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神話と天皇 その2 なぜ伊勢か、なぜ持統か? 藤原氏は百済王


大山誠一はあくまでも文献政治史学者である。だからどうしても『日本書紀』記述の大きな流れである持統以前の大王たちは「存在した」という前提からははみださない。Kawakatuのように、激しく、持統以前の大王たちも不比等の創作ではないか?とは疑うことはない。そこが彼の弱点でもある。
ここは百歩譲って、一旦、彼の論考に従っておこう。
なにしろこの記事たちは、大山の説を紹介するのが大目的だ。
ただし、大山は蘇我氏以前の大王についての解説をあまりしていない。これでは通史とはいいにくかろう。そこだけKawakatuの説を書いて、神武から持統までを軽く流れをつかんでおいていただこう。


その前に、持統と伊勢の不比等にとっての意味である。


●なぜ女帝、なぜ伊勢だったのか?
『日本書紀』は第10代崇神天皇が、大物主の祟りを畏れ、また度重なる天候不順を理由に、宮廷内で祭っていたアマテラスの神霊を、大王家の女性巫女(斎王)によって伊勢に移したことにしてある。同時に大倭氏が祭っていた大和の地主神も社を移されたとある。これはどう見ても・・・

1 崇神時代ではなく持統時代のこと
2 二つの神のご神意では三輪山の大物主=オオナムチ=蘇我氏の祟りを抑えきれないと言っているようなもの

ではあるまいか?つまり両者は不比等によって、丁重によそへ追いやられたと見るのがよかろう。なぜ不比等はアマテラスをクローズアップしておきながら、伊勢と出雲にアマテラスとオオナムチを追いやったのか?

大山ははっきりと言う。藤原家にとって『日本書紀』は、天皇のためよりも藤原氏の将来のためにあり、天皇を神格化したのは、自分たちの政治が、天皇と言う旗の下でやりやすくなるからにほかならないと。

だから、持統がいくら『日本書紀』影の皇祖である天智の娘であろうと、大和畿内には自分たちの最重要な春日の神さえあればよい。アマテラスは東国のにらみを利かせる伊勢へ流し、オオナムチは西の鬼門である出雲へ流せばよいのだ・・・。

1 確かに、葛城族にとって出雲は王であった伽耶国の目の前であり、伊勢は東海の雄であった尾張氏の範囲を通らずに知多半島三河へ渡れる志摩がある。

2 出雲へは、不比等は国司として忌部子首を送り込み、鹿島と香取の茨城へは、三男で藤原家のホープである宇合を送っている。鹿島と香取を取り込み、タケミカヅチとフツヌシを国譲りの先鋒として描くことは、天皇の神格化と大和王朝の正当化だけでなく藤原氏が一番優位になる。しかし、大和藤原氏の春日の神は天児屋根であり、茨城のタケミカヅチではない。なぜだ?後述。

3 不比等が持統を担いだ理由は二つ。

 A 傀儡としての女帝・・・持統から文武まで天智の娘の女帝三代と、体が弱い年少の文武が続き、政治的にはまさに傀儡である。文武にいたってはまるで秀吉にとっての信長の幼い遺児サンボウシである。いないのと同じである。勝手に政治ができる。

 B 天智の娘であること・・・藤原不比等にとって皇祖とは天武ではない。あくまでも影であるが、『日本書紀』は太安万侶の『古事記』とは違い、天武よりも天智にしている(過去論じた)。するとなぜ不比等が天武の子である草壁血統にこだわるのか、矛盾してくる。大山は草壁血統が重要だと書くが、Kawakatuはそうは思えない。不比等は天智の血脈を引く持統とその親族にこそこだわったのだ。天武よりも天智の血統と、さらに息長系譜にこだわっていると見える。この部分は大山論考の弱点で、そのあとの第三章あたりは、いささか?なところが目立っている。


『日本書紀』の中では持統本人が伊勢にこだわり、また天武と共に壬申の乱では伊勢に遥拝させているが、こんなものは創作である。壬申の乱も考古学的遺跡がまったくない。単に藤原氏と同じ海人族、特に息長氏の血脈を重視している。その理由は、継体大王と神功皇后の河内王朝をそれぞれ正当化し、息長氏の血脈に妃氏族としての正当性と拍をつけるためである。そのわけは出雲なのだ。出雲を港にして、筑紫を無視して半島と付き合える。それは継体と同じ理由で、息長氏がそのための重要な舟を持っていたからである。これらの先の大王家を、絶対になにがなんでも持統と結び付けねばならなかった。たとえ無関係でも、飛鳥蘇我王家との違いを言うがために、息長氏が必要だったのだ。たとえそれがうそでもである。

なにしろ息長氏の系譜はなにがなんだかわからない。大事な系統図の分岐点で、いつも彼らの影がうろうろするのである。河内王朝の母親が神功皇后で息長と葛城の娘。継体登場でも、継体は神功皇后の子供である応神天皇の孫で、息長氏と福井の三尾氏から出ている。であるのに、それ以前には京都の綴喜郡の大筒木王族しか言及がなく、持統以後も息長氏はどこにも出てこず、何もしていない。天武の子供の高市皇子の母であった胸方氏のように、天武に尼子娘を出して一時的に隆盛した氏族とも違い、今の天皇家の大元の母方のまま名前だけが延々と存続している。これも奇妙である。存在感がまったくない氏族が1000年間も天智・天武系の天皇家の母方のままだ。なのに渡来系だった桓武の母親(高野新笠)はほとんどさらりと受け流されている。


●アマテラスは不比等一族にとって必要だっただけ
アマテラスが重要だったのは藤原摂関家だけだった。あとは明治政府、昭和軍部だけである。天皇の参詣も久しくない。女帝の時代だけ伊勢は重視され、あとは政治的に、日本人の特別性、神聖のために利用されただけである。

つまり明治政府も昭和軍部も、藤原不比等の1300年前の深謀を利用して、国民をたぶらかしたのである。江戸時代のお伊勢参りなどは、休暇のなかった民間から流行った観光地でしかなかった。それも、旅をする、はめをはずすために皇祖を利用したに過ぎない。おてんさんの祖先にお参りに行くなんてことは、「ええじゃないか」と同一線上にある糞理由にすぎなかった。実際、京の人間以外で天皇の存在をしっていたものなど皆無だったのだ。


伊勢内宮のご神体は鏡でしかない。しかも九州の伊都国と奴国のはざまにある平原(ひらばる)遺跡と同じ内向花文鏡だと思われる。つまりそれが太陽である。だからアマテラスなのだ。しかし外宮の神は度会(わたらい)氏が置いた豊受という「アマテラスの食係」の神である。内宮が中国の都に従ってきっちり真南をむくのに、外宮や各地の多くの神社はまったくそれにこだわらない。むしろ東西の夏至を意識した神社が多い。出雲大社などは格好だけは南向きだが、中のオオナムチは大和に背を向けて西を向いていて、そこにはしっかりと蘇我の神が置かれ、北側はスサノオで固めてある。そもそも伊勢の神が太陽神であるなら、なぜ人麻呂は草壁哀悼歌で、なぜ日女の神と謳ったのかである。太陽神なら陰陽五行でもエジプトでもギリシアでも男神のはずだ。そして不比等は神武という皇祖天皇も日向から出たとしている。なぜ九州に黄を使うのか?それも最古の王家があった土地だったからではないか?そもそも神武から天武までの系譜はなかったのではないのか?『日本書紀』は、せいぜい100年の記憶を、ばらばらにして違う話として、神武から飛鳥時代までに、何度もちりばめたのではあるまいか?それ以前はからっぽではないか?知らないのではないか?

●なぜ太陽神が女神か?
物部氏の旧事本紀では太陽神は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊で、男神だ。この天では、旧事本紀のほうに整合性がある。その天照日女神と人麻呂が言ったのは、まさにその諡号をいただいた持統天皇にほかならない。

「持統天皇(じとうてんのう、645年大化元年) - 703年1月13日大宝2年12月22日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(686年10月1日朱鳥元年9月9日称制。在位:690年2月14日(持統天皇4年1月1日) - 697年8月22日(持統天皇11年8月1日))。は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の703年(大宝3年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の720年(養老4年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。 」Wiki持統天皇より


高天原廣野姫天皇・・・まさに高天原=天の世界の女神である。つまりそれを伊勢では「大日孁貴(おおひるめむち」=アマテラス
としているのである


だから柿本人麻呂は天武の息子の草壁の死のときに、母である持統を「ひるめのかみ」と詠まされたのである、不比等に。その意味は「ひめがみ」である。つまり卑弥呼でもあるとしたのである、不比等は。これは宇佐八幡の比売神と同じ神だ。


―日並皇子(ひなみのみこ)の尊の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
  天地(あめつち)の 初めの時し 久かたの 天河原(あまのがはら)に
  八百万(やほよろづ) 千万神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して
  神分(かむあが)ち 分(あが)ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(持統)
  天(あめ)をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を
  天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と
  天雲の 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし
  高光る 日の皇子(草壁あるいは天武)は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に
  神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と
  天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ
  我が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知ろしめしせば
  春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと
  天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて
  天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか
  由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し
  御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず
  日月 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも
反歌二首
久かたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
  あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも(万葉集・挽歌)

なぜなら日本最初の女王であるから、持統の正当性を言うのに絶好。決して実際の最古の王であるはずの奴国王ではない。女性だからだ。そして人麻呂は草壁の死が暗殺であることを知ってしまう。ゆえに石見に流され殺された・・・。

草壁も人麻呂も、また長屋王も、暗殺の首謀者は不比等、下手人は秦氏であろう。神話の破綻は絶対に起きてはならなかったのである。物部氏と高橋氏(膳氏)という吉備根ざした邪馬台国メンバーだけが秘書を書き残し伝えてきた。

奴国王だったとするなら天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊のほうがふさわしい名前である。この神は奴国の盟主がのちに筑紫物部氏になったことのあかし的表現となるから、ニギハヤヒも本当にいたかは不明である。大和最古の氏族は、祖神を椎根津彦とした大倭氏であろう。その神は大和国魂神と言う。海人族で黒塚古墳がその墓であろう。大和神社祭祀者。



隋書の聖徳太子の国書の条では、倭人の使者に煬帝が、倭王の政治についてたづね、使者はこう答える。
「倭王は天を兄とし、日をもって弟とし・・・」

なぜ日である太陽神が、天を兄とするのか?すると人麻呂の歌の天照す日女神尊は、なぜ息子あるいは夫である草壁や天武の日の皇子より上におかれたのか?矛盾してしまうと大山は言う。

●『古事記』は推古まで、『日本書紀』は持統即位まで
『古事記』は推古までしか書いていない。太安万侶の序文ではあれほど天武を礼賛しているのに、オケ大王以下は簡単に流し、もう諸氏が知っていることだとしてある。なぜ天武まで書かないのだろう?また『日本書紀』は持統即位で終わっている。いずれもかなり天皇についてはルーズで、大事なのは神話である。しかしそれとて朝鮮の建国神話のほとんど写しで、天孫降臨などはっきり韓国に向かい、とか、くしふる峰と、そのまま使ってある。壬申の乱も、はっきりいって、中国のそっくり写しで、本当にいくさや革命があったのかわからない。出てくる氏族はみな海人族の頭領であふれている。全員、百済を助けて白村江で戦ったものばかりなのだ。それは『日本書紀』に反映したはずである。氏族も、一行でも国史に名を残したい。少々のうそはちゃんと飲み込んだだろう。まして100年以上前のことを書き残す風習もなかった。


●伊勢の猿田彦の必要性
そして伊勢にアマテラスを祭る前例として、伊勢の地主神である太田命の祖先である猿田彦が天孫降臨に登場。ところがニニギを日向に送って、自分だけは猿女君とともに伊勢へ帰る。つまりちゃんとアマテラスの受け入れ態勢をやっときますね、という表現だ。ところが伊勢の地主であった太田命はしぶしぶ五十鈴川の神域を譲ったのである。


伊勢の人にとって、当時、アマテラスさんってなんやねん?であっただろう。いきなり8世紀に成って、天皇?なんやねんそれ、の皇祖神だから?なぜ大和じゃあなくここなんだ????である。

ところができてしまえば貴重な収入源。全国区の日本一の大神宮である。誰も文句は言う筈もなくなる。それにしても、持統さんもなぜ伊勢なんぞにわらわの親神を?と思ったのではないか?

不比等にとってはアマテラスは魏志の卑弥呼であり、臺與なのだ。そしてその役を演じる主役が女帝持統であった。そのことは絶対に納得させねばならぬ。


『日本書紀』編集者の一覧を見ると、筆頭の親王は肩書きだけとして、次が不比等、あとはどこの馬の骨かもわからない、ノット中央貴族である。物部(石上)も大伴も、先住貴族は一切ない。つまり全部の抵抗勢力をシャットアウトして、中国人文官の薩氏と黄文氏などの百済・高句麗系渡来人で固めてある。これなら不比等の独壇場である。

蘇我氏が作らせた帝紀・国紀などは焼かれてしまい、物部氏や高橋氏だけがひっそりと氏族の記録を残したが、あとからさんざんに手が入って、今では偽書扱い。わずかに残る真実部分すら誰からに信じられない状態に。要するに学者たちも恐れ多くてなにもいえないから、宮内藤原氏の言うがままだったのだろう。


藤原氏に一時的に対抗したのは橘氏だけだったと言っていい。平安末期になってやっと清盛、さらに足利などが口出しし、藤原氏は隅へ追いやられたが、戦時中また復活するのが近衛家だった。


●藤原鎌足と摂津児屋郡

 津の国のこやとも人を言ふべきにひまこそなけれ葦の八重葺き(和泉式部)

伊丹市昆陽(こや)のことを詠んだ歌である。旧摂津国武庫郡( 後に河辺郡)児屋(小屋)郷あたりの野。和名抄」によると賀芙・児屋・武庫・石井・曽弥(曽禰〔そね〕)・津門〔つと〕・広田・雄田の8郷からなる。


「こや」は藤原氏の所領である。藤原氏の祖神は天児屋根命。つまりこの神は近畿における中臣氏の集住した故郷を名にもつことになると大山は言う。

ではなぜ春日大社には常陸の鹿島の神であるタケミカヅチと、香取の神であるフツヌシも祭られるのか?鹿島のタケミカヅチは本当に藤原氏の氏神なのか?


記録では、鹿島にタケミカヅチを祭ったのは中臣●子と中臣部なにがしの二人であるとあり、鎌足以前である。鎌足は中央中臣連だから、貴族。一方常陸の中臣は部民である。この時点ではまったく鹿島神社は中央中臣氏とは無関係だった。ところが中臣●子とは鎌子のちの鎌足であるという、まことしやかな説が定説となり、鎌足は東国出身であるとなっていった。しかし向こうは部民の勧請した神社。まだ社格すらない祠である。



●なぜ藤原氏は、鹿島と香取を、神話の由緒ある神宮にするのか?
すべては神話ありかだと大山は考える。宮中で不比等を中心に練り上げられた、天皇の神格化によって藤原の安寧を画策した『日本書紀』。それにあわせて、鹿島と香取の神を『日本書紀』国譲りに持ってきたと。いささか強引であるが。いずれにせよ、藤原宮の土地はもとは葛原という湿地帯で、おそらく中臣氏の所領であろう。ゆえに不比等は藤原を名乗ったのだ。父・中臣鎌足が実在していないと大山は暗に言っている。始祖としての神格でしかない。つまり一巳の変を皇極・孝徳と画策したのは鎌足なんぞではない。不比等だったのだと。


Kawakatuは以前ここで、鎌足は百済王豊璋であると書いた。それが藤原氏の正体であると。中臣とは無縁な、敗北百済王がひそかに日本へ戻って摂津児屋あたりに隠棲。飛鳥時代にいつのまにやら近畿に登場して、隠れ蓑として中臣の養子か何かになっていたのでは?新羅や唐の追っ手があるかも知れないから姓も変えていたのであろう。その後居住地を三島に移し、筑紫交易を経営。結果として中央につてができ、天智天皇の参謀となり、最後は山科へ隠棲。不比等がなぜ天智血脈にこだわったかの
理由はこれだろう。消えてしまった百済王家を天智天皇が援けたからだ。


となると?
困ったことになった。
日本の天皇家を作り、律令国家を作った人とは百済王の子だったこといなってしまった。どうしよう。あはははは。



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