忍熊王の反乱(宇治川決戦)概要
「息長帯比賣命は朝鮮半島遠征を終えて、
筑紫の宇美にもどり品陀和気命(応神帝)を無事出産した。
その後大和へ凱旋しようとするが、大和では仲哀帝のもう一人の妃である大中津比賣命所生の皇子香坂王、忍熊王兄弟が阻止しようと待ち構えている。
斗賀野(兵庫県武庫郡辺り)で戦いの行方を占うために誓約狩をした兄の香坂王は猪に襲われて死んでしまう。弟の忍熊王は難波吉師部の祖伊佐比宿禰を、息長帯比賣側はワニ臣の祖難波根子建振熊命をそれぞれ将軍として戦った。
戦いは山代あたりで一進一退となった。
建振熊命は、「息長帯比賣はすでに崩御してしまった。もう戦う理由はない。」と伊佐比宿禰に呼びかけて自軍の武装を解除した。伊佐比宿禰も武装解除に応じた。
忍熊王軍の武装解除を見届けた建振熊命軍は隠し持った武器をとりだし突如攻撃を仕掛けて忍熊王軍を滅ぼしてしまった。
ヤマトタケル以来大和朝廷伝統のだまし討ちをここでも行ったわけである。
敗走した忍熊王と伊佐比宿禰は逃げきれずに琵琶湖に沈んだ。」
忍熊王はヤマトタケルの子の仲哀天皇の子。応神とは腹違い(母 は彦人大兄の女・大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)。景行天皇の孫娘)というシチュエーションになっているが、これは新羅血脈(実際は伽耶系葛城倭人王権)で九州で生まれた四世紀前半の王権(河内王朝)がヤマト(三輪王朝)を乗っ取るお話である。
2~3世紀の設定になる崇神~景行~ヤマトタケル~仲哀の三輪桜井市王権がここで断絶したことを言っている証拠場面。だから神功皇后は臺與(イヨ・トヨ)かとなるわけ。
これを魏志に当てはめるなら、3世紀後半の卑弥呼の死後、臺與が立てられるまでの「倭国再び乱れる」の時代に合うだろうか。
時代的には4世紀前半だろうからちょうどよい。
森浩一は「とがの・菟餓野」の場所をかつての大阪湾の海の底だった今の大阪市北区兎我野とみている。ここで忍熊王たちは誓約狩(うけいがり・祈狩)をして神宮皇后らを待ち受ける。これは狩りによって勝敗を占う「狩占 かりうら」である。
菟賀野は上町台地の最北端で、今の神戸市垂水区に対面していた。狭い瀬戸になっている。住之江の海(茅沼の海・ちぬのうみ)に入るにはここを通るしかない。
中村修は記紀記述から応神側と忍熊側のそれぞれに協力した勢力を書き出している。
忍熊王側
奈良市忍熊町 忍熊王
京都市山城紀伊郡 葛野城首かずのの・きの・おびと
大阪府吹田市岸部~茨木市吉志部山 摂津吉志五十狭茅宿禰・熊之凝
大阪市住之江 住吉氏
大阪市北区兎我野~神戸市灘区都賀野 ?
赤石=明石、淡路島
菟道=宇治市
滋賀県犬上郡(琵琶湖東岸) 犬上の倉見別・建部の祖?ヤマトタケル子孫
および東国
敗走地
滋賀県大津市逢坂
大津市膳所栗林(くるす)
大津市瀬田
応神側
大阪府羽曳野市誉田 応神天皇誉田別命
奈良県葛城 葛城高額姫・葛城氏
奈良県五條市今井町宇智(うち) 武内宿禰
奈良市・京都府宇治市木幡 和邇臣氏
京都府山城 息長氏・紀氏?
兵庫県尼崎市 務古むこ
兵庫県西宮市 広田国
神戸市中央区 活田長峡いくたのながお国
神戸市長田区 長田国
神戸市東灘区住吉又は大阪市住吉 大津渟中倉長峡ぬなくらながお
和歌山県 紀伊水門、日高、小竹宮しののみや
データは若干編集追加してある。
氏族で割り出せば忍熊側が琵琶湖東部の犬上、紀伊郡の葛野の紀首、摂津の難波吉師、住江の住吉、東国の尾張海人族となるが、この中で琵琶湖東岸の犬上氏というのは古墳の連続的造営=息長系であることから見て一見矛盾するように見える。
応神側には和邇、息長、葛城、紀氏などがついた。これはあくまでも近畿圏で応神についたものであり、それ以前から応神に同行していたのは武内宿禰の葛城系氏族と神功の息長系であるから、在地でヤマト忍熊側を裏切るのは和邇だけとなる。
地域的には、
忍熊側は主として桂川・宇治川・琵琶湖東岸、東国
応神側は河内、紀伊、葛城
真ん中の奈良盆地北部、木津川、摂津淀川は重なって、まだらに加担している。
つまり畿内はどちらにつくかばらばらでまとまっていないことになる。
これこそが倭国内の乱れた状態を示す。それは東アジアの政治的構図をそのまま反映していることになるだろう。燕についていた畿内が、魏につくか呉につくか・・・といった国際状況をそのまま代理戦争にしたのが宇治川決戦だったと言えるのである。
面白いのは、この段階で神功皇后の父方・息長氏は山城にいて琵琶湖東部にはおらず犬上氏がいてなぜか神功・応神側でなく忍熊側に加担(あり得ない)、京都府南部の紀伊郡には紀氏と葛城氏が同居していることである。さらにもし邪馬台国がヤマトにあったなら当然、応神に加担したはずの吉備の名前が出てこない。さらに筑紫王権も出てこないし、丹後も。ここが奇妙ではある。
またこのいくさに勝利した応神は、この直後に武内宿禰の居城である福井県の敦賀(角賀)の気比で気比大神と名前を交換して、王権樹立を宣言している。いわゆる「神名の交換」がこれである。日本海海人族を完全掌握し、ヤマト側唯一の外交ルートだった琵琶湖~日本海~新羅ルートを奪ったという宣言である。これで三輪旧王家は外交ルートと港を失い、完全に王権は転覆したことになる。しかもこのエピソードはのちに継体大王がここから登場することも正当化してあり、応神がいかに母方である息長氏を重視したかがわかる。
要するに息長氏は琵琶湖東部に落ち着くまでは日本海古志・気比の王統だったわけであり、鏡の同笵鏡関係から言うと、日向~薩摩を出自とする南九州の王であることが見えてくるのである。その宇智の系譜から紀氏・葛城氏が出るのである。
だから記録にはないが応神には南・北の九州海人族や九頭竜川三尾氏らも加わっていたと見る。以前紀氏と久米の分布や神獣鏡などの分布図を添付しているが、それらの分布が双方の勢力のいた地域に出ており、同じ地域でもふたつに分かれていた痕跡がある。
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やはりどらについた豪族も
1 日本海気比~九頭竜川~琵琶湖東岸
2 播磨・淀川~琵琶湖東岸・木津川山城
3 紀ノ川流域~葛城
4 東国尾張~上野
そして応神には最初から筑紫・豊・吉備・北四国勢力(のちの海部)がついていたと思われる。
このことから充分に、邪馬台国・狗奴国の対立とその氏族は想定可能だと考える。
いずれにせよこの四世紀にヤマトが邪馬台国か狗奴国か知らないが勝者となった。
ここから大和朝廷への道ははじめて始まる。
それ以前に全国を制覇していたヤマト王権はまだ成立していないのである。
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