Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

敗者の古代史 タケハニヤス彦のねらいは時期大王・倭国大乱=葛城王家VS吉備王家か?

 
 
 
 
崇神十年、孝元天皇皇子の武埴安彦命(タケハニヤスヒコ)が反乱した。タケハニヤスヒコは山背から、妻の吾田媛(アタヒメ)は大坂から、同時に大和に攻め込もうとした。このとき、実際に防戦した将軍は、春日王家ワニ氏の彦国葺(ヒコクニフク)と、孝霊天皇皇子の五十狭芹彦命(イサセリヒコ)であった。
 
建(武)埴安彦の「反乱」(反乱と史書が書くときは大概、勝者側の理論で書かれるので反乱になるが、実際は時期大王を選ぶ後継者争いであろう。つまり倭国大乱であると言える)

「崇神天皇10年、謀反を企て本人は山背より妻の吾田媛は大坂から大和を挟撃しようとそれぞれ軍を率いてきた。 しかしそれを予見した倭迹迹日百襲媛命の進言により、大坂へは四道将軍の吉備津彦命が派遣され吾田媛を迎え撃ちこれを討った。 山背へは同じく四道将軍の大彦命と和邇の祖先彦国葺命が派遣され両軍は川を挟んで対峙する事となった。 矢の射ち合いとなり、まず先に放った武埴安彦の矢は当らず、次に彦国葺の放った矢は武埴安彦の胸に当り死亡した。これによって武埴安彦の軍は崩れ、半数以上が斬られるなど鎮圧された。」Wiki武埴安彦
 


 
崇神10年の解釈はなかなかやっかいである。
「記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
いずれにせよ卑弥呼直前のヤマトの実力者王のひとりであろう。

ちなみに応神天皇は西暦?
「実在性が濃厚な最古の天皇とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。その年代は、『古事記』の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。」

記紀の年代観は、『古事記』では考古学の年代観よりもだいたい120年(干支二巡)前倒ししてあるというのが戦後の主流である。
記紀の紀年観http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/kinenron/kinenron1.htm

だから崇神10年は記紀紀年観では紀元前1世紀ころのシチュエーションだが、考古学的には西暦3世紀前半、応神と忍熊王のいくさではだいたい4世紀後半になる。とはいいつつも、記紀の天皇の配置自体疑問点もあり、古い事績を二つに分けて二人作ったりしてあるので、研究者によって解釈が異なることがある。筆者は崇神は卑弥呼の前、応神は卑弥呼の後というくくりで捉えているが、それくらいの感覚でいいのではないか?崇神は纏向遺跡の王であると言っていいので、3世紀前半で確実。応神は存在したかどうか疑問の渡海系始祖王で4世紀前~中だと考える。つまり崇神~応神の間には景行・ヤマトタケルの挿入がある。これで約100年ばかり年代を稼いであると見えるのである。そして神功皇后~仁徳までも挿入で100年稼いでいる。古墳と土器編年、及び記事の水増しを勘案すると、それぞれの中を取って、魏志の、~卑弥呼~倭国また乱れる~男王~臺與~の、前が崇神的な王がいて、直後が応神的な王がきたと見る。どっちにせよ、崇神までは畿内の王だったと言えようか。東アジア史の中で国際的な国王だとしてよいのは卑弥呼と臺與しかおらない。記紀の天皇は記紀の8世紀の歴史観で書かれた大王である。
 


 

さて、
タケハニヤス彦は京都の南山背の王である。
山背の地名は最古は「開木代」と表記してあり、木を切って山を切り開いたという地名である。しかしこれではとても「やましろ」とは読みにくい。これは「ひらききのしろ」とも読めるが、筆者の大学の友人に京都の人で「ひらき」君がいた。平木である。おそらく古くから山背に住んできたのであろう。

南山城とは木津川両岸地域である。山地の中を木津川が走り、往古は山部が置かれた山岳地帯で、「きづ」地名も木を切り出す津のあった地名になる。実際、木津川は中世にも杣・番匠の里で、船材や建築材を丸太に切って流すので有名であった。いわゆる筏と木屋場である。巨椋池を中継して大阪、京都へ木材を送れるという立地である。大和への交通の要衝でもある。名産はイノシシと木材そして木津川の幸である。和束~田原が山地部の中心。木津川の水源は伊賀である。だからこの川を使って東国へ出られたはずである。ちょうど奈良なら吉野のような場所になる。

巨椋池の南部一帯は一時筆者が住んでいたからわかるが、低湿地で海抜が低く、あまりいい環境でなく、近年まで台風などで木津川は簡単に決壊してきた。京都でも南部は巨椋池がどかんと邪魔をして秀吉の干拓まで開発が遅れたし、明治以後も部落問題などでかなりややこしく遅れてしまう。要するに動物解体や染物業者、竹加工業者、テキヤ、やくざものの温床だった。奈良から見て鬼門の方角であり、とはいいながら奈良盆地北部までは京田辺市からすぐなので、阿多隼人などの守りを置いた土地。その阿多の地名を名乗るのがタケハニヤス彦の妻・吾田媛(あたひめ)である。
 
 
 
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1
南山背地形図
 
 
 
父親は欠史八代天皇のひとり孝元天皇となっている。一方崇神は「みまきいりひこ」なので、「御馬騎」=桜井市の支配者である。纏向・巻向の地名・駅名は「みまき」つまりみまきやま=御馬騎山=三輪山(三諸山)のふもとということで、纏向遺跡から出た水路などはみな、崇神天皇らしき人々が纏向瑞垣宮(みずかきのみや)に住んでいた頃の施設だろうと思われ、宮の名前「水かき」にふさわしい遺跡だと言えるだろう(森浩一など)。そこに南から隼人・ウチの系譜の妻を持つタケハニヤス彦王が切り込んできたわけである。
 
 
 
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2
 
 

孝元天皇といえばその子供は阿倍氏・阿閉(あえ)氏、膳氏らの祖である大彦の父、ヤマトトトビモモソ媛とは兄妹でもあるそうな。妻はウツシコメ命(鬱色謎命)。この「うつ」とはウチであろうか。記の別表記では「内色許売」。物部氏の流れの穂積氏の祖、あるいは物部氏の祖であるとなっている人。しかし「うつ」であるなら本来葛城系武内宿禰の流れであるはずなので筆者は、葛城系と政治結婚した人の系譜と見ている。
 
 

だからこのいくさは奈良盆地北部の勢力と京都南部~奈良南西部葛城まで含めた一派の、卑弥呼直前の頃の敵対関係を言っていると思う。魏志で言えば最初の「倭国大いに乱れる」時代になる。おそらく真ん中の纏向や唐古・鍵の王が崇神なのであるなら、それは吉備系であろうか。吉備と葛城が争って王を決めようとしたのであろう。そして吉備系崇神が勝った。だからこそ纏向遺跡から吉備系の円筒埴輪が出るし、従属的に葛城氏が使う弧文円盤が出る。そして東海・丹後・筑紫・讃岐などの土器も出るということは、崇神的人物が葛城・隼人系内の氏族を押さえ込んで大王となってから、ヤマトは大きく成長したわけである。ヤマト説の立場からは、これが続く3世紀の卑弥呼登場に結びつくとも言いたいところ。
 
いずれにしても崇神時代までに、九州に最初あった邪馬台国はトヨ、イヨ、讃岐・・・しまなみ海道を伝って備後、吉備、播磨を経由して摂津から木津川に入り南下して奈良に入ったはずである。淀川ルートの摂津には筑紫津があり対岸には南山背の八幡市、ニギハヤヒが遡上した天野川のある交野市、継体が宮を置いた枚方市樟葉(古代糞端 くそは、糞尿を処理する人がいた土地)がある。この淀川ルートは仁徳の皇后・葛城磐之姫の里帰りコースにもなっているので、大和川遡上よりも使用された度数が高かったと考えている。ちなみに仁徳の妃には吉備海部直の娘、黒日売がいて、葛城・吉備双方から嫁をめとった状況がわかる。当時の二大勢力から嫁を採らねば大王にはなれなかったことになる。仁徳の即位前にも反対勢力の菟道稚郎子との皇位争奪戦が起きている。
 
 
 
2~3世紀の九州から近畿地方への海上ルート
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3
 

タケハニヤス彦の母は南山背高安地域の姫である埴安姫である。この氏族は玉の氏族らしく、父親は青玉(かけ)といい、別の名は河内青玉である。高安郡に玉祖(たまおや)郷がある。『新撰姓氏録』に河内神別として河内の玉祖宿禰とある。八尾市に玉祖神社があるので、タケハニヤス彦はやはり河内・葛城の血脈でいいのではないか?「はに」は土のことなので土器関係の氏族だろうか?それがどうやら物部氏や葛城氏とつるんでいたわけで、物部氏のほうはニギハヤヒの系譜であるから、崇神たち吉備系(言い換えると元は豊ー北部九州から来た一族)が神武の流れならば、かつての敵同士である。それがヤマト・山背に同居してすみわけ、おそらく共同体的な地域だったのがヤマトであろう。纏向からは吉備系祭器が出るし、葛城的な弧文円盤も一緒に出ているので、双方が常々は敵対しながら、時に団結しているといった様相が見て取れる。ここにあとから応神のような半島由来の北部九州筑紫経由の氏族が入ってきて忍熊王が敵対したのであろう。
 

なお3後半~4世紀の墓である椿井大塚山古墳があるが、3世紀前半のタケハニヤス彦では時代が合わなくなる。あれは紀氏関連か息長関連の大筒木氏関連であろう。
 

さて系譜ではタケハニヤス彦と大彦は腹違いだが兄弟であるので、ミマキイリ彦の将軍だった大彦は兄弟で争ったこととなる。モモソ姫にしても甥に当たるタケハニヤス彦と吾田媛の陰謀を歌から察知してミマキイリ彦にちくってもいる。どうなってんだ?であろうが、当時の「共立王」の関係から察すれば、そんなことは当たり前、もっとも戦国時代でもそんなもので、「兄弟は他人の始まり」のようなことで、決して中が言い訳ではなかった。方向性や出自、母方の思惑などがからんでくると、人間は兄も殺すし、父でも子でも殺すのである。崇神とタケハニヤス彦も系譜上は甥と叔父である。要するに3世紀にはいろんな在地氏族との婚姻関係が複雑に絡み合い、系図だけでは割り出せない母方の強い影響下にあったのが王統のようである。

ただ、森浩一らは、妻である吾田媛の隼人系(あた・あいらは南九州霧島山系の地名)であることは、それ以前の神武天皇の現地妻が阿多の吾平津媛(あたのあいらつひめ・トヨタマヒメの妹)にしたことからの流れではないかと見ている。『日本書記』成立前の文武天皇のときに隼人が乱を起こしている。『日本書記』記事には、言語学者・森博達の指摘では、文武時代に書き加えられた挿入記事が多いという。隼人にはいくさで女性が中心的役割を果たす風習があった。700年の乱でも、首謀者は女性巫覡である薩末比売・久売・波豆(さつまひめ・くめ・はづ)と三人が女酋である。なお、「くめ」は久米の族長、「はづ」は愛知県知多半島に地名があってどうやらみな隼人の各地族長だったようだ。それが三河湾に地名があるのは、一緒に決起した助督衣君弖自美(えのきみてじみ)が尾張・三河の人だったからだと思え、つまり隼人は尾張氏や三河の海人族らと交流、あるいは支配関係で結ばれていた気配があるとは、以前書いたことがある。

しかし筆者は隼人が単独でもっと古くから(縄文時代から)山背の木津川に入っており、そもそも隼人の乱に出てくる毛人というのが熊襲のことで、例の南海産貝のとりひきですでに淀川を中心とした東西貿易の基地にしていたと睨んでいる。船の民の行動力や範囲は常識を越える。弥生時代には東北や南北海道にまで貝を運んでいる。そもそも淀川を自在に往来してのは隼人や久米だったとしても少しもおかしくなく、それが葛城・物部・尾張氏族とすでに南九州で婚姻関係があったとしても不思議はないと見る。なぜなら神武東征のエピソードは最も早くから稲作と製鉄が入った西九州の江南系氏族が南下して太平洋ルートのために隼人・熊襲・尾張などの力で北上してくる話だからだ。また「竹取物語」に竹が出てくるのも隼人が竹の根をここに運び込み、それが根付いたのであるし、竹取の翁とは平安時代当時では賤民(中世には茶筅と呼ばれた)竹加工職人であり、それは彼らの祖が敗者だったからである。つまり建埴安彦に手を貸した隼人の妻の子孫で、文武時代に敗北した歴史の敗者だから差別されたのである。そして南山背の八幡市には今も内里という地名があり、梨の山地だが、被差別部落であった。その隼人の竹は岩清水八幡宮に植わっており、その竹はエジソンがフィラメントに使った竹なのである。だから竹取物語の出所は八幡市~木津川沿線相楽地方の被差別民に育てられる媛の話で、古代から隼人ら海人族に貴種の皇子が養育された風習を反映した物語なのである。

こうして見ると卑弥呼の前からすでに男の王は合議制で選ばれており、吉備系の巫王と葛城系の巫王、また丹後や若狭や近江や古志などの王の間での交代制ではなかったかと思うのである。
その形はたまに中国や半島のどの勢力につくかなどの現実的政治的事柄で、反発もした。そういう大王継承争いのひとつがタケハニヤス彦の戦いとして代表して記録されたのだろう。
記紀は女王卑弥呼の存在については一切書き残さなかった。その理由は、神功皇后なら臺與に仮託できても、卑弥呼を始祖王アマテラスに仮託することはできなかったからだろう。アマテラスとはひとえに持統女帝を感じさせねばならない女神だったからだ。不比等にとってはアマテラスが二人いるはずはなかった。ゆえに卑弥呼は消した、あるいは神功皇后とモモソ媛に一部仮託した。卑弥呼のモデルとしては巫女であるモモソ媛では荷が重く、その性格はむしろ玉依媛に近い。それに伊勢で祟る在地神や東国勢力を押さえ込む役割のアマテラスに比定するのなら大物主の妻になってすぐ死んだモモソ媛よりも、アマテラスを奉じた巫女・倭比売のほうがふさわしい。
この記事は続く
 
 
 


 
おまけ
神武東征は江南系の西九州からの南下ルート、隼人の妻を娶り日向~臼杵の海人族=倭直氏系の船を使う。葛城族もこのコース。葛城族は日本海の安曇族コースも使った。出雲・丹後・気比・富山湾・・・そして秋田・苫小牧へ。
 
応神東征は半島系騎馬民族のコース。筑紫と言ってもかつての豊である遠賀川東岸から出発する岡湊コースで遠賀川式土器コース。吉備王家のやってきたコース。
紀氏・木部コースでもある。葛城系ウチのルート。
 
日本海コースと太平洋コースは隼人も安曇も久米も使うコース。いわゆる尾張氏コースが太平洋にあり、尾張からは琵琶湖を使って若狭に出る。そこに海部氏のこの神社がある。
 
 
 
 
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 

 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>