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近畿の百済王国と蘇我氏・東漢氏と檜前宣化天皇の関係


●奈良の百済地名
北葛城郡広陵町の東部はかつての百済村である。
葛城川と曽我川に挟まれた地域。

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また北百済村(きたくだらむら)がかつて大阪府住吉郡・東成郡に存在した。また大阪府枚方市から交野市にかけては、百済王族が住まわされた土地である。そこに継体大王の樟葉宮があったからである。

近畿地方にはこのように、飛鳥時代以前以後の渡来による、百済由来の土地がいくつかある。

その最古で、本貫地だったのはやはり広陵町の百済である。
百済川、百済寺が今もあり、『日本書紀』では百済大井宮、百済宮、百済川、百済大寺と記録がある。

また蘇我氏はここを出自としており、宗我坐宗我都比古神社(そがにます・そがつひこ・じんじゃ)もこの地域にある。神社名から察するに「そが」氏の表記は本来「宗我」が正しそうだ。また曽我川地名からも、少なくとも「蘇我」表記は『古事記』『日本書紀』以来とも思われるので、蘇我は滅ぼされてのちに、滅ぼした側から変えられた氏族名であろう。なぜ蘇我になるかを考えると、殺され、滅亡させられた蘇我氏を、西の方、遠隔地の出雲に押し込め、祭り上げたことと関係がありそうだ。「我蘇る」という氏族名は、むしろ殺した側から見て「反再生」の意味を隠してある良文字表記だと考える。呪には、そういうやりかたもあったのだろう。持ち上げておいて、実は貶める手法ではないか?

実際は「宗我氏」が正しいのだろう。「我こそは宗家」となる。
出雲神話でオオナムチ=オオクニヌシの前に三輪の大物主が現れて、「自分はお前の幸魂である」とかんんとか言わされる。そして大国主は築杵(今の出雲)大社だけでなく、三輪山にも祭られたいとかぬかす理由は、これだ。オオナムチ=蘇我氏=物部氏を滅ぼした・・・そして結局は大物主やニギハヤヒ同様に蘇我氏も殺されたからである。同じ、敗北した先の大王家だからである。ともに祟る鬼になったのである。
三輪山大物主=出雲オオナムチ
物部氏=蘇我氏=敗北祟り神
という構図になっている。



北葛城郡広陵町は大和高田市を挟んで葛城氏の本拠地御所市に隣接する葛城山の麓にあって、巣山古墳が有名である。葛城・紀氏の支族であった巨勢(こせ・許瀬・許背)氏がいたところだ。

 蘇我氏は「飛鳥時代には孝元天皇の孫とされた武内宿禰(たけしうちのすくね・「古」は建内宿禰)を祖先とし、その子石川宿禰を起源として豪族・蘇我氏が誕生したという説話がある。が、実際には朝鮮三国のひとつ百済から五世紀に渡来した木満致(もく・まんち、木羅満智。百済将軍の羅斤資の子で、百済の国政を執ったとされる。)
が、大和の曽我に居住し・・・蘇我氏として仏教を広めた」(前田憲一『祭祀と異界』渡来の祭りと精霊への行脚 2015、P32)

民俗学の前田が言うことだから、それが正しいかどうかは定かではない。しかし、木羅満智と蘇我満智の名前が同じであることはよく昔から言われてきたことだ。いずれにせよ、蘇我氏が百済から渡来して、北葛城に住んだがためにそこは百済村となったのだろうとは思う。そして木という朝鮮氏姓は、日本の紀州の、伽耶由来だろう紀氏(きの・うじ)がもとはやはり木を氏姓としていたことに通じるかもしれない。同族である葛城氏も伽耶由来氏族であろうことは疑いがない。


彼らは文献上同族で、武内宿禰の子供にしてあるが、来歴は伽耶から日本海、あるいは九州を経て太平洋周りというふうに、違いがあるように見える。ならば共通の到達点であった近畿の、南は紀ノ川から北は葛城山山麓の狭い地域で共存したことで同族になった氏族だと言える。

「最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」門脇禎二

秦氏や東漢氏がそうだったように、姓が同じだといっても上下、ピンからキリまであって、階級に関わらず家族なのであって、全員が同じ氏族名を名乗るし、そこには血縁がない。あとから秦氏になったってかまわなかったのである。


こういう家族的家長主義的な族は、特に珍しいわけではないが、朝鮮に由来するのであろうが、そもそも縄文時代でもそういう助け合い共同体(ゆいとか輪中とか言う)ものなら、あちこちにある。


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檜前の漢系渡来氏族も同じである。
東漢氏(やまとのあや・うじ)が入ったことから、高取町明日香村檜前地域も、百済系蘇我氏と関わって生きてきた。彼らも、かつては新羅系だとか百済系だとかにこだわった分析があったが、考えてみれば、半島から逃げてくる彼らにとっては、日本で出会って同族になるわけであって、半島のどこから来たかはその後なにも意味がなくなっただろう。半島のそこらじゅうから、高句麗も含めて、異国へやってきて、言葉も通じない。ならば誰だって、心細さから出身国などどうでもよく、言葉が同じなら手をつないだ・・・こんなことはちょっと自分に立場を置き換えればわかることだったのである。

いずれにせよ漢氏も秦氏も、王族だけは中華の大帝国を名乗ったのは、そもそもが中国に祖先がいたのだと考えても特に違和感はない。現代日本にさえ、百済王の余を名乗る女優や、南を名乗る女優がいる。それぞれ半島にたどり着いた中華のなにがしの子孫なのである。舟での移動や、国家から派遣されて、半島の争いから仕方なく日本へ逃れた人は少なくなかった。だから今の日本人もいると考えたほうが、世界的に見て当然であるし、差別も消えるだろう。差別なんかは原始人がやる野蛮な行為だ。

檜前於美阿志神社(おみあしじんじゃ)
漢氏の祖・阿智使主(あちのおみ)を祭る。

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さて、檜前には蘇我稲目が住む事になって、以来、東漢氏たちは蘇我氏の配下に納まるようになるわけだが、ここにはなぜか継体大王の子供だった宣化大王(たけお・ひろくに・おしたて、武小広国押盾)の檜隈廬入野宮跡がある。六世紀中葉のことである。於美阿志神社鳥居横。檜隈寺跡

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この諡号の最初の「たけお」は武内宿禰のことである。つまり、宣化とは蘇我氏の大王である。だから父親の継体も蘇我氏である。これが蘇我大王一家である。だから継体は『日本書紀』がうそを書いたように、日本の北陸の三国とか、滋賀県坂田郡とかから大和に入った大王ではない。半島南部にいた紀氏の舟で、佐賀県武雄にでも入って、だから武内で、山下影姫という紀氏の娘なんぞを嫁にして、豊後から吉備、阿波経由で紀州淡輪に入ったのだ。

前々回、石渡理論で書いたように、継体一族は百済王余一族の分家なのである。

朝鮮が中国東北部の波乱や中華王朝の帝国主義領地拡大政策によって乱れ始めて以降だろうが、避難すべき二次的な土地を探し始める。そう思うのは日本でも天武・持統が長野の諏訪などに副都心を求めたことがあり、不思議な話ではないのだ。

当然、半島の南端にある伽耶や百済から見て、海を隔てた日本列島は最適。それで百済王昆支が考えたのが、弟である東城王を、もしも本家が高句麗に敗北したときのために、分家として、まずは筑紫に土地を求めさせて、佐賀県の吉野ヶ里三田川に入れた。そこで息子武寧が生まれた。これが倭五王最後に伽耶吉備王家の四人をぶっ殺して政権奪取した武王=ワカタケル=雄略だ。

しかしもうひとり息子がいた。長男余紀である。気性の荒い弟・東城王=雄略・武烈だったから、念のためこれをやはり日本へ向かわせた。伽耶や慶州や光州にいた紀氏の舟でである。すると最初につくのは紀氏の本拠地筑後川であり、そこも半島に近すぎて危ないとなったら次には紀州紀ノ川河口部の淡輪である。だから日十大王の鏡は隅田近辺の山中に埋まっていたのである。そこが紀氏や葛城氏や蘇我氏という同族のメッカだったからにほかならない。東部にあった物部氏や和邇氏や大倭氏ら先住豪族の土地である三輪ではないのである。

継体と宣化が蘇我氏ならばもうひとりの弟安閑も蘇我氏ということになる。

『日本書紀』は絶対に蘇我氏が継体以来の歴代天皇だったなどと書くはずはない。それを滅ぼした藤原氏が作った史書なのだから。

蘇我氏は・・・つまり余紀大王以下は、つまり『日本書紀』が言う蘇我稲目のことだが、丁未の乱の前に物部と廃仏崇仏でもめたことになっている。そして馬子と聖徳太子が守屋をついに殺してしまうと。これが丁未の乱だ。

真実は違う。
宣化つまり蘇我稲目と欽明=馬子が、物部大王家をぶっつぶして、政権交替したのだ。

百済分家王家が伽耶王家を滅ぼしたのである。それを今度は藤原摂政家が滅ぼすのが一巳の変・・・と書かれているが、そんなクーデターは実はしていない。不比等は観念的に政権交代を成功させるのである。それは大王を担ぐという錦の御旗思想でであった。百済王家分家である継体三代の出自が息長・三尾であるとする。その直系が天智・天武・持統であるとする、すると継体と天智以下の息長王家は同族になってしまった。つまり正当な王たちだ。ただそれだけでよかった。

では入鹿は殺されなかったのか?

一巳の変はなかったのか?


なぜ蘇我大王家は滅んだのか?


次回お楽しみに~~~。





















雄略・・・蘇我満智=木羅満智
継体=欽明・・・蘇我稲目
宣化・・・蘇我馬子
安閑・・・不在で欽明の父で結果的には『日本書紀』息長血縁のための架空の存在
敏達・・・息長広姫がとついだことにされただけの架空天皇
その子聖徳太子・・・蘇我入鹿
蘇我倉山田石川麻呂・・・天智が生まれるための蘇我架空別宅
持統・・・斉明と中臣某の子供で、天智の娘にされて不比等が担いだ最初の天皇
日本・・・蘇我氏の所領だった大和全域の別名。ひのもと。つまりひのくま。



面白いですか?
想像の翼、広げて読んで臭い。くさいなあと思いつつ。



百済系大王の墓には阿蘇ピンク石石棺が置かれている。
今城塚、造山、植山、甲山・・・

淡輪古墳群にもあるカモシレナイ。そして継体の墓が今城塚ではないかもシレナイ。













































































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