相当する持統女帝を、いったいどこからひっぱってきたか?え?そこまでやるか?と思われるだろう。しかし鵜野讃良は実は河内馬飼氏と天智の間の姫かも知れぬ。それが天武と結婚すればこんな都合のいいことはなかった。天智・大友善損勢力も、それなら納得するだろう。しかし実際に天智の娘だったかも、天武の嫁だったかも、わかったものではないのでは?
なぜ不比等は持統をアマテラスにまで仮託して、卑弥呼の直系と思わせねばならなかったか?
2へ続く
コメント投稿についてのご忠告
個人的意見は受け付けていません。それはあなたのサイトで展開してください。
筆者にあなたの意見や考えを押し付けないで下さい。
またこの記事で書いたことを、筆者は絶対間違っていない、今後ずっとそうだとは考えていません。考えはどんどん変化します。これまでも考古学の発見や、新しい見解で、意見は調整してきました。それは研究するものとして当然だと思います。ひとつの意見に偏ることはKawakatuにはありません。ですから、今の時点で、これが最も政治的歴史観としては矛盾がないと思うだけです。
感想はOKです。
でも、けなすことを目的に、卑怯にも、おのれの所在も知らさない書き込みが来ることがあり、迷惑します。そういう偏った人には返信もしないし、場合によっては即座にコメントを削除し、あるいは即座にここにさらし者にして、ほったらかします。しかもここのファンにしか見えないやり方で晒し首にしますから。ヒトの家に土足で踏み入るような真似は決してされませんように前もって忠告しておきます。わたくし、新聞社に編集部長の同級生がおります。どうなっても知らんですから。
また大山氏の意見とKawakatuの意見を混同されて、大山氏にご迷惑がかかるようなへまもご遠慮ください。大山氏意見よりKawakatu意見のほうがかなり大幅に過激です。それにちゃんとよく読んでください。いい加減に読んで誤解した意見がたまにあります。どこ読んでいるんだ?みたいな。つまらんこと書いたらあんたが恥書くだけやで?ええな?