なぜ深草は紀伊郡なのか?
稲荷山・深草一帯の京都市南部をかつて紀伊郡といった。
その理由は実はわかっていない。主観的に紀伊=紀氏としていて、秦氏以前に紀氏がいたからだろうと俗説はしているままである。
稲荷山・深草一帯の京都市南部をかつて紀伊郡といった。
その理由は実はわかっていない。主観的に紀伊=紀氏としていて、秦氏以前に紀氏がいたからだろうと俗説はしているままである。
では本当に紀氏由来の紀伊郡なのであろうか?
しかし京都府の木部姓残存はわずかに8家族にとどまる。
木部さんの同姓の人数は京都府に 8人http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%9C%A8%E9%83%A8&tdfk=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C
しかし京都府の木部姓残存はわずかに8家族にとどまる。
木部さんの同姓の人数は京都府に 8人http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%9C%A8%E9%83%A8&tdfk=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C
京都市北区
0
京都市上京区
1
0
京都市上京区
1
京都市左京区
0
京都市中京区
0
0
京都市中京区
0
京都市東山区
0
京都市下京区
1
0
京都市下京区
1
京都市南区
1
京都市右京区
1
1
京都市右京区
1
京都市伏見区
0
京都市山科区
2
0
京都市山科区
2
京都市西京区
0
福知山市
0
0
福知山市
0
舞鶴市
0
綾部市
0
0
綾部市
0
宇治市
1
宮津市
0
1
宮津市
0
亀岡市
0
城陽市
0
0
城陽市
0
向日市
0
長岡京市
0
0
長岡京市
0
八幡市
0
京田辺市
1
0
京田辺市
1
京丹後市
0
南丹市
0
0
南丹市
0
木津川市
0
乙訓郡大山崎町
0
0
乙訓郡大山崎町
0
久世郡久御山町
0
綴喜郡井手町
0
0
綴喜郡井手町
0
綴喜郡宇治田原町
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相楽郡笠置町
0
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相楽郡笠置町
0
相楽郡和束町
0
相楽郡精華町
0
0
相楽郡精華町
0
相楽郡南山城村
0
船井郡京丹波町
0
0
船井郡京丹波町
0
与謝郡伊根町
0
与謝郡与謝野町
0
0
与謝郡与謝野町
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本当に紀伊郡は木部・紀氏由来なのであろうか?
考古学的稲荷山考察
「「お塚」の前身は古墳である。古墳時代前期頃(3世紀)から稲荷山の峰々には大小の古墳が築かれ、秦氏進出以前からこの辺りを支配していた首長の墓域であった。一の峰古墳は円墳(径約50m)・二の峰古墳は前方後円墳(長約70m)、三の峰古墳は墳形不明の前期古墳で、その他にも円墳3基(後期古墳)などがあったという。
今、これらの古墳は姿を替えて、それぞれ「上社」・「中社」・「下社」と呼ばれ、周りには大小の「お塚」が群集していて、そこに古墳の痕跡をみることはできない。」
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/inari-inaritaisya.html
考古学的稲荷山考察
「「お塚」の前身は古墳である。古墳時代前期頃(3世紀)から稲荷山の峰々には大小の古墳が築かれ、秦氏進出以前からこの辺りを支配していた首長の墓域であった。一の峰古墳は円墳(径約50m)・二の峰古墳は前方後円墳(長約70m)、三の峰古墳は墳形不明の前期古墳で、その他にも円墳3基(後期古墳)などがあったという。
今、これらの古墳は姿を替えて、それぞれ「上社」・「中社」・「下社」と呼ばれ、周りには大小の「お塚」が群集していて、そこに古墳の痕跡をみることはできない。」
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/inari-inaritaisya.html
「稲荷山山頂の古墳は前期古墳で四世紀後半築造とされています。
ここ一ノ峯は直径50mほどの円墳だったそうです。
稲荷明神が鎮座したという記載される
711年より300年も前のことです。
そしてその古い塚(古墳)を中心にして円陣を描くように
私的なお塚群が現在も設置され続けています。」
ここ一ノ峯は直径50mほどの円墳だったそうです。
稲荷明神が鎮座したという記載される
711年より300年も前のことです。
そしてその古い塚(古墳)を中心にして円陣を描くように
私的なお塚群が現在も設置され続けています。」
稲荷山の古墳群が4世紀に存在し、それが秦氏よりも先だったかどうか自体解明はもう不可能になった。京都市南部~綴喜郡八幡の巨椋池周辺に弥生時代の遺跡がある。これを筆者は秦氏前身のものと思い込んできたのだが、それが木部ではなかったかと最近思うようになった。なぜなら主観的だが木部と宇治市小倉の地名由来になった木地師の関係にふと思いが至ったためである。
木地師のような匠(たくみ)はそもそも森林・材木をこととする杣(そま)、番匠(バンジョウ)(=きこり)から出てくるわけだが、彼らのいた地名と木部の地名とはリンクする場合がある。
つまり木部・紀氏そのものが当初から船の民である限り、山林とは切っても切れない関係にあり、樵や木地師になっていったとしてもおかしくない存在なのではないかという思い付きである。
今日のところはここまでにしておく。なにも証拠がない。