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紀氏系海部と石棚石室分布図など図解資料

 
 
 
 
紀州式石棚石室と肥後式石屋形横穴式石室の分布
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双鳳文鏡分布図
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この鏡については別記で解説
 

 
 
全国海部の分布
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関連資料
 
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3世紀後期出現期の古墳一覧はいずれ作成します。
全国的に箸墓と同時代、あるいはそれ以前の前方後円墳はかなりの数再認識されており、今後もさらに増える傾向。
これまでの纏向古墳群最古という、近畿に偏った考え方はすでに古いということでしょう。近畿考古学の邪馬台国是が非でも畿内説は、全国認知度をかてにしたマスコミが作った話(恣意的捏造説)になりつつあるのが現状です。
 
実際、纏向遺跡からは昨今、邪馬台国を証明できる証拠品の発掘は皆無で、むしろ唐古・鍵遺跡の見直しがよく聞こえています。纏向は狗奴国というのが今はいいように感じます。むしろヤマト説で言うなら紀ノ川~葛城地域のほう、あるいは淀川水系の調査がこれから重要でしょう。
 
 
九州の南北や東九州からやってくる紫金山古墳や葛城の古墳群から出る直弧文や貝輪と紀氏の関係がわかれば、邪馬台国と狗奴国の相関関係や位置関係は必ず見えてくるはずでしょう。
 
倭人伝や韓伝にある「倭韓」表現でも半島南端に倭人の韓の国があったと考えられ、その風習は海人族・海士のものでありましょう。
海人を中世の海賊とあなどっていてはなりますまい。彼らが日本人のDNAと日本独自の文化に与えた影響は、ほかの氏族の追随を許しません。源平の勝敗を分けたのも瀬戸内海の海賊たちでしたし、藤原純友も海人を使いました。遣唐使もまた海人ナビゲーターなしにはなしえず、空海も四国海人族の財力で入唐したわけです。
のちにキリシタンバサラ大名・豊後大友氏が海外貿易で繁栄した背景にも古代から豊後にあった海部があったと思えます。宇佐から豊前地域から遠賀川へつながる「豊」の文化圏に連なる古墳群の主たちは、渡来人秦氏と合体して八幡信仰の大本を作り出す。那賀郡でつながる全国海岸部は、遠く鹿嶋・香取へつながっております。そこから福島を経て東北宮城、岩手へと鉄の道も形成し、それがヤマトタケル神話、景行吉備王権に反映、吉備を中心とした紀氏たちの海人ラインは九州から東国・東北へ広がっています。日本海の安曇部、南九州の久米部・隼人らとともに彼ら海人族は、天皇家を動かします。さらにアマテラス信仰を天武・持統が生んでゆく背景もまた海人族の太陽信仰にあったのです。紀氏が佐伯氏と組んで、蝦夷を全国に運んでもいきました。日本の歴史はまさに彼らとともに動いた。これは西欧から中東においても海洋民族が海をつないで歴史を動かしたことに通じます。
 
昨今、沖縄のミナトガワ人や旧石器人の高度な文明がクローズアップしていますが、海人はそのDNAさえ受け継いでいた、縄文人よりも日本最古の日本人の祖先だった可能性があるのです。これが今も日本人が共通して持っている島人文化の根幹にあります。
 
歴史ブログを始めたときから海人族をテーマにやってきたことは、どうやら間違いではなかったようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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