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法隆寺と大伴・久米・登美資料2

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今日も資料の提示をしておく。
さて、これらの資料から、聖徳太子にも関わる、ある意外な結末を果たして導き出せるだろうか?大伴・久米という最古級の氏族と聖徳太子・蘇我氏・久米皇子の出自がにじみ出てくるだろうか、という、これは壮大な試論なのかも知れない。
 
書きながら考える。着想を資料が結び付けてゆく。これが筆者の、古代史の最大の楽しみ方である。
 
 
 


 
 

■鳥見(とみ) 角川地名大辞典 
とみ  鳥見 
 「鳥見・迹見・迹見・富などと表記する。富雄川沿いの古地名。 
 鳥見は鳥貝(鳥飼)を誤写した結果生じた地名か(富雄町史)。鳥飼部を二字化した鳥部(とべ)からトビ・トミに変化し、一方ではトリカヒの音も併存したとも考えられる(地名伝承伝)。 
 
 鳥名の鵄に付会して金鵄伝承が発生したものか。すなわち神武即位前紀戊午12月丙申条によれば、皇軍が長髄彦の軍と戦いを交えた折、金色霊鵄が飛来し、皇弓の弭に止まったため、長髄彦はその光によって戦意を失い敗れた。この時から「長髄邑」は「鵄村」と称され、「今鳥見と云ふは、是訛れるなり」と見える鵄邑伝承地の1つ。
 
 また「旧事紀」天孫本紀には、饒速日尊が天神御祖そ詔をうけて天磐船に乗り、河内国河上哮峰に天降し、次いで、「大倭国鳥見白庭山」に遷座したとあり、また饒速日尊は長髄彦の妹、御炊屋姫を妻とし、天羽々弓・天羽々矢・神衣帯手貫の三物を「登美白庭邑」に隠し、納め、墓とするよう夢告したしたとある。
 
 
〔古代〕登美
 大和期から見える地名。添下郡のうち。
 
① 迹見池 
 垂仁紀35年10月条に「倭の狭城池及び迹見池を作る」とあり、「大和志」は添下郡池内村(現大和郡山市池ノ内町)に比定する。
② 登美村
 「行基年譜」(続々群3)天平3年条に隆福尼院は「大和国添下郡登美村」にありと見える。同院は宝亀4年故大僧正行基法師が生前修行した40余院のうち、いまだ田を施入されていなかった「大和国菩提・登美・生馬・河内国石凝、和泉国高渚五院」に添下郡の田3町、「河内国山崎院」に2町を与えると見える登美院と同所であろう(続紀宝亀4年11月辛卯条、宝亀4年11月16日勅/三代格15)。
 また、天平宝字6年の造金堂所解案(正倉院文書/大日古編年16)に「登美銭司村」から炭14斛を運ぶ車賃として42文が計上されている。
③ 鳥貝郷
 「和名抄」添下郡四郷の1つ。高山寺本・東急本とともに「止利加比」と訓む。和銅7年添下郡の人。
 大倭忌寸果安は非常な親孝行者であり、兄弟仲がよく、また人にも恵み深かったので、「登美・箭田二郷」の百姓が皆恩儀に感じ、親のごとくに慕ったとある登美郷は鳥貝郷と同所か(続紀和銅7年11月戊子条)。
 「延喜式」神名上の添下郡10座のうちに「登弥神社」が見え、現在の奈良市石木町に比定される。郷域は現在の生駒市北部から奈良市三碓(みつがらす)町にわたり地域。
 
 なお「姓氏録」には、用明天皇皇子来目王の後を称する「登美真人(左京皇別)、饒速日命の後裔を称する「登美連」(左京神別上)、「鳥見連」(河内国神別)が見える。城上郡跡見(現桜井市外山から榛原町西峠にかけての地域)の地名にちなむとする説もある。ただし、「迹見首赤檮」(用明紀2年4月条、崇峻即位前紀)の一族で、豊城入彦命の後裔を称する「登美首」(和泉国皇別)・「止美連」(河内国皇別)は百済国の止美邑の地名に基づく。
 
 
〔古代~中世〕鳥見
 平安期から見える地名。
 添下郡のうち、鳥見川(富雄川)に沿い、上流から上鳥見、・中鳥見・下鳥見の3地域に分かれていた(長弓寺縁起/大和志料上)。
 
 現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域。当地は傍示越え(高山街道)・清滝越え(清滝街道)をひかえる河内・大和交通の要地であり、鎌倉期に春日社神供用途運上に用いられた「上津鳥見路」は清滝街道にあたるという(中臣祐定記嘉禎2年10月9日条/春日社記録1)。
 
① 登美荘
 山城神護寺領。承平元年11月27日付神護寺実録帳写(神護寺文書/平遺237)に諸国荘々田地井券契目録として「登美庄<大和国>」とある。
② 鳥見荘
 興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑役免帳に「鳥見庄田畠三町二段百廿歩 公田也」とある。荘田はすべて公田で、曲田・薑田・庄田・上津谷・木津谷・女谷・畠田内・西庄・島東・島内・中屋内・板井・東前田・西前田・大池尻などの地尻に散在した。
 正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定には「鳥見庄炭五百籠 続松五百把」と見え、興福寺維摩会に用いる炭・続松を上納している(興福寺文書/鎌遺15590)。
③ 上津鳥見荘
 単に鳥見荘ともいう。大乗院門跡領(菩提山報恩院領)。
 嘉暦元年11月日付季頭料段銭支配状(雑々日記/内閣大乗院文書)に「鳥見荘 定田五十七丁七反小」とある。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)には添下郡の大乗院方荘園として「上鳥見庄 六町三反小」が記され、応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。(略)
④ 上鳥見荘
 興福寺寺門領。
 応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添下郡の寺門方荘園として「上鳥見荘 五町八段 同庄 <松林院方> 五町七段大五十歩 同庄内千本領 六段 同庄 <竹林寺> 三町一段半」とある。
⑤ 中鳥見荘 
 仁和寺御室門跡領・大乗院門跡(竜花樹院)領。三唐臼。三碓(みつがらす)ともいう。
 下地は仁和寺御室が知行していたが、鎌倉期に竜花樹院倶舎談義供衆料所として負所米が大乗院門跡に納入されるようになった。現在の奈良市三碓町付近にあたる。
⑥ 中鳥見荘 
 興福寺寺門領。
 応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添下郡の寺門方荘園として「中鳥見荘 十八町」とある。
⑦ 下鳥見荘 
 西山荘ともいう。大乗院門跡領(菩提山正願院領)。当荘は菩提山正願寺領で、同院主職を兼帯する大乗院門跡が管掌した。
⑧ 下鳥見荘 
 鳥見荘ともいう。興福寺寺門領(興福寺西金堂領)。
 文治5年7月日付興福寺西金堂衆申状に「鳥見・矢田庄」とある(太上法皇受戒記/鎌遺400)。当荘は矢田荘とともに小野篁の開発にかかり、篁から寄進されて西金堂の一円所領となったと伝えられる。(略) 」
   (『角川地名大字辞典』29奈良県 1990.3.8刊)
http://neno1365.jimdo.com/%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE-%E3%83%88%E3%83%9F-%E5%AF%8C%E9%9B%84%E5%B7%9D/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E5%9C%B0%E5%90%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E9%B3%A5%E8%A6%8B/
 

■久米御縣神社(奈良県橿原市久米町)
祭神 高皇産霊命、大来目命
「社殿の前に「来目邑伝承地」の碑が立ち、この周辺が、大和での久米氏居住地であったことが分かる。「延喜式祝詞」の祈年祭・月次祭に「御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の御名をば白して、此の六つの御縣に生き出づる甘菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫(すめま)の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称え辞竟へ奉らくと宣ふ」とある、官幣に与った御縣神社のうちの一つと言いたい所だが、久米は貞観式(871年完成)の頃に追加されたらしいという。しかしやはり膳夫(かしわで)に関係していることは確かだ。

北に隣接する久米寺は、空海が塔の中で大日経を感得し、のち真言宗を開いたところから真言発祥の地とされている名刹で、真言宗御室派の別格本山である。開基に関しては、聖徳太子の弟の来目皇子(撃新羅将軍・登美真人祖)によるという説と、「今昔物語」の、川で洗濯する女の脛の白いのに目を奪われて墜落し、一瞬にして神通力を失ったという、オチャメな久米の仙人によるものとする二説ある。それにしても、またもや聖徳太子である。来目皇子が登美真人の祖というのも興味深い。登美は鳥見、阿倍氏の本拠地倉梯の近くであるし、大伴氏も居住していた。また、饒速日尊の腹心、登美長髄彦の本拠地でもある。聖徳太子は、海人系ということだろうか。」
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kume.htm
 
 

■登美真人とは?
■登美藤津 とみの-ふじつ
?-? 奈良-平安時代前期の官吏。
正月王(むつきのおう)の王子。登美直名(ただな)の父。はじめ藤津王とよばれ,延暦(えんりゃく)10年(791)臣籍に降下して登美真人の氏姓をさずかる。少納言,越前介(えちぜんのすけ),治部大輔(じぶのたいふ),兵部大輔,越中守などを歴任。
http://kotobank.jp/word/%E7%99%BB%E7%BE%8E%E8%97%A4%E6%B4%A5

■登美 直名(とみ の ただな、延暦11年(792年) - 仁寿3年6月10日(853年7月19日))
は、平安時代前期の貴族。姓は真人。用明天皇の後裔で、従五位下・登美藤津の子。官位は従五位下・豊後権守。弘仁13年(822年)主膳監正に任ぜられる。淳和朝では美濃大掾・近江大掾・大和介と地方官を歴任し、この間の天長4年(827年)に従五位下に叙爵している[1]。
承和2年(835年)大判事に転じたのち、承和9年(842年)散位頭、承和11年(844年)少納言と、仁明朝では京官を歴任する。承和12年(845年)直名自身が有力檀越であった法隆寺の僧侶・善から、寺財の不当売却とその利益押領を理由に訴えられる。弁官らの審理により当初遠流の判決を受けるが、承和13年(846年)には右少弁・伴善男の主張により訴訟は無効とされ、直名は無罪となった(善訴訟事件)。
 
直名は無罪となったもの、事件後間もない承和14年(847年)正月に大宰少弐として地方官に転任する。さらに嘉祥2年(849年)8月には豊後権守に転じ[2]、同年12月には直名が謀反したとして大宰府より朝廷に対して報告がなされている[3]。その後流罪となるが、嘉祥3年(850年)罪を赦され放免された[4]。
 
仁寿3年(853年)6月10日卒去。享年62。最終官位は前豊後権守従五位下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E7%BE%8E%E7%9B%B4%E5%90%8D
 
 

■善訴訟事件(ぜんがいそしょうじけん)とは、
「承和12年(845年)に法隆寺の僧侶・善 が、同寺の壇越である少納言登美直名を告訴した事件。翌承和13 ... この頃、法隆寺は 有力檀越で来目皇子(聖徳太子の弟)の子孫である登美真人氏の保護下にあった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%8C%E3%81%84%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
 
■登美真人氏は来目(久米)皇子の子孫
男子:日田王 - 子孫は登美真人
厩戸皇子の弟、久米皇子には日田王という子がいるが、その子孫が登美真人氏だとされる。
(中田憲信『皇胤志』(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)

■とみ地名には久米部が居住
「久米は貞観式(871年完成)の頃に追加されたらしい
 膳夫(かしわで)に関係している
 久米寺
 空海が塔の中で大日経を感得
 真言宗を開いた真言発祥の地
 真言宗御室派の別格本山
 聖徳太子の弟の来目皇子(撃新羅将軍・登美真人祖)によるという説と、「今昔物語」の久米の仙人によるものとする二説
 登美は 鳥見、阿倍氏の本拠地
 倉梯の近く
 大伴氏も居住
 登美長髄彦の本拠地
ー 久米御園(くめのみその) 七拳脛命の十三世孫
 壬申の乱(672年)の功臣 天武朝で宿禰の姓を賜った
ーー 地名には
 九州の久留米、
 沖縄の久米島 久米島(くめじま) 沖縄諸島に属する島 最も西に位置する島
 沖縄本島、西表島、石垣島、宮古島に 次いで 5番目に大きい」
http://d.hatena.ne.jp/naie/20130205/1360021280
 
 
 
 
■伊予・讃岐氏族の資財で空海・真言宗登場
■伊予・讃岐の久米の資財で大伴氏台頭
■法隆寺周辺のとみに久米が居住。法隆寺所領である北四国に久米と大伴
■伴部と久米部の互助関係
■とみ地名と「とべ」「とび」「とみ」のナガスネ彦と神武東征
■久米歌と神武東征
 
さて?どうつないでいきましょうか。
 
 
 
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