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砂漠の思想  アラブを理解するために


砂漠を舞台にした芸術と言えば、誰でもまず「アラビアのロレンス」を思い浮かべるだろう。

1926年から18年にかけての「アラブの反乱」を背景にした映画だった。

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アラブがオースマン帝国の支配から独立し、アレッポ~アデン一帯に独立国家を樹立しようとしたのを、英国の軍人ロレンスがそれを援助するお話である。

この映画と、ほかに「ロード・ジム」「天地創造」「おしゃれ泥棒」などなどの映画は、ロレンス役だったシェイクスピア舞台劇の俳優・ピーター・オトゥールの名声を思春期の筆者に教え、大ファンにさせるに充分だった。


筆者は大学で、かれを題材に小論も書いた(「ピーター・オトゥールのイリュージョン」)し、「アラビアのロレンス」の中で、新聞記者に砂漠のどんなところが好きかと聞かれて、こうつぶやくのを覚えている。「清潔さだ」。

考えてみると、筆者の卒論も、砂漠の思想をテーマにした「砂の女」の作家・安部公房であった。彼は戦後文化人がみなそうしたように、右から左へ一気に傾倒し、そして挫折し、転向してから作家に変身した、もとは詩人である。イデオロギーとか、日本的な主観的・湿潤なる視野や脳みそでは理解不能な物質化してゆくく現代日本を、カメラの目でドキュメントすることによって、それまでは処女作で芥川賞作品の『壁』的な、ただのアイロニー・風刺SF小説家だった安部は、現代をドキュメントと写真の目で切り取って整理してゆく世界的なシリアスな哲学的大作家に変身したのである。その第一歩が鳥取砂丘からだった。大江健三郎はアカデミー賞受賞時のインタビューで、本来ならぼくではなく三島さんや安部さんがもらうべき賞だが、と述べている。



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佐々木成明がまったく同じことを書いている(『砂漠芸術論』環境と創造を巡る芸術人類学的論考 彩流社 2018年10月)。

「砂漠では病原菌さえも生存できない。清潔な状態が保たれていて、実は快適な生活が約束されている。それほど砂漠にはなにもないのだ。しかし、ロレンスがいう清潔さとは、もちろんそんなものではなく、もっと多くを含んでいるのだろう。砂漠は病原菌どころか、人間の命さえも否定する。生と死が同等のものとして扱われてしまう。人間の尊厳や政治的な思想さえ、砂漠は飲み込んで浄化してしまうのだ。」(p8)


砂漠の一見してそれとわかる造形は「人間の生存が危ぶまれる環境と捉えられている砂漠の風土と深い関係を持っている。あるいは砂漠独特の環境で得られた霊性につきうごかされた芸術家たちによって創造された作品であった。」(p9)


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砂漠は不毛の土地だと誰もが思っている。
しかし、古代の文明はここで生まれた。そしてそこが森林から砂漠へ変化してからも、なお、長い間そこには文明が居残れた。四大文明のチグリス・ユーフラテス流域で最初のシュメール文明が生まれると、同じく砂漠からエジプト、インダス文明が生まれる。ペルシア文明も砂漠の所産である。もちろん中心に大河が流れていたからでもあるが、おしなべて周囲は砂漠であった。黄河文明だけは現在、砂漠によって埋め尽くされるまでの幸運なひとときを謳歌しているが。

なぜそこが砂漠化したかは、地球の歴史を調べればわかる。ヒマラヤ、偏西風、温暖化時代、などがヒントである。というよりも地球の北半球のそれは運命である。人類がアフリカを出ることになったきっかけも、人類そのものが森を出たのも、ほぼ同じ地球環境の結果である。つまり人類は、その誕生の前から、地球と言う摂理に、翻弄され、ないがしろにされ、小さくなって隠棲しながら、どうにかこうにか存続してきた。ところが砂漠では、彼らなどひとたまりもなくカラカラになっていたはずだ。しかし、われわれは乾燥を乗り越え、生きながらえ、近東、中近東を目指した。


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すべての文明は近東・ないしは中近東に始まり、そして東西南北へ拡散した。

ギリシア文明を発展させたのは、ひとえにオースマン帝国の欧州侵略のおかげであった。砂漠の文明は、芸術だけでなく、冷徹無比な客観的科学も生み出し、それらがギリシアという豊かで、不自由のない環境に生きてきた欧州人を、痛めつけたと同時にカルチャーショックを生むことになった。それがキリスト教自然主義や科学やルネッサンスの始まりだった。オースマン帝国の野望がなければ、欧州はいつまでものほほんと、温暖で乾燥した、欲求を生まない風土の中で、原始人のように暮らしていただろう。欧州ホモサピエンスがネアンデルタールとすぐ交配したのは、その風土の持つ、なんてこともない危機管理性を必要としない豊かさのせいである。アジアのバイカル湖やデニソワでの混血とは根本的にそれは違う。北アジアは偏西風を直接受けて、つねに寒風の吹きすさぶひどい環境で、誰でもいいから体を温めねば死に絶える世界だった。お人よしの白人異種どうしの好奇心による愛欲とはわけが違ったのである。


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一方、南アジアは仏教や道教を生むような、湿潤で豊満な森林によって、自然は神であり、切り開くものではなかった。そのために砂漠の民とは正反対の、霊的生き方ができた。つまり豊か過ぎることで生まれる、あいまいさ、ひとつの答えを出さない生き方である。

砂漠は、しかしそのような豊かで鷹揚な、人間をなんとなく生かしてくれる場所ではなかった。都市を築けるのは河川の沿線だけであり、一歩そこから出ると、灼熱と乾燥とさそりやサイドワインダーガラガラヘビの巣食う地獄だった。ゆえに規律は厳しくせねばならない。タブーは増えた。決して外界へは出て行かないように、戒めをどんどん増やすしかなかった。それはアジア以上に、人々の精神を古代に閉じ込めた。

欧州の結界は遠くにあった。そこそこにヨーロッパは広く、しかしアジアほどは広くもなく、ほどよい世界で、人々はそれぞれに適地を探して住むことになった、だから今も尚、国々がちまちまと存続できている。だからそこで育った科学や芸術は「ひとりよがりで、偏狭で、他者をさほど気にやるものにならず、勝手なものになった。そのよそから見ると、なんとも腹が立つようなのんきで、冷徹なくせに、イスラムほどの厳格さを持たない宗教観や科学は、戦争のための侵略や、植民地主義や、反面で哲学やを生むわけだろう。一見、明るく、闇のない・・・ちょうど明治の維新政府のよなお人よしぶり・・・しかしその世間知らずで、悪い環境に興味のない、両家のおぼっちゃまのような能天気さこそは、他の世界の人間から見ると、おそろしきフランケンシュタインだったのである。


アジアは広大で、東西だけでなく、南北に環境がいくつも分かれた。モンスーンに翻弄され、北側ではブリザードによって、目鼻や顔や体型まで大変化させて生き残ったが、南側では温暖と湿潤すぎる熱帯森林の中に埋もれて、これまた河川沿線で、舟を用いて、いつでもひょひょい手に入る魚介によって、ただ同然の生活が存続できた。
仏教も豊かなパミール高原で、王族の王子の、生活は保障された、孤独でおたくな瞑想によって開始された。なんともそれは今の日本の田舎の田園風景のようで、永遠に田舎の思想で、太陽と風と月をながめてばかりの悠々としたものだった。しかしその代わりに、夏秋の暴風は人々をたくさん殺し、食べつくす魔物ではあったが。



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そういえばついでだが、今日は、70年前に起こった和歌山・高知の昭和南海地震(M8、震源地震度6、深さ120m)の起きた日である。この正月は、なにかが起こる気がしている。




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