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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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敗者の古代史2 大友皇子の墓は大山崎宝積寺?天王山の由来?

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京都府南部大山崎・・・
 
そう聞くとぼくらの世代では「三川合流地」「サントリーウイスキー山崎」がまず思い浮かんでしまう。
 
あるいは歴史に詳しい人なら明智光秀と秀吉の大決戦の場。
 
あるいはミステリーファンなら水無瀬と百人一首の配置の謎・・・。
 
さて、あなたがどれとどれを知っておられるかは、歴史愛好家の尺度にもなるのだが・・・。
 
 
 
ここに天王山という有名な山があって、京都と摂津を分けている。ここがなぜ天王山なのか、なぜ天王山と言うと天下分け目の決戦を言うのか?
 
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八幡市から見た山崎
 
 
壬申の乱。
天武天皇大海人皇子と天智皇子である大友皇子=弘文天皇の瀬田決戦のあと、弘文天皇は山前に逃げ込む。その首は天武の仮宮(美濃国の野上宮)に送られ、天智ゆかりの近江国大津市の長等山(ながらやま)に葬られたたが、もともと領地があった大山崎にも臣下の手で葬られたという伝承がある。そして伝承では、ここにそれを埋めたのは近江朝の重臣・物部連麻呂であるという。
 
 
弘文天皇という名前は近江朝でだけ通用する番外天皇としてのお名前で、実際には即位したとしても近江朝内部の即位である。彼に味方したのは天智以来の重臣たちである。物部連麻呂を筆頭に、中臣連金らで、協力を頼んだ筑紫も吉備も東国も全部これを断った。一番大きな理由は父・天智のせいである。白村江の敗北だけでなく、天智天皇は乙巳の変以外はすべからくダメ政治家だったからである。つまり天智の政治に誰もが失望していた。おまけに最後の最後、死の床で大友には脅威である大海人を吉野に行かせてしまう。いわゆる「虎を野に放つような」行為で、完全に全国諸豪族は天智の治世を見放していた。
 
一方、大海人は全国海人族からの支持を受けた期待の王候補者。これでは大友側には勝ち目はない。
 
 
われわれは学校であまりにも天智=中大兄皇子の偉大かを教わりすぎている。それは『日本書記』の歴史観に毒された頭の古い教師に教わったからである。実際には諡号から見ても最高の名をつけられた孝徳大王のほうが百倍もすばらしい王だった。乙巳の変も孝徳が画策して若い中大兄をうまく乗せたのである。中大兄の出自は父も母も大王家で、当時最高に家柄。しかし血の気が多く、残虐な性格で、あまり人望がない人だった。だから必死で味方を増やそうとして蘇我入鹿を惨殺したが、結局それがまた人望を失わせた。仕方なく今度は敗北が目に見えている百済に加勢して、これまた大失敗。われわれは孝徳の外交力や厳しい政治家としての正鵠な事績を評価していない。すべては『日本書記』にだまされてきた学校の歴史教師たちの大失策である。
 
 
山崎に宝積寺という寺があって、そこに弘文天皇山陵があるということを京都の考古学の進藤千尋と言う人が明治時代に力説している。
 
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ここには御陵社という祠があって、もとは古墳だったという。それは天王山の目の前にあった。明治8年の説である。先見の明に舌を巻かされる。明治の先達の先見には今後も見直しが必要である。天皇主義の時代にそういう視点で学問していけたこともすごい。帝国主義時代の昭和初期なら非国民と言われかねない。
 
森浩一はだからここの山を天王山といいはじめたのではないかという。そしていわゆる決戦を天王山と言うのは、秀吉・光秀以前からそうであって、むしろ戦国軍記の方がここを決戦地にしたのじゃないか・・・と筆者などは深読みしてしまうのである。
 
天智と大友はとにもかくにも英雄にはなれず、その見直しは何度か奈良から平安にかけて模索されてきた。その最高の文献が藤原氏の名誉回復のために描かれた『日本書記』であると言える。それが歴然とわかるのが勝者天武の子孫、大津・高市の扱いであろう。特に大津皇子は有間皇子同等の罠にかかって暗殺された。やったのはなんとまあ、母親の立場の持統女帝。あまりにもわが子である草壁皇子の即位にこだわったあげくである。高市皇子はもくもくと持統に尽くしたが結局皇太子にもなれず静かに死んでいく。こうして天武の直系は消えてゆく。
 
死してなお、天智は祟ったと言える。ダメ王族の血脈はやがて桓武に引き継がれ、かくして天智は虚構の英雄となった。
 
 
 
 
 
参考文献 森浩一 『敗者の古代史』
 
 
 
 
次回はいよいよ女性垂涎の有間皇子の遭難。
涙なしには語れないその非業の死。
 
 
 
なお、百人一首には弘文天皇への非業の死を訴える大伴家持の一種の、王家の歴史への怨念が反映されていると言えよう。歴史の理不尽に対する没落宰相大伴氏ならではなの怨恨があふれた並べ方になっている。その起点になったのも大山崎である。
 
 
 
 
 
 
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