Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

久米と大伴/歌こそ見ゆる名こそおしけれ 久米歌と家持和歌から

$
0
0
 
久米歌
 
<古事記 中巻 神武天皇 三より>
 宇陀の高城に鴫罠張る
我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る
前妻が肴乞はさば たちそばの実の無けくをこきしひゑね
後妻が肴乞はさば いちさかき実の多けくをこきだひゑね
 ええ しやこしや こはいのごふそ
 ああ しやこしや こは嘲咲ふぞ

<現代語訳>
 宇陀の高地の狩り場に鴫の罠を張る。
 私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨がかかった。
 古妻がお菜を欲しがったら、肉の少ないところを剥ぎ取ってやるがよい。
 新しい妻がお菜を欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取ってやるがよい。
エー、シヤコシヤ。これは相手に攻め近づく時の声ぞ。
アー、シヤコシヤ。これは、相手を嘲笑する時の声ぞ。
 
 
<古事記 中巻 神武天皇 四より>
 忍坂の大室屋に人多に来入り居り 人多に入る居りとも
 みつみつし久米の子が 頭椎い石椎いもち 撃ちてしやまむ
 みつみつし久米の子らが 頭椎い石椎いもち 今撃たば宜し

<現代語訳>
 忍坂の大きな土室に、人が数多く集まって入っている。どんなに人が多くても、
 勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、撃ち取ってしまうぞ。
 勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、今撃ったらよいぞ。
 
 
みつみつし久米の子らが 粟生には 臭韮一本
そねが本そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ

<現代語訳>
 勢い盛んな久米部の兵士が作っている粟の畑には、臭い韮が一本生えている。
そいつの根と芽を一緒に引き抜くように、数珠繋ぎに敵を捕えて、撃ち取ってしまうぞ。
 
 
みつみつし久米の子らが 垣下に植ゑし椒 口ひくく
吾は忘れじ 撃ちてしやまむ
<現代語訳>

 勢い盛んな久米部の兵士が、垣のほとりに植えた山椒の実は、口がヒリヒリする程辛い。
 我々は、敵から受けた痛手を忘れまい。敵を撃ち取ってしまうぞ。
 
 
 
神風の伊勢の海の生石に 這ひもとほろふ細螺の
 い這ひもとほり 撃ちてしやまむ

<現代語訳>
 伊勢の海に生い立つ石に、這いまわっている小さい巻貝のように、
敵のまわりを這いまわってでも、敵を撃ち取ってしまうぞ。
 
 
 
楯並めて 伊那佐の山のこの間よも い行きまもらひ戦へば
吾はや飢ぬ 島つ鳥鵜養が伴 今助けに来ね

<現代語訳>
 楯を並べて伊那佐の山の木の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、
 我々は腹がへった。鵜養部の者どもよ、今すぐ助けに来てくれ。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kumeuta.htm
 



久米氏には来目氏表記がある。
久米部の統率者である。
大伴連氏と同族の氏族と、それ以外の久米部にわかれる。雄略時代に大伴氏の配下となる?

あるいは諸説に、大伴氏は来目から出たとも。
『日本書記』星川王の乱条に、星川関係者の河内三野縣主小根は星川反乱の罪を逃れるため、大伴室屋大連に「難波来目邑大井戸田10町」を、草香部吉士漢彦に田地を贈ったとある

『日本古典大系・日本書記』頭注には久米氏は「紀伊国名草郡岡崎村」と本拠とする氏族の可能性が示唆してある。
久米氏は海部としての久米部を管理するよう指示された氏族であろうから、その出身を畿内に求めるのも致し方ないが、久米部そのものの出自は筑紫に久米があり、また南九州奄美に久米島があり、南海の海人族と見てよかろう。船の民であったことは「みつみつし」の歌などから間違いあるまい。
 
記録にある瀬戸内の久米
イメージ 1
 
大伴家持には
大伴が久米と古くから同族であるという和歌があり、またあきらかに海軍的な「海行かば」の歌もある。
大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負い持ちて 仕えし官  万・4094
大久米の 丈夫健雄を 先に立て
仕え来る 祖の職と 言立てて    万・4465

大伴氏は雄略・継体まで、西国の靫負集団(ゆげいしゅうだん・弓矢で相手を威嚇する門番)を統率しており、同族には佐伯氏、東国支配の膳氏とも同族で、佐伯氏と紀氏の関係から、紀氏とも婚姻があったと考えられるが、もっとも古い同族が久米氏である。その上下関係は諸説あるが、5世紀までに大伴>久米となったと見てよかろう。
 
久米の名前の由来も諸説あるが、聖徳太子の弟・久米皇子は久米氏をめのととしたからであろうこの名前を持っており、例の新羅けん制のための筑紫遠征した場所に久米がある。この由来はもともと久米部がいたからであろうと筆者は考える。しかし文献は久米皇子由来であると記録している。

雄略が滅ぼした葛城氏と、その後の王権の関係修復に、久米氏はかなり尽力したといわれ、それを支えていたのが大伴氏だとも言う(高橋富雄)。
 
雄略以後~継体直前の『日本書記』記録はあまり齟齬がないと考えれば、久米氏が雄略時代以後登場するのも、その頃から久米氏が畿内にやってくる、それを根回ししたのが大伴氏ということなのかも知れない。
 
この時代から衰退した吉備を紀氏とともに再建して行ったのも久米氏である。鉄製さんを掌握し、これを基盤として大伴連金村は継体大王を擁立できたと見られる。凡直氏が牛耳っていた四国伊予に割り込んだのも久米氏である。継体が多くの海人氏族に推挙された理由も久米や安曇や海部や紀氏や物部氏や尾張氏らの根回しがあったかも知れない。そもそも越前気比から九頭竜川までは継体母方の三尾(みお)氏の本拠地で、奇しくも先日、琵琶湖安曇川(高島市三尾(水尾))の遺跡から新たに古墳後期の円墳が出た。父方息長氏も安曇と関わる海人氏族ゆえ、継体の海のネットワークは全国規模である。
 
畿内では伊勢湾を中心にして広く居住。久米氏はだから尾張氏や紀氏らともえにしを持っている。

つまり久米氏は記録にはないが応神天皇の登場とともに大伴氏・膳氏・靫負集団、安曇、紀氏・尾張氏・吉備氏などとともに瀬戸内海を東上してきた古い王家の関係者であろう。それよりももっと古く畿内に入った倭直・物部・葛城などとも深いかかわりを持つのは、船の民ゆえである。
 
同じ海人出身者でも王家に入り込む氏族と、からめてから傍観しつつ時あれば、洞ヶ峠から出て形成有利なほうに味方するものもある。なかなか氏族をひとくくりで結論することは難しい。

ただある時期・・・久米氏で言えば久米舞を奉納した時期から、政権に加担し配下として帰順したことはどの氏族にも言えることであろう。地名残存率の高い久米は、大伴氏が衰亡しても生き残った氏族だったと言える。
 
いずれにせよ、同じ地名を名乗っていたからと言って、すべてが同族だと決めてしまってはなるまい。久米に入って名乗る別氏族も当然ある。先にいた久米の地名が、久米がいなくなってあとから来た氏族がそのまま名乗るなどは、中世や戦国時代にもざらにある。佐藤が全部藤原氏だったわけでもなく、鈴木がすべて伊勢の人だったわけでもない。藤原にもピンからキリまであれば、部民もあれば、まったく無関係なただの権威取り込みのおまじないのような名乗りもある。
 
氏族をひとくくりにしたい研究者や愛好家も多々あるが、話は半分に聞いておくべきである。
 
自分のルーツは自分で探し出すしかない。人に頼っても他人の系譜で満足してしまう場合が多い。

とにかく菊池山哉・喜田貞吉らが言ったように、日本人の大半は渡来ではなく、縄文からの倭人=海人・山人が渡来と混血したものなのである。それが中国人や朝鮮人とは違う日本人だけのアイデンティティだということはお忘れなく。元をたどれば南海の島人先土器時代人にまで遡れる。稀有な人種であるぞよ~~~。誇っていい。
 
久米の大元は羽人だったやもしれんな。
 
 
イメージ 2
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>