Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

地図でみる生駒山の信仰と物部氏

$
0
0
ランキングタグを押さないで帰る人は来なくていいです。
ファンからも友だちからも切り捨てます。 
 
 
 
イメージ 1
 
 
物部氏の痕跡は生駒山山麓に、南北に長く広がる。
南は八尾市・堺市といういわゆる南河内一帯~北は枚方市・交野市にまで連なる。
 
南の核は石切剣矢神社である。デンボの神様、天照國照彦天火明櫛玉饒速日命とその皇子であるウマシマジ命を祭っている。今は物部氏のというよりも民間信仰のメッカであるが、代々宮司は物部氏支流の穂積氏が勤めてきた。
 
北は肩野物部と呼ばれた交野市の磐船神社が中心。
 
 
イメージ 2
 
聖徳太子時代までの物部氏の版図は、さらに北上して京都市の稲荷山南部、藤森神社にも広がっていたと思われる。また奈良市では三輪山の北部一帯~天理市石上(いそのかみ)にも石上神宮と古墳群が存在する。
 
こうしてみるとやはり物部氏の本体は大和よりも河内であったことがわかる。
継体大王時代には磐井の乱での功績で、本宗家か筑紫へ多くが移動している。
近畿の領地は守屋の乱以後、すべて蘇我氏のものとなり、それが秦氏などに割譲されていった。
以後、竺紫物部氏が事実上の本宗家になってゆく。
大阪の四天王寺には守屋の敗残者の祭祀者が入れられ、守屋の霊も、当初の東成区のカササギ森の宮(環状線森の宮駅前)から四天王寺へ移され、今でも守屋の霊を祀る祭が彼らの子孫によって執り行われている。
 
守屋の領地には多くの軍事倉庫とその集団の神社が点在し、靫負集団の痕跡や馬牧なども点在している。
それらは蘇我氏滅亡後は天皇の領地となり、交野は狩猟区となり、そこからまた藤原氏などへ切り分けられたようだ。天野川にそって、私市は天皇の領地地名である。そこから磐船街道で168号線へ向かうと、右手に磐船神社があり、ニギハヤヒを蛇神として祀ってあり、さらに南下するとナガスネヒコゆかりの鳥見に出る。168号を東へ行けば京都府綴喜郡の京田辺市に出る。筒木は息長氏の領地であり、継体天皇の山背の宮があった。
 
 
東大阪市の石切一帯が日下である。
日本国号の元となった重要な津であった。
 
現在大阪市があるほとんどの敷地は、かつての大阪湾=住之江の海の下で、かろうじて上町台地だけが湾に浮かぶように南北をつなぎ、北の端は今の兵庫県垂水である。
この囲まれた湾を環境考古学上、古河内湖と呼ぶ。縄文海進である。住之江湾は今の枚方市よりさらに北の八幡市~淀まであったと考えられ、古地図では岩清水八幡宮のある男山は巨椋池の中に浮かんだ島のように描かれている。木津川、宇治川、桂川が合流するこの場所は、かつての大湿地帯で、行く手をはばむ葦の原であった。埋め立てられたのは秀吉の時代である。おそらく男山まで物部氏の領地だったのだろう。
八幡市は今でも土地が低く、少し前は台風で船がでることもあった。
 
イメージ 3
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>