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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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屍床→石屋形→石棚へ 時代・地域移動拡散とその変遷

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というわけで、前の記事で書いた横穴式石室の西から東への伝播とともに移動拡散してゆく石棚石室の変遷を時代を経て一目瞭然にしてみた。
 
 
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最初は屍床だけだったものが5世紀後半の古墳初期には隔壁を両側に置き、さらに6世紀までに上部に石屋根が置かれていく。このセットが「石屋形」である。前方は開放されていて遺骸は見える。これは追葬や墓参りを念頭に置いた構造で、死者の腐ってゆくさまが参拝者に丸見えになる。しかし横穴式以前の畿内型竪穴式石室や石棺では密封されるためそれが見えない。つまり横穴式は家族葬のための古墳であり、何代も追葬可能。
 
要するに記紀神話にあるイザナギの黄泉巡りの着想は畿内型竪穴式石室では生まれえず、九州型横穴式石室が畿内に導入されてからの着想である。ということは海人族が伝えてきたのが神話の根幹だということになる。
 
九州式横穴石室構造図と屍床
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大分市歴史資料館
 
 
 
終末期までに、氏族の末端である部民たちがこれをシンプルにした複数石棚と近畿考古学が呼んでいる紀ノ川・平群のものに簡略化してゆく。このころ、薄葬令が出されているので終末期古墳はぐっと小さくなる。それにともなって部の首長たちの墓も縮小・簡略化されたと考えられる。それは大分の千代丸古墳を見ればわかるように九州などの地方でも同様であった。
 
ところがその頃ようやくこれらの古墳様式が届いていた東国・北関東ではここから古墳繁栄期が始まっているのである。ゆえに古墳後期~終末期であるはずのときに、茨城や福島には豪華な装飾古墳や大前方後円墳が作られたわけである。
 
このように文献だけでなく考古資料からも筑紫そして吉備、最後に葛城と、政権がヤマトに平定されてゆく歴史がしのばれる。記紀は最初に出雲、次に南九州、やがて吉備を順番に帰順させていったと書いている。まさにその通りの順番で古墳は変化して行く。なぜ出雲や筑紫や吉備を雄略以後のヤマト王家が滅ぼすのか?それは当然、大陸交通の要衝港だからである。最後に6世紀中盤に筑紫国造家が継体大王によって滅ぼされると一気にヤマトは飛鳥時代が開花し、蘇我王権が樹立された。これを再び転覆したのが吉備王家と葛城残党と九州多氏系譜と東海・東国を味方にした天武天皇なのである。ようやく天下は元の鞘に収まった。大海人皇子の名はまさに縄文から弥生の海人政権の復活だった。しかし天武死後、再び藤原氏によって政権は静かに転覆してゆく。
 
邪馬台国~狗奴国、狗奴国からまた邪馬台国へ、その後も日本の政権は何度も何度も交代劇を繰り返すのである。
 
これが木部海人の古墳様式伝播の歴史である。わかりやすいと思ったら下のタグをクリックしてください。
 
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