日下部氏は、9代開化天皇の皇子・彦坐命の子、狭穂彦命の後(日下部連・甲斐国造)とも、吉備氏の大吉備津彦命の子の大屋田根子命の後とも、16代仁徳天皇の皇子、大草香・若草香王の御名代部ともいわれ、各地に存在するのだが、実態のつかめない謎の氏族である。しかし、天皇位を狙える立場という共通点からも、吉備氏と同族という可能性は高い。また、大屋田根子命の兄に、吉備氏系の日奉部氏(火葦北国造家)の祖の三井根子命がおり、同じ「日」を奉斎するという意味からも、「部」という名からも、天皇家と同等の家に奉仕する部曲かと思われる。
また、但馬国造の日下部君の祖とされるのは、沙穂彦・沙穂姫の異母弟、山代之筒木真若王の子で、船穂足尼(ふなほ?のすくね)。その甥っ子の息長宿禰王の娘が、仲哀天皇の皇后・息長帯比売(神功皇后)である。但馬というのは、神功皇后の母方の祖先、天之日矛を祀る出石神社(兵庫県出石郡)があり、興味深い。
記紀は、神武天皇が、難波の海から船行して日下(くさか)の蓼津(たでつ)に上陸したと伝えるが、この「日下」とも関係あろうか? そこは現在の東大阪市日下町(生駒山の西麓)で、古代は大阪市から妃が東大阪市にかけて「草香江(くさかえ)」と呼ばれる広大な入り江になっていたそうで、中世まで「勿入渕(ないりそのふち)」として片鱗を留めていた。神武天皇が天児屋根命を祀らせたという枚岡神社(大阪府東大阪市出雲町)があり、春日大社が創祀される時、祭神を勧請したので「元春日」と呼ばれ、香取・鹿島(つまりは卜部・中臣・藤原氏)とも関係が深い。
饒速日尊が生駒山の上空から遥かに日の下を見て、「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と名付けたという、「日の下の草香」とも関係するか?
<本拠地>
奈良県佐保町周辺
<有名人>
沙本毘売命・狭穂姫(さほひめのみこと)
春日建国勝戸売(かすがたけくにかつとめ・女性)の娘の沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)と、日子(彦)坐王の娘。11代垂仁天皇の皇后。誉津別(ほむつわけ)皇子の母。
春日建国勝戸売(かすがたけくにかつとめ・女性)の娘の沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)と、日子(彦)坐王の娘。11代垂仁天皇の皇后。誉津別(ほむつわけ)皇子の母。
実兄沙本毘古王にそそのかされて、垂仁を小刀で刺そうとするが、垂仁が小ヘビの夢を見て発覚。兄と共に稲城に篭り、自ら火ををかけ誉津別皇子を出産、天皇軍に皇子だけを手渡して、兄と共に没する。
産屋に火をかけて出産するというのいは、木花之開耶媛命と同じであり、当に海人の儀礼といえよう。三品彰英氏の「古代祭政と穀霊信仰」によれば、稲城というのは稲穂を積み上げた山で、稲城を焼くのは収穫儀礼で、焼いた稲の山から新たな穀霊が生まれて来るという、古代の農耕祭儀の思想を表しているという。沙本毘売命の「沙本」は「早穂」つまり「稲穂」の意味で、誉津別皇子の名にも「ホ」つまり「稲穂」の文字が入っているのは、木花之開耶媛命の御子、ホデリ・ホスセリ・ホヲリも同じであり、海人と稲作文化の繋がりと示していると思う。つまり、最初に海人が伝えた稲作は、焼畑による陸田栽培であった証拠と思う。
沙本毘売命は自らが死ぬ前に、自身の代わりにと、異母兄の丹波道主命の5人の娘(日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛)を天皇の妃に推薦して受け入れられている。その内、日葉酢媛命が皇后に立った。この沙本毘売命は丹波道主命や水穂之真若王の腹違いの妹であり、息長氏と大変関係深い。
沙本毘売命は、奈良の東の地の姫、春と織物の女神の「佐保姫」ではないのか? 祖母の名に「春日」が付くのも、それを暗示させる。春日はもともと「滓鹿」と書く。「志賀島」「鹿児島」「鹿嶋」「値嘉島」の「鹿」であり、春日の若宮神社は「細男舞(磯良舞)」の伝承地である。和邇氏の祖・日子坐王の娘であり、当然、和邇氏の同族である春日氏とも関係も深く、海人系であることに間違いはない。
沙本毘古王・狭穂彦(さほひこのみこ)
沙本毘売命の同母兄。上記の叛乱を起こして没したが、日下部連・甲斐国造の祖とされる。
垂仁天皇の皇后で、妹の(沙本毘売命)が実家に帰っている時、彼は妹に「お前は兄と夫と何れがだいじか」と訪ねる。妹の皇后は「兄が大事です」と答える。「容色を以って人に仕えていては、色香が衰えれば寵愛は終ってしまう。兄の私が皇位につけば、枕を高くして百年でもいられるよ。どうか私の為に夫の天皇を殺して欲しい。」と、妹に匕首(小刀)を渡したという。
沙本毘売命の同母兄。上記の叛乱を起こして没したが、日下部連・甲斐国造の祖とされる。
垂仁天皇の皇后で、妹の(沙本毘売命)が実家に帰っている時、彼は妹に「お前は兄と夫と何れがだいじか」と訪ねる。妹の皇后は「兄が大事です」と答える。「容色を以って人に仕えていては、色香が衰えれば寵愛は終ってしまう。兄の私が皇位につけば、枕を高くして百年でもいられるよ。どうか私の為に夫の天皇を殺して欲しい。」と、妹に匕首(小刀)を渡したという。
父の日子坐王から和邇氏・息長氏の強大なバックアップを得、母の沙本之大闇見戸売から呪術的なバックアップを得ていただろう沙本毘古王は、恐いものなどなかったろう。しかし、こんなに簡単に帝位を狙えるということは、阿倍氏系11代垂仁天皇の頃にはまだ、大和朝廷の王権が充分に安定していないことが分かる。
(ホムツワケの部分は字面の関係で省いた。)
日下部連使主(くさかべのむらじおみ)
息長氏系21代雄略天皇が、近江国蚊帳野で、17代履中天皇の子、市辺押磐皇子を騙し討ちにした時、その子の弘計王(後の顕宗天皇)と億計王(後の仁賢天皇)を護って、息子の吾田彦と共に、丹波国与謝に逃げ、更に播磨国縮見山に逃れた。そして追手に分からないよう、そこで全ての証拠を隠滅し、自殺する。息子の吾田彦は、顕宗・仁賢兄弟に長く仕えたという。
息長氏系21代雄略天皇が、近江国蚊帳野で、17代履中天皇の子、市辺押磐皇子を騙し討ちにした時、その子の弘計王(後の顕宗天皇)と億計王(後の仁賢天皇)を護って、息子の吾田彦と共に、丹波国与謝に逃げ、更に播磨国縮見山に逃れた。そして追手に分からないよう、そこで全ての証拠を隠滅し、自殺する。息子の吾田彦は、顕宗・仁賢兄弟に長く仕えたという。
息子の吾田彦の「吾田」は、「吾田の笠沙」の吾田である。つまり久米氏(隼人)と関係があるということだ。
佐用姫(さよひめ・弟日姫子)
肥前国松浦の人。大伴狭手彦(佐堤比古・大伴金村の子。28代宣化朝の人)の恋人。万葉集や風土記にその名が見える。「小夜姫草紙」などでは、奥州白河にまで旅し、琵琶湖の弁財天となる不思議な姫。詳細は「松浦の小夜姫」参照。「肥前国風土記」は、この姫を日下部氏の祖と伝える。
「蛇」と係わりがあるというのが、沙本毘売命と同じで興味深い。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kusakabe.htm
『日本書紀』はあくまでも中央の伝承記録であって、氏族も皇族にえにしを求める仮冒(虚構)を出自にほどこすののが当然の書物。ゆえに『日本書紀』記録の日下部出自を頭から信じ込むことはヤマト至上主義史観でしかない。
ヤマトが8世紀までに、幾多の先王朝を乗っ取り、かつ血縁を結びながら飲み込み、政略で取って代わるためには、彼ら、皇室よりも歴史の古い地方紙族との正面切っての争いを避けるしか生きていけない存在だったと思うことである。
今につながる皇室はそうした戦いを展開するような実力者ではなく、あくまでも地方氏族、ヤマト氏族による和合から共立されたかんなぎ系譜なのである。そこで氏族は地方におけるもっと古い伝承を探す必要がある。
邑阿自(おほあじ)
「豊後国風土記」の日田の郡、靫編の郷の段で、29代欽明天皇の世に、日下部君らの祖、邑阿自が靫部として仕え、ここに家宅を造って住んでいたとある。
「播磨国風土記」の揖保の郡・日下部の里は人の姓によって名付けたとあるので、ここにも日下部(氏)が住んでいたことが分かる。
くれぐれも氏族に関して知っておきたいのは、部を名乗る氏族の場合、氏と部にはまったく別の出自が伴うことである。なぜなら氏は部を管理するために中央が派遣した中央氏族だからだ。要するに日下部や額田部自身の出自は、必ずしも日下部氏や額田部氏とは同根ではないということ。そして氏がその部を管理するのは、ある程度、過去における部の出てきた地方にえにしがあったものであろうということだ。
日下部が出てくる場所は中央ではなかったはずで、まず候補地の一番目が尾張の海部郡(あまぐん)である。
次に堺市草部町、次に丹後若狭湾の水之江。次に播磨揖保郡、次に松浦、次に人吉となる。
次に堺市草部町、次に丹後若狭湾の水之江。次に播磨揖保郡、次に松浦、次に人吉となる。
九州では豊後に海部郡(あまべぐん)がある。ここには自らを熊襲であるという古い言い伝えがあり、森浩一氏の父親はここの佐賀関の出身である。その南、臼杵市に筑紫君のステータスである石人を持つ古墳が二基ある。
この石人が大昔からここにあったものなのか、あるいは日田から移動されたものかは知らないが、日田のように筑紫隣接地に石人がなく、はるかに遠い東海岸部にあるというのが、どうも釈然としない。
全国の多くの「姫」伝説が、この参考サイトの考えるように海人族由来であると決定する充分な証拠はあるとは言えないが、確かに伝説的姫は九州海岸部に多く、海人系である隼人にも阿多津姫がある。しかし熊襲には姫伝説がないようである。
装飾古墳の編年問題であるが、九州の装飾古墳もそのほとんどは九州山地近縁にはなく、海岸部平野に集中する。そしてその絵柄の中心はやはり船、鳥、太陽、星宿、カエル、太陽とあくまでも江南の長江文明で使用されたアイテムに近似している。日下部氏や的臣は円紋を多用するが、同時に靫をステータスにしており、日田から南下する途中にはそのような古墳が皆無である。靫の絵柄が南下して人吉へ向かうコースは九州山地ではなく熊本平野という中央より西側でだけある。ほかの地域へは筑後川や海岸を通って伝わっており、飛び地のように点在する。すると山間地を真っ直ぐに南下した装飾古墳氏族はおらず、それが熊襲の北上だったことは間違いがないのである。その証拠が免田式土器の北上する年代観である。
弥生時代末期の頃、彼らが九州を豊前まで、陸地中央部を歩いて北上したのはまず間違いなかろう。それは山間部の盆地伝いである。先の地図の道である。
記紀の記述どおり、景行天皇が船で不知火までやってきて、ヤマトタケルが内陸の山間部から球磨川へ降りていったのならば、ヤマトタケル=日下部弓集団は、熊襲を真っ向から出会うことになるわけである。
記紀が書いていることが、もしヤマトではなく、九州で起きたことの置き換えだったら?と考えてみる必要はないだろうか?
出雲の出来事は大和でおきたこと、あるいは鳥取での置き換えである。新羅王子アメノヒボコとの戦いも出雲ではなく、なぜか播磨国風土記が伝えている。記紀はまだ狭かった畿内の版図を押しひろげ、日本統一を前倒ししているのである。そのときに場所も入れ替えている。出雲や九州にまで遠征しているわけではあるまい。過去の地方王朝の成立譚を山ほど取り込み、ヤマトの事跡と言い張っているだけの主観的歴史観に過ぎない。