いささか長文引用になるが話としても面白いのでまずは是非お読みください。
ものがたり飛騨の歴史(古代~江戸時代)
飛騨は岐阜県の北部を占める山地で、かつて飛騨国と呼ばれていた地方です。
地名の由来はいくつも説があり、うねうねと広がる山襞から「ひだ」と呼んだ、とか、田舎や辺境を意味する「鄙・ひな」が転じたもので、近くに位置する恵那や伊那と同意であるとか、名馬の産地で、朝廷に「飛ぶように走る馬」を献上したから「飛騨」とか、言われています。
飛騨は岐阜県の北部を占める山地で、かつて飛騨国と呼ばれていた地方です。
地名の由来はいくつも説があり、うねうねと広がる山襞から「ひだ」と呼んだ、とか、田舎や辺境を意味する「鄙・ひな」が転じたもので、近くに位置する恵那や伊那と同意であるとか、名馬の産地で、朝廷に「飛ぶように走る馬」を献上したから「飛騨」とか、言われています。
高山と郡上を結ぶせせらぎ街道の分水嶺近く、龍ヶ峰の高原には飛騨共同模範牧場が広がっています。その草原の一角に、大空を翔る天馬が眠っている、と伝えられる龍馬石があり、飛騨の国名の起こりだと伝わります。
神代のむかし、高天原の祖神様は、竜よりも速く空を飛ぶ「龍馬」という天馬を、川上岳と白山の女神にお使いとして遣わしました。龍馬は川上岳の女神にお使いをし、次に白山に向かっていると、眼下に大好物の山笹の大草原を発見しました。
我慢しきれず草原に舞い降りた龍馬は、腹いっぱい食べると眠りこけてしまったので、やさしい祖神様は、龍馬をそのまま眠らせてやろうと考え、馬の形の石に変えました。
飛騨の由来として、天馬伝説はロマンチックで、ぜひこちらの説を推したいところです。
両面宿儺
飛騨の歴史の起こりも伝説に彩られています。
古代、大和朝廷がその勢力を全国に広げようとしている頃、飛騨高原には独自の文化を持った先住民族が暮らしていました。
古代、大和朝廷がその勢力を全国に広げようとしている頃、飛騨高原には独自の文化を持った先住民族が暮らしていました。
先住民族の首領「両面宿儺」は、前後2つの顔を持ち、4本の手で武器を操り、4本の足で駆ける怪物。仁徳天皇の時代、朝廷は何度も飛騨に軍勢を差し向けますが、山地の戦いでは両面宿儺にかないません。そこで、名将・難波根子武振熊命を大将にして、大掛かりな平定作戦を決行しました。
両面宿儺は美濃まで出て朝廷軍を迎え撃ちますが、敗れて本拠地の鍾乳洞に逃げ込みます。宿儺を追い詰め、組み伏せた武振熊命は降伏を勧めますが、宿儺はこれを断って討ち死にしてしまいました。
日本書紀には朝廷に逆らう怪物として描かれる両面宿儺ですが、飛騨地方では民衆を導いた英雄、恩人として信仰の対象になっています。高山市丹生川の千光寺は宿儺が開いたといい、飛騨地方の古い寺や神社には、両面宿儺や武振熊命の伝説がいまでも伝えられています。
両面宿儺の故事に描かれた民族が縄文系だったのか弥生系だったのか分かりませんが、ブナやナラの森に覆われた古代の飛騨では縄文文化が発達し、多くの縄文遺跡が発掘されています。
下呂温泉にある湯ヶ峰火山が10万年前の噴火で噴出したガラス質の「下呂石」は、非常に硬くて鋭く、やじりに加工するのに適していました。下呂石製の石器は長野県や遠く千葉県からも発掘されており、縄文時代に広い範囲で交易が行われていたことが分かります。
下呂温泉にある湯ヶ峰火山が10万年前の噴火で噴出したガラス質の「下呂石」は、非常に硬くて鋭く、やじりに加工するのに適していました。下呂石製の石器は長野県や遠く千葉県からも発掘されており、縄文時代に広い範囲で交易が行われていたことが分かります。
また、高山市一之宮町の飛騨一之宮水無神社は「水主」の意味を持ち、宮川の水源にそびえる位山を御神体と崇めていますが、古代弥生系の出雲族が宮川を遡って高山盆地を開拓したことを伝えています。高山市国府町には古墳が集中して残っており、当時の地方権力の中心であったようです。
飛騨南部の益田郡は尾張族の神である尾張一之宮・真墨田神社と関係するという説もあり、成務天皇から斐太国造に任じられた大八椅命も尾張族です。こうして、縄文系と弥生系が混じりながら飛騨人が形成されていきました。
室町時代の飛騨国司・姉小路基綱は、「日本書紀」にある「櫛玉饒速日命」と神武天皇の故事を両面宿儺伝承に置き換えて書いています。その「櫛玉饒速日命」は物部氏の神で、物部守屋は蘇我氏・聖徳太子と争って敗れました。
古代飛騨の豪族・斐太氏が属する尾張族は物部氏一族であり、守屋神社(現・錦山神社)が現存するなど、飛騨と物部氏の関係が深いことから、作家の坂口安吾は両面宿儺伝承が「記紀神話」で隠された古代政争史の反映と見る作品を書いています。
飛騨の匠
奈良時代、地方の国々は租庸調と呼ばれる税や貢物を朝廷に納めました。
しかし、農耕が発達せず、特産品もない飛騨の国は、地方の中でも最低ランクの下下の国に位置づけられ、税を免除される代わりに、都で宮殿や寺院の建築工事に携わる匠丁(労働者)を差し出すことになりました。これが「飛騨匠」と呼ばれる人々です。
しかし、農耕が発達せず、特産品もない飛騨の国は、地方の中でも最低ランクの下下の国に位置づけられ、税を免除される代わりに、都で宮殿や寺院の建築工事に携わる匠丁(労働者)を差し出すことになりました。これが「飛騨匠」と呼ばれる人々です。
匠丁は1里(50戸)ごとに10人(9人の労働者と1人の炊事係)を出し、毎年100人を越える労働者が奈良の都へ上りました。原則1年交代とされていましたが、労働は激しく、食事も自給であったので、逃亡者も多くなって、その取り締まりも厳しく行われたといいます。
ずっと後の明治時代、紡績産業を支えるために飛騨の娘たちが越えた野麦峠は「女工哀史」で有名ですが、奈良時代、都の建築工事を支えるために飛騨の男たちが越えた「位山峠」もまた、悲劇の峠でした。
万葉集には、大工仕事に精を出す飛騨の匠の様子をよんだ歌があります。
「かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に」
このような匠丁の中から、何回も都へ上ったり、都に住み着いて技術を磨いた名匠たちが現れます。
からくり屋敷を作って絵師・百済川成をからかった匠、日本から木彫りの鶴に跨って中国へ飛んだ飛騨内匠、唐の皇帝に腕前を披露した韓志和など、今昔物語から中国の説話集にまで逸話を見ることができます。
江戸時代、飛騨の大工たちは、飛騨匠の末裔としての自信を持ち、屋台や古民家などに高い建築技術を注ぎました。その伝統はいまでも残っています。
からくり屋敷を作って絵師・百済川成をからかった匠、日本から木彫りの鶴に跨って中国へ飛んだ飛騨内匠、唐の皇帝に腕前を披露した韓志和など、今昔物語から中国の説話集にまで逸話を見ることができます。
江戸時代、飛騨の大工たちは、飛騨匠の末裔としての自信を持ち、屋台や古民家などに高い建築技術を注ぎました。その伝統はいまでも残っています。
●合掌造り
白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)は、いずれも飛越地方庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域である。白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は岐阜県白川村と高山市荘川町に分かれている。五箇山は富山県の旧平村、上平村、利賀村の3村に含まれていたが、現在はいずれも南砺市に属する[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E9%83%B7%E3%83%BB%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%90%88%E6%8E%8C%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%9B%86%E8%90%BD
●飛騨の匠と蝦夷高層建築
『日本書紀』『元興寺縁起』および同縁起に引く露盤銘(ろばん・めい)
「崇峻1(588)年,百済は仏舎利,僧侶のほか,寺工(寺師)の太良未太(丈羅未大),文賈古子,露盤博士の白昧淳,瓦博士の麻奈文奴,陽貴文,〓貴文,昔麻帝弥,画工の白加,陽古などの人たちを派遣した」
中国・朝鮮風の瓦葺きの元興寺(法興寺,のちの飛鳥寺)が彼等の技術で造営された。これはまず間違いのない事実であろう。
さらに彼等を監督し、五重塔などの巨大な心柱技術や柱に用いる巨木処理技術、つなぎの技術を持ち込んだのは飛騨の匠だったと考えられる資料もある。(後述)
「発掘調査により,同寺の伽藍配置は高句麗や百済の寺院の例に類似することがわかっている。太良未太らの一行は百済人であるが,人名の特異な人もおり,ペルシャなどから中国南朝を経て移住していた人が含まれるかもしれない。 (鈴木靖民)」
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E8%89%AF%E6%9C%AA%E5%A4%AA
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E8%89%AF%E6%9C%AA%E5%A4%AA
●飛騨の匠と古志=富山
岐阜県飛騨地方には材木を扱わせると日本一という木地師の親分みたいな一族がいた。世界遺産になった白川郷などはそのメッカである。この人たちは記録では飛鳥時代に女帝が飛鳥に招聘したようである。
岐阜県飛騨地方には材木を扱わせると日本一という木地師の親分みたいな一族がいた。世界遺産になった白川郷などはそのメッカである。この人たちは記録では飛鳥時代に女帝が飛鳥に招聘したようである。
大宝律令の養老令の中にある賦役令条文の最後に
「凡斐陀国。庸調倶免(税金免除)。毎里点匠丁十人・・・」
と出てくる。要するに寺院建築などでの労働をしたので税を免除されたのであろう。
大和地方には闘鶏(つげ)工・猪名部工などの木工集団がいた。宮大工は彼等が占めていたのを、わざわざはるかに遠い飛騨の山奥から匠を呼んでいる。つまりこれは飛鳥寺以来の風習だったかと想像できる。
それだけ技術が上回っていたのだ。で、どこが違うのかと考えると、巨木の扱いだったのではないか?となる。
◆巨木建築とエミシ
巨木建築と言われてはたと手を打つ遺構が日本海には山ほど点在する。出雲の出雲大社、越前のチカモリ、真脇、桜町、青森の三内丸山・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51567741.html
栗の木を用いた縄文高層建築群である。
その技術が飛鳥で使われた?
五重塔の心柱は数本の巨木をつないであれだけの高さに仕上げており、大地震にもびくともしない耐震構造を持っている。その技術の源泉は縄文蝦夷のもの・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094988.html
●結(ユイ)
茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E9%83%B7%E3%83%BB%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%90%88%E6%8E%8C%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%9B%86%E8%90%BD
◆合掌造り集落を結んだ古代横断道路と『竹内文書』『神秘之日本』
日本海富山から五箇山・清里・飛騨高山へ抜ける古道が蝦夷によって開発されていたはずだ!
なにかヒントは?
日本海富山から五箇山・清里・飛騨高山へ抜ける古道が蝦夷によって開発されていたはずだ!
なにかヒントは?
「この地を訪れるためのガイドブックは2つあります。1つは異端の古書『竹内文書』です。日本の歴史書の代表は『記紀』ですが、その他にも神代から日本建国までの古代の歴史書は数多くあります。『竹内文書』もその中の1つです。現在公的には偽書として扱われていますが、私達にとって大変興味深い内容が記されています。もう1つは酒井勝軍(かつとき)が著した『神秘之日本』です。彼は「ピラミッドの発祥の地は日本であり、エジプトのピラミッドは日本から伝播したものだ」という仮説を唱えました。」
もっとほかにないか?
「富山県の南西部、岐阜県境の山岳地域、庄川流域の5つの「谷」・赤尾谷(あかおだん)、上梨谷(かみなしだん)、下梨谷(しもなしだん)、小谷(おたん)、利賀谷(とがだん)からなる地域が、五箇山と呼ばれています。岐阜の白川郷とともに世界遺産登録された合掌造りの集落としてもよく知られたところです。
現在の行政区分では富山県南砺市(旧・東砺波郡平村・上平村・利賀村)ですが、実際に五箇山から白川まで向かう道路は、岐阜になったり富山になったりしています。そしてこの地は、かつて江戸時代は、加賀前田藩であり、砺波郡五ケ山組といわれていました。また加賀藩の流刑地としても知られています。」
http://senshoan.main.jp/minyou/minnyou-gokayama.htm
http://senshoan.main.jp/minyou/minnyou-gokayama.htm
まずは河川の道である。周辺に縄文遺跡をちりばめながら流れる川・・・例えば庄川、姫川、天竜川、矢作川、木曽川、信濃川~千曲川などなどが主通路となりうる。