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トロイ発掘シュリーマンの来日記録と秩父の養蚕・八王子絹の道

 
 
 
 
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ハインリヒ・シュリーマン著La Chine et le Japon au temps présent
『シュリーマン旅行記 清国・日本』 石井和子訳  講談社学術文庫
『シュリーマン日本中国旅行記(付パンペリー日本踏査紀行) (新異国叢書) 』 藤川徹訳 雄松堂 

最初の訳者・石井和子の子息がたまたま旅行先のパリ図書館で原本に出会い、東アジア部分だけを書写して持ち帰った。
ほぼ私家本であるところを東大名誉教授・藤川徹が発見し一般に公開されたという珍品。

トロイア遺跡(1871年)より六年前の1865年に、シュリーマンはアメリカ旅行の途中、中国と日本に寄港している。
幕末の日本で絹織物の視察に東京八王子に立ち寄るためであったという。横浜で船を下りたシュリーマンはほかに富士山、浅草、吉原などを興味深く視察、偶然14代将軍家茂(義母・天璋院篤姫)が上洛する行列に出会ったなどを記録している。

1865年といえば慶応元年、尊王攘夷の嵐が吹き荒れていた江戸時代幕末。
前年の1864年は新撰組による「池田屋事件」があり、「蛤御門の変」とか「長州征討」、1865年は高杉晋作らの奇兵隊が挙兵し、第2次長州征討の勅許といった動乱期である。
 
●日本の記録
「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地はない。
どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。
家々の奥の方には必ず花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。
犬は、ペテルスブルクやコンスタンティノープル、カイロ、カルカッタ、デリー、北京ではたいへん粗暴で、われわれの乗っている馬やラクダに吠えたて、追いかけ廻してきたものだが、日本の犬はとてもおとなしくて、吠えもせず道の真ん中に寝そべっている。われわれが近づいても相変わらずそのままで、犬を踏み殺さないよういつもよけて通らねばならない。
 
国産の絹織物を商う店が多いのに驚かされた。どの店も大きさといい、品数の豊かさといい、パリのもっとも大きな店にもひけをとらない。
 
日本に来て私は、ヨーロッパの寝室を満たしている豪華な家具調度など、ちっとも必要ではないし、それらが便利だと思うのはただ慣れ親しんでいるからにすぎないこと、それらぬきでもじゅうぶんやっていけるのだとわかったのである。

彼ら(日本の役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも、現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶのである。(横浜港で税関役人にチップを払おうとしたら「我々は日本男児ゆえ」ときっぱりと断られたことなど)
 

もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わず達することのできる最高の完成度に達しているからである。
教育はヨーロッパの文明国家以上に行きわたっている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では男も女もみな仮名と漢字の読み書きができる。」(石井和子訳)
 
 

●一方中国(清朝)では万里の長城、北京そして上海を訪れている。
「私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかも天津はその筆頭にあげられるだろう。町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。
私は城壁の内側でものすごく素晴らしいものに遭遇できると思っていた。しかし、それはひどい間違いだった。北京には、荷馬車ひきが泊まる、ぞっとするくらい不潔な旅籠を除けば、ホテルというものはない。
北京の街にはボロ布しか身にまとっていない女乞食があふれている。
無秩序と廃頽、汚れしかない。堕落した民族が崩壊するにまかせている。
清国の君主たち、また民の愚かさ加減、意気阻喪ぶり。」
 
 
このさい、日本人と中国人の民度の高低は置いておこう。(中華の民度の低さは当然の話である。)
 
 
●八王子の絹工場と絹の道多摩街道
「「絹の道」の愛称で親しまれているこの道は、かつては「神奈川往還」または「浜街道」と言われていました。
安政6年(1859)に横浜が開港し、その後、鉄道が発達する明治の中ごろまで、輸出用の生糸が多数運ばれたルートのひとつです。八王子近郊はもとより、長野、山梨、群馬などの各方面で生産された生糸は、八王子宿に集められ、この道を通って横浜に運ばれて行きました。その、生糸取引で短期間に巨額の富を成したのが「鑓水商人」です。
現在、「絹の道」は御殿橋のたもとから、「絹の道碑」の前までの約1.5㎞が市の史跡に指定されています。
このうち、特に昔の面影をよく残す未舗装部分は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれました。
峠の一番高いところには、かつて道を行き交う旅人や村内の安全を祈って、道了尊を祀ったお堂がありました。現在は取り壊されて、跡地が大塚山公園として整備されています。」
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/004414.html

シュリーマンが是が非でも見たかった日本の絹工場。
当時、日本のシルクはそれほどまでに欧州に知れ渡った名品であった証拠である。
シュリーマンは日本ではギリシア発掘した考古学者だと思われているが、実は考古専門家ではなく、実業家だった。
だから名にし負う日本の繊維工業の現場を視察して、貿易のつながりを模索したわけだろう。
八王子は「桑の都」とも呼ばれるほどの一大養蚕地帯で、武蔵北部の埼玉の多摩・秩父に古代から続いた渡来工人たちの養蚕を絹の道多摩街道でつないだ終点にあたる養蚕の集約地・輸出地点であった。
その秩父あたりは、養蚕によって大富豪となった水呑が多かった。
 
 
 
  
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