日本最古に使用された文字記号
(文字とするか単なる記号・符牒とするかはおそらく後者であろう)
(文字とするか単なる記号・符牒とするかはおそらく後者であろう)
下記の文字記号以前に中国から持ち込まれた文字はあるが、国内での使用例ではない。
1、 2世紀前半 三重県安濃町大城(だいしろ)遺跡から「奉」(「幸」「年」「与」か?)の字をヘラで刻んだ土器l
2、 3世紀前半 福岡市前原市三雲遺跡(3世紀)出土の3世紀半ばの甕 の口縁部の線刻「竟」
3、 3世紀後半 三重県片部遺跡 灌漑施設深さ1.5mからすすけた土器薄茶色土師器に墨で「田」
4、 4世紀初頭 熊本県柳町道跡 木製短甲破片に「田」の墨書
5、 4世紀前半 「田?虫?中?」の墨書土器(三重県松阪市嬉野町片部遺跡)
この五番目の墨書を今回は扱う。
「平成7年12月、三重県一志郡(現在松阪市)嬉野町の片部遺跡から4世紀前半の土器が出土、
口縁部に「田」とみられる約2.5cm四方の文学が見つかった。町教委などは8年1月に「日本で書かれた最古の文字」と発表したが、「記号ではないか」「虫という文学では」なとと異論も出ている。 」
http://www.daido-it.ac.jp/~doboku/koto/koukogaku/gaku21.html
口縁部に「田」とみられる約2.5cm四方の文学が見つかった。町教委などは8年1月に「日本で書かれた最古の文字」と発表したが、「記号ではないか」「虫という文学では」なとと異論も出ている。 」
http://www.daido-it.ac.jp/~doboku/koto/koukogaku/gaku21.html
画像を見ればわかるが、1996年に同じ遺跡から出ている土器の場合は明確に「田」であるが、今回のはすぐに「田」とは認めがたい図柄だった。中、虫、あるいは巫を表すクロス(後述)など諸説ある。
ここで問題にするのはこの文字が田か虫かとかではなく、巫女を意味するマークであるクロス、十字のことだ。
機織の道具である「かせ・・・枷・桛」を十字に組み合わせたその記号とは?
英文字の「Ⅹ」をまっすぐにした記号・・・
である。
ちなみに桛とは・・・
技術者を言う言葉である「工人(こうじん)」の「工」という文字の元になった象形がこの道具である。
工場、石工、職工などにつく「工」はもともと機織の道具であり、中国ではあらゆる工作・技術の始まりを機織においていたわけである。なぜ土器製作ではなかったのかも不思議なところでもある。
衣食住ならまずは最初に食が来ていいはずなのだが?
道教の大地母である西王母は、土器製作の祖とされ、同時に機織の祖でもある。
それが持っていたのが桛である。
そのことは今年の夏にここに書いた。
つまり桛をクロスさせた上の図柄は「呪模様」であるから桛は呪を職業とした巫(かんなぎ)を差す記号なのだ。
また「井」も同じく巫師を示し、同時に名字でもある。「井さん」は中国では「せい」であるが、この名字は=先祖は巫を表してもいることになる。
日本なら「神宮さん」のような名前である。
クロスさせた桛絵柄は、これを文字と読んでいいのかは難しい。略号を文字というかどうかはまた別の問題になる。ただし漢字の始まりそのものが甲骨文字や象形文字であるから、そもそも文字は記号である。そこ意味があればもう表意文字である。日本の文字の場合、表音文字には意味がなく、ただの音の記号でしかないが、中国にはそれがない。面白いのは仮名やカタカナには、日本人は、意味はないのに言霊を持たせたり、呪や呪いを托している。形状に思いを込める。だから表音文字である仮名も習字・書道では芸術のひとつ、造形美に含んでしまう。意味のない物体に意味を持たせるのが日本人独特の霊的傾向である。器物に霊魂を持たせて妖怪にしてしまうのと同じである。
銅鐸や土器や古墳に最も多く描かれてきた呪模様である渦巻きと、この桛マークはイコールなのである。
それが「呪」ということになる。
呪をたんに「のろい」だとする誤解がある。
呪はのろいなのではなく、むしろ願いなのである。
呪いとは願いの負の表現に過ぎない。
願いの呪の中の裏側としてのろいやたたりは存在するに過ぎない。すべては「願い=呪」である。
これを誤解したままだと、直弧文や弧帯文が「呪」であると筆者が書いたことをまったく誤解してしまうことになる。
永遠の生命を願うこと、死者のヨミガエリを願うこと、その反対に死を望むことは、実はうらはらの同根の呪なのである。
漢字を伝えたのは半島からやってきた学者たち、つまり明確に百済の文氏を筆頭にした書記たちである。それが特定できる誰かだったことなどありえない。ただし、そのきっかけは百済の衰亡があかかっていた聖(明)王~昌王の時代しか考えられない。仏教もその頃、やってくる。そして飛鳥寺が百済工人によって建てられた。すべてはその時代。
つまり正式な仏教伝来も漢字伝来も、飛鳥時代の称徳女帝前後。
「百済の威徳王(昌王)は倭国へ舎利を送り、また飛鳥寺の建設にあたっては百済から瓦. 博士や鑢盤博士などの技術者を招聘した
日本書紀と元興寺縁起」
「百済の威徳王が寺工や鑪盤博士、瓦博士、画工などの技術者を派遣してきたのは崇峻元年、すなわち588年」
要するに正式伝来はこの588年前後である。
(もちろんそれ以前に、九州や瀬戸内や東海にはすでに漢字も仏教も先に来ている。また民間なら大和にも当然、届いていたはずである。あくまでも正式に大和が、の話。大和が=日本がではないことは言うまでもない。大和も飛鳥も単なる日本列島の一勢力にすぎなかい。それが日本の主権を持ったのは天武からである。)
つまり聖徳太子の時代というのは間違いであり『日本書紀』うそ。
称徳女帝以前に大和が中国と正式に交流したことなどまったくなかった。交流があったのは大和朝廷ではなくて河内王朝である。大和朝廷はすべての正式文化流入を百済に頼った文化圏なのである。なぜなら隋唐との国交が蘇我馬子の国書によって達成されなかったからだ。
煬帝の使者・裴清以後、隋も唐も日本の飛鳥王朝とはまったくつきあわなかった。その大和のありようを完全に「かつての倭国とは違う。えらそうにしている。蓬莱の仁徳高い倭人国家とは違う国家」と見たのである。
まさにこの外交ミスこそが蘇我氏を滅ぼす事になる。『日本書紀』が書いているようなことではなかった。
しかも「聖徳太子」の「しょうとく」とは称徳女帝の「しょうとく」をパクってつけた創作名でもあった。
聖徳太子なる人物は存在せず、それはあめのたりしほこである馬子のことで、その子供であるわかみたふりとは当然、蝦夷のことである。蘇我氏は女帝推古を表玄関には立たせなかった。いやたたせようもなにも、大王はその時代「巫女王」であり、政治王ではなかったのだ。推古が巫女王である証拠は、即位してからずっと用明天皇の殯ばかりしている記事で明白。そもそも推古女帝がいなくても蘇我馬子が充分に機能する王である。
このように飛鳥~奈良時代の天皇・大王はいてもいなくても日本の政治にはなんの影響もなかった。
王ではない存在は、外交上なんらの意味も持っていない。
現代はもちろん天皇にはステータスがあって海外もそれを知っている。
ところが当時の海外諸国は日本の天皇のことなど誰も知らなかったわけである。
隋書の女帝記事不在はそういう理由であろう。
なおかせには枷という文字で
という意味もある。
呪にもそういう「かせ」があるのである。
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