筑紫
これを最古では「つくし」と読む。
というのがこれまでの常識で、本当はどう読むのかについて言及した真摯な研究が無い。
筑紫の最古の文献登場は、『隋書』東夷伝の「俀」国伝である。
ここには「竹斯国」とあり、これを「つくしのくに」と読むように日本の研究でではこれまで言われてきた。
それでいいのだろうか?
文字をよくよく見れば「竹斯」の「竹」を「つく」と読む実例は日本にしかなく、竹は「つく」とは読めない。竹は「ちく」である。ならば「ちくし」のほうが古い読みであり、「尽くす」にあてた日本での説は、疑わしいというのが森浩一などから出されている。
隋書よりも古い魏志には「ちくし」「つくし」の国名は登場しない。伊都や奴国で九州が登場する。
ということは三世紀には筑紫という呼称、あるいは国がなかったということなのだろう。
それが隋書では登場する。
隋書の成立は唐の7世紀なので、「ちくし」「つくし」もその頃前後のの中国の人々の認知であろう。
その頃に「竹」文字をあてたということは、筑紫は「ちくし」なのである。
では「つくし」はなぜ言い始められたか?が問題である。
「尽くし」は魏志や同じ隋書にある「倭の極南海」などの表現から、大和朝廷から見た、日本列島の南のさいはてであるという、差別地名ではなかったか?であるならば「つくし」はぼくは使いたくなくなるのである。そのように考えが最近変わってきた。そのような、大和のために尽した地方国家のような扱いが、心外であると思えてきたのである。実際、磐井の敗北以来、九州氏族は元寇をはじめとして、常に日本の最前線で、国土を護ってきた。
しかしその多くは率先した国防意識の発現であり、決して大和朝廷にこびての行為ではなかったと言える。
それは九州に生まれた人間としておかしかろうか?九州は、1000年の日本国家の危機に常に対峙してきた。
ぼくの先祖も、おそらく、この国の危機を、筑紫の水際で、命を惜しまず闘ってきたのであろう。その誇りは今も九州人の中に営々としてあるだろう。