長文引用
奈良県立橿原考古学研究所友史会2010年2月例会
「平群へぐり谷の古墳」
案内 村社仁史氏(平群町教育委員会) 千賀 久氏 集合近鉄生駒線平群駅
三里古墳 →現・長屋王墓(梨本南2号墳)→現・吉備内親王墓→ツボリ山古墳→あすのす平群→西宮古墳
→ 剣上塚古墳→石床神社旧社地→柿塚古墳→烏土塚古墳→宮山塚古墳→宮裏山古墳→竜田川駅
→ 剣上塚古墳→石床神社旧社地→柿塚古墳→烏土塚古墳→宮山塚古墳→宮裏山古墳→竜田川駅
「平群谷には、北から竜田川がその中央を南流していて、その両岸の丘陵地帯に70基ほどの古墳が確認されている。
それらの分布状況をみると、比較的広い平坦地が広がる右岸に、甲胃をもつ剣上塚古墳、初期横穴式石室の大塚山古墳、そして、前方後円墳の烏土塚古墳、方墳のツボリ山古墳、西宮古墳などの主要古墳が集中する。後者の3基は、特に目立った所を選んで築いていることに注目できる。
それに関連して、平群谷の横穴式石室の変遷をみると、まず、玄室の上部をドーム状に積み上げる構造の石室が、最初の宮山塚古墳から三郷町勢野茶臼山古墳、柿塚古墳と続く。そして6世紀後半に、畿内型大型横穴式石室が採用される。それは、玄室の天井が平天井で、大和や河内の主な大型横穴式石室と共通の特徴をそなえた石室構造であり、烏土塚古墳、ツボリ山古墳、西宮古墳の3基がそれにあたる。つまり、烏土塚古墳の段階に畿内型大型横穴式石室を採用した背景に、その被葬者(平群氏)が中央政権の構成メンバlとしての地位を確立したことが想定でき、同時に、地元での勢力基盤も安定したものになったとみられる。左岸地域でも、梨本南2号墳が6世紀前半の前方後円墳と確認され、可能性のある三里古墳とともに、梨本地区周辺での今後の調査に注目できる。」
「竜田川左岸の三里・梨本地区に、三里古墳がある。
墳丘の周囲は大きく削られていて、その墳形は、円墳と前方後円墳の両方の可能性が考えられ、円墳では径24m、前方後円墳の場合は長さ約35mになる。
石室は、上部の石が抜き取られていたが、その床面はよくのこっていた。両袖式の石室で、玄室の幅は2.4m、長さ約4.9m、羨道の幅1.5m、長さ7.1mで、玄室の奥壁に床面の上40cmのところに低い石棚を造り出している。
墳丘の周囲は大きく削られていて、その墳形は、円墳と前方後円墳の両方の可能性が考えられ、円墳では径24m、前方後円墳の場合は長さ約35mになる。
石室は、上部の石が抜き取られていたが、その床面はよくのこっていた。両袖式の石室で、玄室の幅は2.4m、長さ約4.9m、羨道の幅1.5m、長さ7.1mで、玄室の奥壁に床面の上40cmのところに低い石棚を造り出している。
石室内には組合式家形石棺(二上山の凝灰岩製)が中心の棺で、馬具や鉄刀・須恵器・土師器の多くはこの棺に伴う。羨道にも花山岩の組合式石棺があり、このほかに、玄室と羨道の各1か所と、石棚の上下の空間にも埋葬された可能性はある。
副葬品は、鐘形の鏡板と杏葉がセットの飾り馬具と、心葉形鏡板をともなうもう一つの馬具セット、150点ほどの須恵器と土師器、各種の玉や鉄刀などがある。須恵器や馬具の特徴から、六世紀中葉から後半に埋葬が続けられたことがわかる。
ところで、石棚をもつ横穴式石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群をはじめとする紀伊地域を中心に、近畿の北部と瀬戸内から九州の一部にまで分布する。これらは、文献史料で想定される紀氏一族の分布に重複する地域が多く、石棚のある横穴式石室は紀氏とその同族が造った墓と考えられ、三里古墳も同様な性格づけができると、河上邦彦さんが報告書で指摘している。
これに対して辰巳和弘さんは、岩橋千塚などの石棚は高い位置にあり、石室の構造材としても機能していて、三里古墳の低い石棚はそれらとは同列に扱えないこと、さらに、平群谷に紀氏が居住したのは奈良時代以降として、否定的な見解を示している。」
これに対して辰巳和弘さんは、岩橋千塚などの石棚は高い位置にあり、石室の構造材としても機能していて、三里古墳の低い石棚はそれらとは同列に扱えないこと、さらに、平群谷に紀氏が居住したのは奈良時代以降として、否定的な見解を示している。」
実はこの平群谷にはすぐそばに吉備内親王の墓もあるのだ。古くから吉備王家ゆかりの地でもあるのだろう。
石棚とは古墳石室の一番奥の壁面に、壁に溝をほってはめこんだ屍床(ししょう)状の棚である。屍床とは九州北部から熊本に多い石屋形(いしやがた)と呼ばれる開放型石棺に付随した遺体を直接置く空間のこと。古い古墳ではさらにその上部に石棚も同居することがある。
時代的に、屋根である石棚と床段の形式が古く、やがて床の両側に化粧板が全面を除く三方を囲むように置かれ始め、さらにはその上に唐様式のような屋根が置かれた。それとともに石棚は役目を終えたが、かなりあとまで形式的に残される古墳がある。結局この死床、石屋形が九州式横穴古墳の様式とともに畿内へと持ち込まれたのが紀ノ川沿線から平群の二段式石棚石室ではないかと思われ、ヤマトではこれがよりシンプルで密閉性の高い「石棺」へと変化した。
最初に持ち込むのは九州の海人族木部である。これが紀氏(木氏)の祖先であろう。
ただいま全国分布図作成中。
和歌山県紀ノ川南岸の岩橋千塚古墳の石棚
ちなみに筆者近隣には石棚を持つ千代丸古墳があるが、ここには線刻画が刻まれており、木部首長の墓だったと考えられる。国東の伊美鬼塚や下原と同系統の種族であろう。
いずれにせよ紀ノ川海部といい、国東といい、宇佐といい、また東国茨城県にまで装飾と石棚を運んだ氏族は彼らである。