現代に伝承された縄文技術
■クリ山の価値
●中世には栗山は付加価値絶大
網野善彦「中世荘園の財産目録で栗林はほかの山とは別評価されていた」
栗は実もさることながら縄文時代から中世を通じて材木として高評価されていた。栗山さんは大地主だったのである。今ならさしずめマツタケ山を持っているようなものだろう。
●中世には栗山は付加価値絶大
網野善彦「中世荘園の財産目録で栗林はほかの山とは別評価されていた」
栗は実もさることながら縄文時代から中世を通じて材木として高評価されていた。栗山さんは大地主だったのである。今ならさしずめマツタケ山を持っているようなものだろう。
●三内丸山の「縄文栗」栽培
「農耕の起源は、栗?今から訳5500年前から4000年くらい前まで。(縄文中期) 縄文時代で、栗で有名なのが 青森県三内丸山遺跡です。日本最大級の縄文集落跡。 三内丸山遺跡からたくさんの栗の柱と大粒の栗が出土した。
三内丸山遺跡では、栗の巨木を柱に使った建造物があり、遺跡の周辺の森は大半が栗の林だったことがわかっています。三内丸山遺跡は 栗とともに栄えた 定住型都市型社会だったようです。
「農耕の起源は、栗?今から訳5500年前から4000年くらい前まで。(縄文中期) 縄文時代で、栗で有名なのが 青森県三内丸山遺跡です。日本最大級の縄文集落跡。 三内丸山遺跡からたくさんの栗の柱と大粒の栗が出土した。
三内丸山遺跡では、栗の巨木を柱に使った建造物があり、遺跡の周辺の森は大半が栗の林だったことがわかっています。三内丸山遺跡は 栗とともに栄えた 定住型都市型社会だったようです。
栗が栽培されていたと言う根拠。
その1 静岡大学農学部教授佐藤洋一郎氏のDNA分析により 野生種では見られないDNAパーターンの一致があった。
その2 現在の山を見ても、山栗が自然に林をつっくているところは無い。生態学的に見ると栗は弱者なので、自然に栗の純林ができるということはないので、人為的に育てられた林と考えられると言う。
その3 山にある芝栗は実生栗で実生栗から大粒の栗は取れない。現在は 接木で 良種を選抜し栗畑を作っています。大粒の栗が出土したことから ひょっとしたら 接木の技術をもっていたかも。
その4 1500年もの間 栗林があったこと。
長い間栗を栽培していれば 土地はやせてしまう。
肥料をあたえなければ長期間栗林を維持することは無理。
現在のところ、三内丸山遺跡の栗栽培は プレ農耕と言う位置づけになっているようです。
研究が進めば いつか 農耕の起源は栗 と言うことになるかも知れません。
研究が進めば いつか 農耕の起源は栗 と言うことになるかも知れません。
現在、青森では ほとんど栗を栽培していませんが 当時は 現在より平均気温が約2℃高いため 現在の茨城のような気候だったと思われ 盛んに栗を栽培していたようです。」
http://www.kurihiko.com/kuri0/kurittenanda/nihonnnobunka/nihonnobunka1.html
http://www.kurihiko.com/kuri0/kurittenanda/nihonnnobunka/nihonnobunka1.html
●押出(おんだし)遺跡の勝ち繰り(搗栗)
山形県押出遺跡出土の炭化物は、分析の結果動物の血や肉や野鳥の卵をつなぎとし、食塩で味付けし、野性酵母で発酵させたクッキーである。同じ場所で炭化したかち栗が出ている。それは現代の東北で食べられているかち栗とまったく同じような外見を持っている。
山形県押出遺跡出土の炭化物は、分析の結果動物の血や肉や野鳥の卵をつなぎとし、食塩で味付けし、野性酵母で発酵させたクッキーである。同じ場所で炭化したかち栗が出ている。それは現代の東北で食べられているかち栗とまったく同じような外見を持っている。
押出遺跡から出たかち栗と鬼グルミの殻
かちぐり【搗栗】
「乾燥させたクリの実を臼でついて殻と渋皮をとったもの。江戸前期の《本朝食鑑》(1697)などは天日で干しあげたものをつくとし,後期の《草木六部耕種法》(1823)などは1昼夜ほど〈あく〉につけてから同じようにしてつくるとしている。〈搗栗子〉の語は奈良時代から見られ,《延喜式》には,丹波その他の諸国から貢納され,神祭仏会などの料として〈平栗子〉〈干栗子〉〈甘栗子〉〈生栗子〉などと併記された例も見られる。」
http://kotobank.jp/word/%E6%90%97%E6%A0%97
「乾燥させたクリの実を臼でついて殻と渋皮をとったもの。江戸前期の《本朝食鑑》(1697)などは天日で干しあげたものをつくとし,後期の《草木六部耕種法》(1823)などは1昼夜ほど〈あく〉につけてから同じようにしてつくるとしている。〈搗栗子〉の語は奈良時代から見られ,《延喜式》には,丹波その他の諸国から貢納され,神祭仏会などの料として〈平栗子〉〈干栗子〉〈甘栗子〉〈生栗子〉などと併記された例も見られる。」
http://kotobank.jp/word/%E6%90%97%E6%A0%97
●栗材、クリの実は旧石器時代から利用されていたという。縄文前期には実は大型化していき、後期になると今のクリと変わらぬほどに大きくなっている。そして自然分布域からはずれた北海道石狩平野の低地からも出土するようになっている。つまり栽培され、品種改良され、移動繁殖された証拠である。(森浩一)
●先見の明
1957年、酒詰仲男は「日本原始農耕試論」(『考古学雑誌』掲載)で縄文人は栗を栽培していたと発表している。
その後の縄文遺跡の発掘でも栗花粉は大量に見つかっていて、考古学者の間ではかなり以前からささやかれていた。
1957年、酒詰仲男は「日本原始農耕試論」(『考古学雑誌』掲載)で縄文人は栗を栽培していたと発表している。
その後の縄文遺跡の発掘でも栗花粉は大量に見つかっていて、考古学者の間ではかなり以前からささやかれていた。
■栃の実・どんぐり・胡桃の加工
現代の菓子・かちぐり
縄文の栃の実
■牡蠣の養殖
縄文時代の貝塚から、木片がくっついた牡蠣殻がよく出ていた。
1996年、東京都北区の中里貝塚では縄文時代のマガキ・ハマグリの干し貝加工場が見つかる。翌年、イヌガヤの杭を使った牡蠣養殖場跡が出土した。これも数十年前に酒詰が予測したとおりになった。
縄文時代の貝塚から、木片がくっついた牡蠣殻がよく出ていた。
1996年、東京都北区の中里貝塚では縄文時代のマガキ・ハマグリの干し貝加工場が見つかる。翌年、イヌガヤの杭を使った牡蠣養殖場跡が出土した。これも数十年前に酒詰が予測したとおりになった。
現代、牡蠣もさることながら、海の真ん中に棚を作ってアサリも養殖されているという。砂のないアサリらしい。
■馬と梨
長野県飯田市で高句麗渡来らしい古代梨(山ナシ)の化石が見つかっている。南牧村では天然記念物の山ナシの山が存在する。長野のあのあたりでは更埴市が杏林で知られているがヤマナシもあったとは知らなかった。
長野県飯田市で高句麗渡来らしい古代梨(山ナシ)の化石が見つかっている。南牧村では天然記念物の山ナシの山が存在する。長野のあのあたりでは更埴市が杏林で知られているがヤマナシもあったとは知らなかった。
「私は知らなかったが、南牧村には、この畑のヤマナシ以外にも、南小学校前のヤマナシや地元で「思いやりのヤマナシ」と親しまれている大きなものがあり、ヤマナシで有名である。こうしたヤマナシは、春に花を愛でるほか、実は少し渋みがあるので、砂糖や焼酎に漬けて食用にもする。また、喘息の薬にもなるという。
さて、ヤマナシというと山梨県が思い起こされるが、信州とも深いつながりがある。平安時代の延喜式(えんぎしき)にナシを都に貢進する国として、因幡、甲斐と並んで信濃があげられている(諸国例貢御贄など)。平安時代の各地域の特産を紹介するなど博学的知識の宝庫でもある藤原明衡(ふじわらのあきひら・?-1066)の『新猿楽記』(しんさるがくき)にも「信濃梨子」が見える。
この平安時代の「梨」は単なる名産にとどまらず、棗(なつめ)などと同様に一種の仙薬(不老長寿の薬)として扱われていたのではないかと、森浩一先生は指摘する。
長野県では古代の大遺跡である飯田市恒川(ごんが)遺跡群や更埴市屋代遺跡群からヤマナシの種子が出土している。
森先生は、これらの遺跡はいずれも信濃の馬文化の中心的地域にあるので、ヤマナシ=仙薬だとすれば、あるいはヤマナシは馬文化の担い手であった渡来系氏族が持ち込んだものかもしれないという(『この国のすがたを歴史に読む』大巧社)。
そういえばここも「南牧」である。単なる偶然か……。しかし、雪のちらつく発掘現場の私の心はなぜか少し慰められた。」http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14aut.html
※ちなみに山梨県の地名由来は・・・
「バラ科ナシ属の「ヤマナシ」 という木が多いことからという説が通説となっており、奈良時代には既に「山梨郡」として 見られることから妥当な説である。」
野生のヤマナシ
さて、その長野県飯田市周辺の遺跡からは馬の殉葬遺構がたくさん(30頭近く)出る。どうやら高句麗系高井氏らが持ち込んだか?
大室にしても根塚にしても長野県北部の古墳は、合掌式や積石塚やらが仲良く住み分けており、喧嘩になっていない。筆者が地元の社会科教師Oさんの案内で松本を訪問したときは、野生のオニクルミが自生していることが気になっていた。これは18世紀頃に朝鮮から持ち込まれたテウシクルミ(菓子胡桃)が地元で雑交配したものが主流であるらしい。http://kanon1001.web.fc2.com/foto_sinrin/K_kurumi/oni_gurumi/oni_gurumi.htm
長野県では今、雑交配種であるシナノグルミが栽培されている。
■タケノコ
竹とタケノコの北上についてはすでに隼人の手になるだろうと何度も書いたのではしょる。
竹とタケノコの北上についてはすでに隼人の手になるだろうと何度も書いたのではしょる。
■その他の東北縄文人の栽培植物
大麦、ヒエ、アワ、ソバ、大豆、シソ、エゴマ、ヒョウタン
大麦、ヒエ、アワ、ソバ、大豆、シソ、エゴマ、ヒョウタン
南方系と北方系が入り混じっているところが味噌である。
追加
ここまでは現代人が聞いてもそれほど違和感ない食生活。それらのほとんどは山の民としての縄文人の実生活で使われてきた技術で、そのまま現代にでんしょうされていると名久井文明は書いている(『伝承された縄紋技術』吉川弘文館 2012)。
名久井があげている現代に伝承された技術には、
木の実の乾燥、保存技術、灰汁抜き技術、炉上乾燥による保存・貯蓄、つまり燻製・燻煙技術、木の割り方、木の皮の加工(たとえば現代の茶筒にも使われている桜の皮など)、また籠・網類の編み方、網代、あゆやななど。
筆者はそれらに加えて、簡易製鉄、サトイモ食、丸木舟造船や船釘、野外炉の作り方などなど、あらゆるサバイバル活動の大元に縄文文化がそのまま受け継がれてきたと考えている。
に記事と画像を追加して再掲載。
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
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