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宮城十二門号氏族・大伴・佐伯・多治比と法隆寺と四国の登美・久米

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■宮城十二門号氏族
世界大百科事典 第2版 宮城十二門の用語解説 -
「 日本古代の宮城の最外郭を囲む 宮城垣に開く門。大宝令では外門という。4面各3門ずつの計12門あるので,宮城十二 門と通称する。ただし平安宮での宮城門は東・西面に上東門,上西門も加えられ14門である。」
 
 
天皇の住まいでもある大内裏(宮城)の外郭を囲む壁に設けられた「門」のことを一般に禁門と言い、『養老令』では「宮城門」と呼ぶと定められ、南北に各三門、東西に各四門あって東西の最も北側に設置された二つの「通用門」を除いた十二の門を古くから総称して「宮城十二門」と呼び習わした。
 
各門に置かれた氏族を「門部 かどべ」と総称し、それぞれ、
 
丹比 山部 健部 的 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部 海犬養 猪養
らの部がこの守護に当たった。
 
この部を掌握する氏のうち、瀬戸内に領地を持った氏族は丹比(多治比、たじひ)氏、佐伯氏、大伴首(おびと)氏、犬養氏、的臣氏、山部連氏らであるが、法隆寺庄が集中した北四国では、伊予国において山部連氏の祖である久米直氏が久米郡に、及び同族の浮穴直氏が浮穴(うけな)郡に集中的に蟠踞(ばんきょ)していた。
 
またこれらの道前平野氏族と隣接して道後平野には大伴氏同族である佐伯氏や多治比氏が周敷郡・桑村郡におり、ともに同族関係にあって12門門部である大伴首氏の管理者であった大伴氏は伊予国に多大な影響力を持ちえていたようである。(松原2013)
 
また讃岐国でも、大伴部が鵜足郡と多度郡に分布し、空海を輩出する多度郡郡領・佐伯直氏と密接に関与。一方、法隆寺久米周辺に久米部が蟠踞し、壇越(だんえつ、檀家)として登美真人氏を推挙したとも見られ、大伴、伴氏は法隆寺の播磨国揖保郡水田司として影響力があった。
 
のちに法隆寺内部において壇越として寺財物などを勝手に処理するにいたったときに、伴善男や伴(良田連)宗(とものよしだのむらじ・むね)がこれを制裁している。
 
 


 
 
文献に見える久米郷及び久米部・氏のいた場所
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駿河国磐田郡久米郷
常陸国久慈郡久米郷
上総国夷隅郡(「いすみ」「いずみ」「えずみ」は蝦夷が住む場所=江角である)に 久米部。現在の和泉市・勝浦市。和泉=夷住であるか?ゆえにわざわざ和をつけ るか?えみし俘囚が入れられた地名か?
伊勢国員弁郡久米郷遠江・多気郡・飯野郡・桑名郡にもそれぞれ久米 
大和国高市郡久米郷 久米御縣神社
摂津国難波来目邑遠里小野
紀伊国紀崗前来目連  和歌山市岡崎
阿波国名方郡国府 伊予国喜多郡久米庄(久味国造久米直裔)からの移住者
伊予国久米郡 喜多郡久米郷 伊予豆比古神社
伯耆国久米郡久米郷 倭文(しづり)神社 鳥取県倉吉市志津  
伯耆国川村郡、因幡国高草に倭文社、静社
美作国久米郡久米郷 倭文神社 
周防国都濃郡久米郷・那珂郡に久米直
筑前国志麻郡久米郷
肥前国球磨郡久米郷
 

 
現代の久米地名所在地は多数あり、また「来目」「粂」表記も。
氏姓で多いのは徳島県と東海・北関東茨城県。
琉球島尻地域に久米島。
久米川 - 埼玉県・東京都を流れる柳瀬川の別名
 
 
 


 
登美
 
「とみ」は古くは「とべ」で女の巫首長のこと。女酋とも。
 
とべ→とみ→とび→とば
表記は「鳥見」「登美」「富」「鳶」「跡見」「迹見」
鳥飼とりがい部であったのが鳥部となり、「とりべ」から「とべ」へ変化したゆえに「鳥貝」も「鳥見」の「見」が誤記されて「貝」に。また「飼い」の音。
どれもが「とみ」である。
 
 
「とみ(び)のながすねひこ」
 
 
ナガスネ彦(鳥見長髄彦・鳶の長脛日子)
『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征で、抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。
ニギハヤヒの舅。
登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世、戦国の武将山形の織田家(後に織田信長を輩出)や仙台の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。
 
登美は戸辺、戸畔で巫女王を意味する。
従って大和先住民の王としては、実はナガスネ彦よりも妹のミカシキヤ姫の方が王と捉えられ、重要かもしれない。
 
「かしきや」とは「かしき」=かしぎ=炊飯=神の神饌を用意する斎王と解釈でき、推古天皇も「とよ・みけ・かしぎやひめ」である。つまり巫女の中にある「玉より」部分と「食膳係り」の部分のうち後者の場合は人、前者は神になっていることが多い。
 
とみ地名は大和に数箇所あり、それはすでに資料で記述した。
 
その「とみ」をなにゆえに久米皇子の子孫が名乗るか?
 
久米命は黥利目(さける とめ・入墨をした目)であったとあり、いれずみをする海人族の祖であった。「くめ」を「く女」と受け取れば、久米族の族長はもとは巫女王だった可能性がある。海人族の刺青は魔よけである。それは海中に没して魚介類を採集する行為が、一年の最初の儀式であり、また忌みごとが明けてすぐに、水没する採集を行うからでもある。この魏志も記録した倭人だけの海中水没行為こそは、のちの斎戒沐浴=禊の最初で、海人族すべてがそうしてきたのであろう。それが宮中でも取り入れられたのは、久米氏が神武以来、常に宮中で天皇の側近、めのとであったことと深く関わる。久米族の古い習慣が、宮中でも禊として取り入れられたと考えたい。
 
つまり久米は大王・天皇にとって非常に近い氏族だった。聖徳太子の弟・久米皇子が久米を名乗ったのもそういう理由で、久米氏を乳母としたためでもあるし、そこから登美直氏が登場するのも、おそらく登美=久米のいた地名であろう。
 
すると登美の名を持つナガスネ彦=久米か?となってくる。
 
 
おそらく宮中天皇になる系譜には、この久米由来の南海の海人系王があったのではないか?それは厩戸と久米の親である蘇我氏との関係を強く匂わせている。
 
蘇我は葛城系譜から登場するが、葛城氏は尾張氏などと同様に、南九州海人族だったと思える。厩戸と久米の母親の「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来すると考えられている蘇我稲目の娘・小姉君の娘である。石神も「磯の神」であるとすでに分析してある。いずれも海に関わる名前である。
 
久米島の存在、あるいは次に書く宮崎県西都市の持田古墳群から出たとされる盤龍鏡のつながりがどうも気にかかる。
 
九頭竜川沿線からもこの鏡は出ており、全国に二枚しかない。
 
 
 
西都原古墳群も持田古墳群もある意味、久米部に関わる氏族である可能性がある?
 
 
 
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