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京都七野(しちの)と「うずまさ」「おおさけ」本義

 
「古くから京の北部(現在の北区)に広がる7カ所の野をいった。内野、北野、平野、点野、紫野、蓮台野、上野の7カ所だが、うち現在も地名として残っているのは5カ所。もともと七野という地名はないが、七野の神を集め祭った総社として、紫野の近くに櫟谷七野神社がある。」
 
 
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京都市北部一帯をかつて七野(しちの)と呼んでいた。
ここはのちに豊臣秀吉が「新京都」として「京都」を拡大させた場所である。
言葉そのものは寛永二年(1625)に成立した京都地誌『京羽二重(きょうはぶたえ)』で使われた。
船岡山を中心に広がる広大な野である。
 
内野・・・平安京内裏荒廃後についた地名。『吾妻鏡』『増鏡』に掲載あり。
 
イチイ谷七野神社・・・七野の核だった土地であろう。平安時代嵯峨天皇のときにここには賀茂斎院(かもさいいん)があった。
 
北野・・・天満宮のある場所。往古は蜂岡。秦氏開拓地で、天満宮以前から聖地である。遣唐使派遣の際にここに天神地祇を祭った(『続日本後紀』)。ここに天神となった雷公を祭ったのは、おそらく蜂岡の蜂が=雷だったからではないかと思う。
 
紫野・点野・・・船岡山近辺を今も言う。紫野とは薬典の植物園があったためである。むらさきの花々に毒素や薬物が多く、むらさきは薬品の隠語である。
 
 
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船岡山と紫野
 
 
平野・蓮台寺野・・・いわゆる葛野である。嵯峨野もここに含まれる。
 
ちなみに葛野は「かづの」「かどの」で「かつ」の野。勝の野。勝とは秦氏の村主=リーダーの名前である。「まさ」とも「かつ」とも読まれ、「うずまさ」の「まさ」とはまさに村主がいたところという意味でもある。「太秦」は太い勝で、リーダーの中のリーダー、つまり秦氏の統率者の最上位である酒君一族を指す。河勝もまた「河のすぐり」という名前になり、保津川開拓者であることになる。
 
桂の地名も「かづの」と大いに関係している。「かつ・ら」である。
 
これら七野は愛宕山・船岡山などを擁し、越えれば丹後へ隣接した、かつての狩猟場でもあった。ここでの禁猟を命じたのは陽成天皇の元慶六年(882)のこと(『日本三代実録』)。
そのときの呼称は嵯峨野(葛野郡)。
 
このように「野」は建材森林と狩り場であり、天皇が歴代、王位に着くときには、ここに王者としての象徴となる狩りへ出かけていた。この風習は雄略天皇以来の王侯の統率のあかしとなり、鎌倉武士に伝えられた。頼朝も鎌倉で最初に狩りをしたし、あの天智天皇は山科へ狩猟に出ている。天武天皇はここ紫野薬典へ狩りと銘打って薬草狩りに出向き、あの額田王の「紫野行き、点野行き」が歌われた。桓武天皇も平安遷都最初の狩りは北野である(『『日本後紀』』)。
 
清少納言『枕草子』
「野」
「野は嵯峨野さらなり」
次にあげたのは播磨の印南野。
 
平安時代、京都の野の筆頭は嵯峨野であった。
 
嵯峨野・・・桂川さがんのの。左岸の野である。この中にできた街が嵯峨である。嵯峨天皇はここをこよなく愛したので諱になったと聞く。もとは葛野である。
嵯峨野には楓が多く、聖徳太子時代には楓野、楓岡などとある。カエデは秋に糖分をためて甘い樹液を出すため蜂が多く、そこで蜂岡とも言われた。北野に広隆寺前身とされる蜂岡(北野廃寺)があったとされる。
 
カエデはまた鉱物探査の指標でもあり、その下には銅鉱床があるとされていた。したがって嵯峨野・楓野・蜂岡は鉱物地名でもある。
 
今の渡月橋のあたりに行基が大井館を建てているのも、そうした関係ではなかろうか?往古の宗教者にとっては資金となる鉱物の探査は必須条件で、空海が高野山を開いたのも紀伊川の水銀やベンガラ、あるいは鉄や銅が目当てだったとも言われている。
 
葛野郡橋頭・・・「はしもと」と読ませる。天平十四年(742)に山背国葛野郡橋頭里戸主・秦調日佐堅万呂(はたの・つきのひおさ・かたまろ)を高橋虫麻呂が僧侶に推挙した記事が『寧楽遺文』にある。秦氏と高橋氏の関係がしのばれる。はしもととは渡月橋の橋の元であろう。ここを大堰川(おおいがわ)と呼ぶのは川堰(せき)があったためである。堰とは段になったダムであるが、これは秦河勝が作ったという伝説である。「調日佐」とは税調を集める長官という意味である。「佐」は「すけ」で中世では「すけ」は国司の次官であるので、天皇のために税調を助ける役職となる。嵯峨野の秦氏が山背北部の税調官だったということで、これは中央で大蔵だった秦氏の流れであろう。渡月橋の近くにあった館が大井であるなら、大井はこのあたりだったことになり、葛野大堰(かどのおおい)も今の渡月橋のあたりにあったこととなるだろう。
 
 
 
秦氏が、最初の入植地であった大和の葛城山麓から鴨氏らとともに山背の葛野に移住した理由は嵯峨野の銅ではあるまいか?今、奈良の蜂田もまた銅鉱床だった可能性が高い。談山神社の多武もそうであろう。
 
 
秦氏・漢氏以降の渡来が上級貴族になることは史上決してなかった。
そして彼らは野の開拓=「おおさけ=大裂」にあたることを条件に、中央の周辺にコロニーを作っていった。
これをまた「大避」と言うのであろう。天皇をはばかって近づかぬものどもの自称である。「はた」=傍=端である。
 
→上七軒
 
参考 森浩一 『日本の深層文化』2009
 
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