通常の器台・壺から特殊器台・特殊壺へ
「弥生時代最初期から壺形土器が、少し後に器台が現れる。器台はサイズが大きく、装飾性が強いことなどから日常的には使用されなかった道具と考えられる。器台は壺、甕、皿などさまざまな器物を載せるためのものであるが、壺に比し出土数はきわめて少ない。弥生時代中期頃になると壺とともに器台が各地で見つかるようになり、器台に壺などを載せて、祭祀に使われたのではないかと推測される。
「弥生時代最初期から壺形土器が、少し後に器台が現れる。器台はサイズが大きく、装飾性が強いことなどから日常的には使用されなかった道具と考えられる。器台は壺、甕、皿などさまざまな器物を載せるためのものであるが、壺に比し出土数はきわめて少ない。弥生時代中期頃になると壺とともに器台が各地で見つかるようになり、器台に壺などを載せて、祭祀に使われたのではないかと推測される。
収穫祭には、収穫された米で作った酒や新米で作った粥を壺に入れたり、さまざまな形の器台に収穫物を載せ、神を招き、神の前で、ともに飲食し、神に収穫の感謝や願いごとをしたのではないかと想像できる。そのような儀式を相嘗(あいなめ)、直会(なおらい)といった。
これらの儀式を、血縁があり、集落の人々と親しかった首長が取り仕切って、酒を飲み、食べ物を分け、また、穀霊や田の神、水の神、山の神、土地の神などさまざまな神に酒や食べ物を捧げたり、祈祷をしたのではないだろうか。
この祭祀の道具立てとして器台と壺が、弥生時代の中期に主に西日本で広く使われるようになった。
この頃の普通器台は器形が比較的長く細身だが、後期前葉には、次第に重量感のあるものに変化していく。 後期後葉になると、器台は非常に重量感を増して全体に文様(鋸歯文、沈潜文)が描かれるようになり、上部と裾の間が長い筒状になり、方形の透かし孔も見られるようになる。壺は、首の長いハの字の形になり、この要素は特殊壺に引き継がれる。 後期中葉から後期後葉に遷る頃の器台と壺の中から、特殊器台と特殊壺が生まれる。この二つは備中南部に現れ、吉備中に広がっていく。特殊器台と特殊壺が出現する頃になると、吉備では村々で普通の器台と壺はほとんど使われなくなる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%99%A8%E5%8F%B0%E3%83%BB%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%A3%BA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%99%A8%E5%8F%B0%E3%83%BB%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%A3%BA
器台とは弥生時代中期~古墳時代初期の祭祀や葬儀で使われた供物(くもつ)を皿に載せて置くための土器である。今で言うなら三宝にあたる。主として古墳での祖霊降臨による新しい子孫の生誕祈願祭祀に、古墳に置かれた器物。吉備形特殊器台はこれから発展したと考えられることが多い。普通器台とか筒状器台などと呼ばれて特殊器台と区別される。
その出土地はこれまでに、
1 大分県大分市 浜遺跡
2 山口県熊毛町 天王遺跡
3 山口県玖阿町 畑岡遺跡
4 愛媛県松山市上 土壇原(どたんばら)遺跡
5 愛媛県松山市小坂 釜の口遺跡
6 兵庫県赤穂市原 田中弥生墳丘墓
といった瀬戸内水系の遺跡や墓から出ており、淀川水系でも、大和川水系でも出土している。
7 大阪府高槻市古曾部 芝谷遺跡
8 大阪府八尾市 中田遺跡
9 奈良県田原本町 唐古・鍵遺跡
8 大阪府八尾市 中田遺跡
9 奈良県田原本町 唐古・鍵遺跡
特殊器台が吉備地方より西に皆無であることから、それ以前の形式のものとして筒状器台による吉備同様の祭祀が行われ、それが瀬戸内を西から東へと移動して弥生時代終末期(3世紀後半、纏向遺跡の少し前頃)に特殊器台が生まれたと考えられる。特殊器台には独特の「弧文」が装飾されることが多く、この模様は弥生時代九州首長たちがステータスとした南海産貝殻を加工してできる渦巻きの幾何学化であろうと考えられるので、この弧文のデザインや弧帯文と呼ばれる渦巻き模様の発信源は吉備からで、それが纏向遺跡から特殊器台や木製円盤として出たということは、纏向遺跡とは最初、吉備勢力が入り先住者を平定、あるいは帰順させた遺跡だと考えられる。さらに東海系、四国、山陰・山陽系、九州系土器が纏向から出ているので、吉備勢力は西日本から東海までの広範囲な地域を祭祀や前方後円墳によって治めていたと考えられそうである。
その吉備型特殊器台や貝らせん模様のさらなる震源地は西の九州であることは出土品の原初形が東へ行くほどにほかの素材で作られ代用されたり、デザインの洗練・簡略化が見られるためまず間違いない。古墳時代に入るとこれらの吉備経由のデザインは大阪淀川水系の紫金山古墳、そして大和南西部の葛城地域へと伝播する。この持ち込んでいくラインはやはり瀬戸内海から淀川、大和川、紀ノ川を伝う海人ルートに合致している。もちろん材料である貝そのものを琉球などへ採りにいっていた士族も遠洋航海船と海中に水没する技術がなければなるまいので、九州の海人族であろうし、その歴史は古く、縄文時代後期からに及ぶ。また貝模様、らせん模様の呪性は遠く東北地方にまで及んでおり、これもまた稲作や鉄を古くから運んでいた海の航海者でなければ不可能である。
このように日本列島の最新技術や流行が西から東へ海人族の手によって運ばれていたことは間違いがない。しかしある時代から、今度は吉備あるいは大和から逆コースで瀬戸内を遡る技術や加工品やが見えるようになる。この時代はつまりヤマト新政権による列島東西の平定・統一化の始まりであり、それはほぼ雄略大王の5世紀中盤前後に始まるのである。ヤマトタケルと祖父・景行や父・仲哀、あるいは神功皇后の東西を鉄によって平定していく物語は、まさに雄略時代の東西平定を3世紀~4世紀に置き換えたものであり、その雄略を倭王武と比定可能にするのが、同時代中国の史書に書かれてある倭王武の上奏文にある「祖は甲冑を貫いて」「西は●ヶ国、東は●ヶ国を平定し」「寧処にいとまもないほどだった」という祖先伝承に合致するのである。
その時代は雄略よりも百年ほど昔の四世紀のことになるだろう。古墳が全国的に広がり始める時代である。その頃の古墳、つまり纏向と同時代、纏向プレ古墳群と同時代・・・3世紀後半の全国分布を作っていかねばならない。再審考古学では、吉備の2世紀に作られた墳丘墓が纏向で前方後円墳になるとされ、それが最初に九州へと伝わる時代が3末期の豊や筑紫遠賀川からであろう。
しかしその古墳群は雄略たちのヤマト式なのではなく、あくまでも紀氏のような人々が瀬戸内海で播磨・安芸・長門・伊予・淡路島・讃岐を経てまず豊の周防灘沿岸から上陸しており、そこから南北へ海・川を伝って広がった。豊の国東から宇佐を経て豊前海岸、そして穴門・英彦山山系を越えてを抜けて遠賀川へである。この逆行コースこそが倭王以前に吉備、紀ノ川、葛城の海人族が雄略に先んじて日本の東西の統率者であったことを明らかにしている。
それが記紀の雄略大王の吉備・葛城殺しに記録されたわけである。ここで間違えてはならないのは、雄略大王の後半生を『日本書記』は決してよく描いていない、むしろ悪魔のようなと書いたことであろう。飛鳥~八世紀のヤマト朝廷は雄略を始祖と認めてはいたものの、それは建前であり、その政権は継体という緩衝材によって奪われてしかるべきもの、つまり自分たちとは縁遠い祖人扱いにしているわけである。つまり倭王政権は転覆されたことになろう。
その記録は雄略よりずいぶん前の神功皇后紀に忍熊王の反乱として描かれた。倭王の祖人である応神天皇と腹違いの息子が、新羅から戻った神功皇后と応神天皇のヤマト入りの邪魔をするのである。当時、大和には吉備残存勢力と葛城氏の反抗勢力があったと思われ、そこには紀氏や平群海人族らが加担していたのだろう。だから忍熊の反乱とは武内宿禰系九州海人族の倭王への反発なのであろう。
『日本書記』はこの事件を、当時の二大勢力による血脈争いとはしたくなかった。なぜなら『日本書記』思想は天皇は万世一系、血脈は神武から途切れないとしなければならないからである。だから直前の王権だった雄略よりもずいぶん前に話を置くことになったのだろう。これは歴史の捏造でもあるし、遠い昔のおろかないくさであると責任逃れしたともとれる。
実際、次の継体大王も、応神×忍熊と同じく淀川でヤマト方に邪魔されたわけで、これも責任逃れなのである。飛鳥王権は雄略でも継体でもなく欽明が「押し開く」。要するに雄略は建前上の祖人だが、事実上の祖人は欽明であるということになろう。
やがて蘇我氏が登場し、それらの創作された飛鳥建国「神話」は律令国家造営のためにくっきりと具体性を持った道筋を持ち始める。日本の信頼できる文献古代史とはここから始まるのである。その蘇我氏が果たしていかなる系譜から出たのかを『日本書記』はしかし明確にしない。葛城の血脈なのか、渡来なのか、紀氏なのか・・・いまだに明確な答えは出されてはいない。しかしいずれにせよ、藤原氏がつくりあげる律令国家の体制はすでに蘇我氏やのちに孝徳や天武が外郭をすでに作っていたものの受け売りと思想導入した皇国イデオロギーによる加工品なのであ
ろう。