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動物たちの出身地 その1/ラクダ・ガチョウ

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動物たちの出身地 その1/ラクダ・ガチョウ

ラクダは中東砂漠が派生本だと、あなたは思っていないだろうか?
「ラクダ科の生物の現在の分布は、過去の分布とは全く異なっている。北米原産との説が強く、また一時は北極圏にもラクダの仲間が生息していた可能性がある[3]。
ラクダ科の生物は約4500万年前、始新世後期、偶蹄目の進化のごく初期に現在の北アメリカ大陸に現れた。ラクダ科に近縁の、最も古いラクダ亜目の生物にはウサギほどの大きさのプロティロプスがおり、四肢に4本の指を持っていた。漸新世までには側指が失われ、ヤギほどの大きさのポエブロテリウムなどが現れた[4][5]。

 
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ヒトコブラクダは西アフリカにいる
フタコブラクダは中央アジアにいる




●ラクダ科の生物の起源と移動
その後ラクダ科の生物は北アメリカ大陸で分化を続けた。2〜300万年前ごろにはラクダ科の生物が初めてアジアに現れ、パナマ地峡の形成とともに南アメリカ大陸にも移動した。北アメリカ大陸のラクダの仲間は、氷河期の終結する時期に最初のヒトが移住したのと同時に姿を消した。絶滅の理由は狩り尽くされたためとも環境の変化に適応できなかったためとも考えられる。ユーラシアではラクダ属の生物が分化を続け、南アメリカでは互いに近縁の4種、ラマ、アルパカ、グアナコ、ビクーニャが生き残った。
 
化石種の生物は、現存するラクダ科の生物よりもはるかに多様な形態を持っていた。北アメリカのティタノティロプスは肩までの体高が3.5mもあり、最高でも2mほどの現在のラクダよりもはるかに大きかった。ステノミルスはガゼルのように華奢な生物で、蹄を持っていた。アエピカメルスやオキシダクティルスは木の葉を食べるのに適したキリンのような背の高い生物だった[4]。


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ヒトコブラクダとフタコブラクダの間には「ブフト」と呼ばれる自然交配による種間雑種ができる。ヒトコブラクダ(雄)とラマ(雌)の間には人工授精によって属間雑種ができ、キャマ(カマ)と呼ばれる。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%80%E7%A7%91#
ラクダ科の生物の進化

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動物学者の研究(『外来種のウソ・ホントを科学する』ケン・トムソン 屋代通子訳 2017)を見ると、ラクダや馬や猿は、最初北アメリカにいたことがわかる。

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大陸がまだゴンドワナとローラシアという二つの巨大な塊で、アメリカ大陸がアフリカ大陸とつながっていた時代に、それらは移動し、やがてプレート活動によって、大西洋ができて、隔てられ、生まれた場所の北アメリカでは、アジアから移住してきたヒトに食われて絶滅したのである。

生物学と地球学から、生物の派生本が意外な場所だったことにわれわれは気づかされる。そしてプレートの移動によって、それらの生物が、人類にも多大な影響を与えてきたことを知っておこう。猿は特に、アメリカからアフリカとアジアに移住したことが人類を生むことになったのである。 ラクダの場合は、最初は大陸移動、やがて居残ったものも、それらを狩って食うヒトにおわれて、南米に移動してラマ、アルパカとして残り、大陸移動では北アフリカから中東の砂漠地帯にラクダとして残ったのだった。


なお、ラクダとキリンは同じ偶蹄目で牛の仲間である。
アフリカの動物の多くは北アメリカから移動した。


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北米に居残った中で、存続している生物はアメリカライオン=ピューマなどがある。







目から鱗を一枚落としたところで、これらか、そういった生物学的・地球大陸移動説的視線での常識のウソで、では今度は人類の歴史を見てみよう。




ガチョウ
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シナガチョウ

「ガチョウ(鵞鳥、鵝鳥、家雁、英: Domestic goose、仏: oie)は、カモ目カモ科ガン亜科の鳥。雁の仲間。家禽。白い姿はアヒルに似ているが互いに別の種。」

「ダーウィンは、本種について著書[1] にて、

 「野生の雁(ガン・かり)を飼いならして家禽化したもので、家禽としてはニワトリに並ぶ歴史を有しており、古代エジプトにおいてすでに家禽化されていた記録がある」

との旨を記しているが、前半はともかく、後半については、今日では古代エジプトで飼養されていたのは本種ではなく、エジプトガンであるとする学者もいる[2]。ガンと姿形は似ているが、体は大きく太っており、飛ぶ力はほとんどない。
 
粗食に耐えながらも短期間で成長し、肉質が優れ、良質な羽毛を備える。肉は食用に、また日本ではあまり食用に供されることはないが、世界的には卵も広く食用とされる。羽毛は羽根布団やダウンジャケット、バドミントンのシャトル、鵞ペンなどに用いられるが、羽毛の利用はどちらかといえば副次的なものである。

その一方で警戒心が非常に強く、見知らぬ人間や他の動物を見かけると金管楽器を鳴らしたような大声で鳴き騒ぎ、対象を追いまわし首を伸ばしてくちばしで攻撃を仕掛けることから、古来より番犬代わりとなることが知られていた。現代ではバランタイン社の醸造所を警護するスコッチ・ウォッチが有名。




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中国で品種改良されたシナ・ガチョウ


「鵞鳥(がちょう)の「鵞」(我+鳥)の字にある我は鳴き声(ガーガー)から来ているとする説がある。又、ガチョウは、日本全国の、一部の小学校飼育小屋でも飼われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6



「現在飼養されているガチョウはハイイロガンを原種とするヨーロッパ系種と、サカツラガンを原種とする中国系のシナガチョウに大別される。シナガチョウは上くちばしの付け根に瘤のような隆起が見られ、この特徴によりヨーロッパ系種と区別することができる。

またヨーロッパ系種はフランスで品種改良が重ねられたツールーズ種と、オランダ、ドイツで品種改良が重ねられたエムデン種に大別される。特にツールーズ種は肉用としてよりも、肝臓を肥大化させたフォアグラで有名である。ヨーロッパ系種はヨーロッパとアメリカで、シナガチョウはアジア、アフリカ地域で広く一般に飼われている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6


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欧州ガチョウにはコブがない。



「体長40〜60cm 体重4,5kg ガチョウは、ニワトリとならんで、最も早くから人に飼われてきました。ハイイロガンを原種としてヨーロッパで品種改良されたものと、サカツラガンを原種として中国で品種改良されたものがいます。警戒心が強く、見知らぬ人などが来ると大声で鳴いて騒ぐので番犬代わりに飼われることもよくあります。」
http://www.tobuzoo.com/zoo/list/details/43/

●日本でのガチョウ記事初出は『日本書紀』雄略紀
「即位10年秋9月4日。身狭村主青(ムサノスグリアオ)たちは呉(中国の華南)の献上した二匹の鵝(ガ=ガチョウ)を持って、筑紫に到着しました。この鵝(ガ)は水間君(ミヌマノキミ)の犬に食われて死んでしまいました。

別の本では、この鵝は筑紫の嶺県主泥麻呂(ミネノアガタヌシネマロ)の犬に食われて死んだといいます。

それで水間君は恐怖して憂いて、自然と黙っていられなくなって、鴻(カリ)十隻と養鳥人(トリカイ=鳥を飼う仕事の人)を献上して罪を償いたいと請いいました。天皇は許しました。

冬10月7日に水間君が献上した養鳥人たちを軽村(カルノフレ)・磐余村(イワレノフレ)の二箇所に安置しました。」
https://nihonsinwa.com/page/1465.html

●身狭村主青(ムサノスグリアオ)
『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇は宍人部と同じ十月に、「史戸」(ふみひとべ)・「河上舎人部」(かわかみのとねりべ)を設けた。自分の心を師(さかし)として、誤って人を殺すことが多かった、という。天下の人たちは、「誹謗」して「大(はなは)だ悪(あ)しくまします天皇なり」と申し上げた。そんな中で天皇が寵愛したのは、身狭村主青と、檜隈民使博徳(ひのくま の たみの つかい はかとこ)たちだけだったという[1]。
上記のように、青は雄略天皇の側近として重用され、史部(ふひとべ)としてつかえた。雄略天皇8年(西暦に直すと464年)、博徳とともに呉国(くれのくに、華南)に派遣された。 派遣の目的は、雄略天皇が即位してから新羅が苞苴(みつき)を奉らなかったことを責めたものであった。
畏れをなした新羅国王は、麗(こま、高句麗)によしみを通じ、麗兵が100人新羅防衛のために送られてきた。しかし、ほどなくしてそれがまやかしのものだとわかり、新羅王は国内の麗人を皆殺しにした。結果、新羅・麗間で戦争が起こり、新羅は任那(加羅)の王を介して任那日本府に援軍を頼み、膳臣斑鳩(かしわで の おみ いかるが)らの率いる軍が麗軍を破った、とある[2]。
10年9月には、呉から献上された2羽の鵞鳥を運んで、筑紫国に至った。この鵞鳥は水間君の犬によって食い殺されてしまった[3]。
12年にも博徳とともに、呉に派遣された[4]。2年後に帰国し、「手末(たなすえ)の手伎(てひと)」である漢織、呉織、衣縫の兄媛、弟媛などの技術者を招来した[5]。
青は渡来氏族の身狭氏の出自であり、史部としての知識、技能を認められ、外交面での活躍の場を与えられたと考えられる。『新撰姓氏録』「左京諸蕃」には、「牟佐村主」は呉の孫権の子孫である、という記述があり、坂上氏の系図が引用する『姓氏録』の逸文には、牟佐村主は高市郡の他の多くの「村主」姓の一族とともに、阿知使主が率いてきた民の子孫である、と掲載されている。
「青」・「博徳」ともに、日本風の名前ではなく、大陸への使者となっているところから、帰化後まもない世代であり、倭王武の上表文に記された四六駢儷体の漢文の筆者と関係があることが推定される。
1.^ 『日本書紀』、雄略天皇2年10月条
2.^ 『日本書紀』、雄略天皇8年2月条
3.^ 『日本書紀』、雄略天皇10年9月4日条
4.^ 『日本書紀』、雄略天皇12年4月4日条
5.^ 『日本書紀』、雄略天皇14年1月13日条
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E7%8B%AD%E9%9D%92

身狭村主青(ムサノスグリアオ)が呉国から持ち帰ったのだから、このガチョウはシナガチョウだろう。しかし『日本書紀』の言う呉が朝鮮半島の新羅だったならば、そのガチョウは、新羅が王妃を出したスキタイ国家カザフスタンのヨーロッパガチョウであった可能性も出てくるから動物歴史分析は面白い。『日本書紀』は呉を華南だとしてあるので、まずシナガチョウだろう。

雄略がなぜ青を華南へ行かせるのか、考えている分析は知らない。しかし雄略が百済東城王だとすると、呉は三国志で敗北したはずなのに、華南はまだまだ6世紀頃には、かなりの力を持っており、華北王朝のライバルであり続けていることになる。おそらく新羅は華北と深くつきあい、後百済や後高句麗はいまだに古くからの江南王家と深く付き合っているとなる。日本も同じで。百済分家王家の東城王としては、母国での国家復活を模索して、青を江南へ派遣したのだろう。

こういうところは、なにか、現代の北と南のつきあいが復活して、日本やアメリカとの連合を捨てて、ロシアか中国と接近してゆく統一朝鮮国家的なナショナリズムを感じさせる。




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