孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)に軽皇子(かるのみこ)が即位し孝徳天皇となる。孝徳天皇は同年の大化元年12月9日(646年1月1日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白雉4年(653年)に都を倭京(飛鳥)に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどや孝徳天皇の皇后である間人皇女までも、中大兄に従って倭京に戻ってしまった。失意の中、孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御した。このため、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)、孝徳天皇の姉の宝皇女(皇極天皇)が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚した。
父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている(森浩一『万葉集の考古学』など)。
ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90
藤白の み坂を越ゆと 白樽の わが衣手は 濡れにけるかも」
(『万葉集』巻9・1675 詠み人知らず)
(『万葉集』巻9・1675 詠み人知らず)
前章・大友皇子で中大兄皇子の残虐性について述べた。有間皇子をはめたこのエピソードでも中大兄は残酷さをむきだしにしている。それは一種、乙巳の変で孝徳にはめられ、自らの手で入鹿を惨殺してしまったことへの復讐でもあっただろう。
大化の改新はわれわれの世代では入鹿暗殺のことであるかのように「蒸し殺す=645年」と覚えさせられたが、今の教科書では645年は乙巳の変、翌年が大化元年で646年となっている。大化の改新を推し進めたのが孝徳大王の長男・有間皇子である。(大化年号があったかどうかという諸説があるが)
孝徳大王の諡号は、8世紀に歴代大王の漢風諡号が定められたときに最高級の賛辞で作られた名前になる(森浩一)。道徳経の最高理念「孝は徳の本なり」をそのまま諡号にしてある。孝とは老をよく知り尊ぶこと、つまり親孝行の孝。
大王は即位すると中大兄を皇太子とし、阿倍倉梯(内)麿呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌子(鎌足)を内大臣とする難波宮を上町台地に建てる。当時の上町台地は海の中に突き出した岬である。現在の大阪市中心部はみな上町台地東側にあった住之江の海(大阪湾)を埋め立てて(梅田)存在しているわけだが、当時の淀川河口は、今となってはかなり内陸の新大阪駅の西3キロほどの場所にあった。東大阪の石切劔矢神社のある枚岡が生駒山の麓であるが、ここに日下江(くさかのえ)があった。
難波宮は外海と内海を見渡せる海外に視野を置いた孝徳の外交的政治思想をそのまま反映した宮だということがわかるだろう。大阪湾から瀬戸内海を使い、海外と交易する外に向かったグローバルな都で、飛鳥や纏向や奈良とは画期的に違っている。しかも孝徳は非常に臣下の規律に厳しく、なかなか信頼できる臣下を得られない人であった。一種の理想主義者だとも言えるか。古来の神よりも仏法を重んじた。
有間皇子は母が阿倍倉梯麿の娘・小足媛(おたらしのひめ)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
阿倍氏は今の総理大臣・安倍晋造もおそらく長州安倍氏と連行された俘囚蝦夷との遠い子孫かと思うが、大彦の子孫である。過去の総理では中曽根さんなどは群馬(上毛野)の渡来と信貴山の蝦夷長髄彦の子孫ではあるまいか?佐藤栄作もそうだったが、顔は濃いのに背が高いという二人の特徴は、縄文と渡来の掛け合わせを感じさせる。その点、俳優の岸部一徳兄弟(元GSのタイガース)は摂津の岸部の難波吉志の血を受けたか、顔立ちも背も北方系新モンゴロイドである。ついでながらオリンピックなどでいつも思うことだが日本人が国内では大きめの人なのに、外人と並ぶとやはり小さいのは、倭人=縄文人の血脈が優性残存するからだろう。三つ子の魂百までだが、いくらDNAが北方系に支配されても、表出する形状は必ずしもそうはならず、いつまでも体躯が伸びないのは興味深い現象である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
阿倍氏の一派である阿閉氏は三重県の伊賀を本拠地とする。名張市に鹿高神社古墳(近鉄赤目駅)がある。大阪の阿倍氏は阿倍清明を生み出す阿倍野の氏族。奥州阿倍氏は蝦夷首長と混血して秋田氏などの元。大彦の子孫には筑紫国造家もある。阿倍倉梯麻呂の墓は桜井市の阿部丘陵の西側・文殊院西古墳だとされているので奈良の阿倍氏は纏向地方の豪族である。この古墳の磨き上げられた鋭角な石室は渤海王墓と類似点があるとされている。
・・・・・・・・・・・・・・・
おまけ入鹿の墓は鬼の雪隠?
(いずれまた書くが、飛鳥の古墳で、石舞台古墳(桃源墓)は馬子の墓で、あれもかなりな石室だが、発掘では方墳で、その後封土・盛り土を乙巳の変のあとはがされたことが明白になった。入鹿の墓はどこにあるかというと、あの飛鳥谷に放置されている鬼の雪隠だと考えられる。(森浩一ら))作っている途中を掘り返され、石棺が放り出されたとなるか?
・・・・・・・・・・・・・・・
部下に厳しかった孝徳は心を許せる部下をなかなか持てず(深謀遠慮しすぎる性格)、大化二年に塩屋連鯯魚(このしろ)、神社福草(かむこそのさきくさ)、朝倉君、椀子連(まろこのむらじ)、三河大伴直、蘆尾直(すすきおのあたい)の六人を「天皇に順うにより賛美」した。
このうち有間にも付き従ったのが鯯魚である。最後まで付き従い、藤白坂で斬殺されている。
塩屋連とは紀州日高(御坊市あたり)の氏族である。椀子は東国に多い氏姓で丸子かとも思え、蝦夷俘囚の族長の名であろう。この当時、すでに蝦夷から大和に来て、王家に属するものがいたわけである。これより前、継体大王の妃の子に椀子皇子(祖父三尾連カタヒ・母倭媛)がおり、北陸三尾氏の元を作っている。蝦夷一家をめのとにした皇子であろうが、この話は北陸出身の継体の母が三尾(三国)氏出身ゆえの付加記事だろう。三国は継体が大和へ向かったあと三国から御国と地名変更した。そこにとどまって継体の貿易のために三国の津を守ったのが三国氏である。こういう小さな記事からも、古くから大和には地方豪族の長が集っていたことがわかる。
孝徳と有間の重臣はみなこのように地方豪族が多かった(六人中四人)。孝徳は東国や北陸を重視していたのである。崇神や継体がそうだったように北陸の港は筑紫に頼らずに半島へ向かうための重要な場所であり、尾張や三河や三野(美濃)の伊勢湾は太平洋を通じて南北に出るための重要な港である。
こうした海洋ルートを地理学から想定してゆくと、大和・飛鳥・難波がその真ん中にあって、中枢が置きやすい立地であったことに納得するのである。
さて鯯魚の出身地である御坊の日高川は、その地名も蝦夷風であるが、下流右岸に堅田に弥生前期遺跡があり、塩屋地名は製塩地名であるから海人族のメッカ。御坊といえば醤油なので渡来系職人も多かった。弥生~奈良の小型土器~鉄釜による製塩遺跡が五ヶ所ある(尾ノ崎遺跡)。塩屋連氏はつまり名前のとおり製塩氏族である。岩内古墳群からは南海のスイジガイを象った銅釧=巴形銅器も出ており、九州水人と紀州海人族の深い関係を物語る5世紀初頭の古墳群。
終末期古墳であるが、古墳群はまず塩屋氏のものと思われるものの、その中で異彩を放つのが1号墳であろう。
内部に漆塗りの木棺が安置され、方墳盛り土に、紀州では終末期以外でもまったく見られない古来の版築工法が使われている。終末期古墳はまずもって天皇とその親族、皇族、功臣だけが作れたものゆえ、紀州日高といった遠隔地にそれがあるのは、おそらく有間の功臣だった塩屋連鯯魚死んだ跡、塩屋氏らが中央とは別に有間をしのんで葬ったものだろうと思われる。有間の遺骸は、首だけ持ち帰っただろうから、胴体だけが当地に仮埋葬されたと思われる。豪華な銀装の太刀が副葬品となっていた。
岩内1号墳調査中の故・森浩一氏
陵墓とは別に、このように飛び地のようなところに陵墓伝承があるのは、大友皇子と有間皇子など、非業の死を遂げた歴史上の貴種であろう。あるいは筑紫国造家磐井の墓なども豊前・豊後にあるのではないか?推測するにそれは大分県臼杵市にあると筆者は見ている。
紀伊日高といえば、神功皇后と応神がこの日高で、太平洋を土佐周りでやってくる武内宿禰の船団と合流した記録がある。忍熊王との決戦地宇治へ向かうための合流で、やはり紀伊が大和へのひとつの寄港地であることがわかる。
さて前置きが長くなったが、有間は中大兄の脅威を感じて、病気と自称して紀伊の牟婁(むろ)の湯に湯治に向かう。これは今の白浜温泉の南東にある湯崎温泉であろう。帰ってき斉明天皇にここを薦める。ところが斉明天皇が牟婁へ行くときに中大兄がついてきた。中大兄のほうでも有間の陰謀をうすうす見抜いてボディガード兼、あわよくばやってくる有間勢を返り討ちせんという腹である。天皇が留守の間に中大兄重臣の蘇我赤兄(あかえ)が天皇の失政を三つあげて有間をそそのかす。まんまとそれにのった有間は中大兄の謀略に気づかず、赤兄を誉めそやし、天皇討伐、政権交代をほのめかしてしまう。
翌日、赤兄らの軍隊は有間の居宅を囲い込みこれを牟婁へ連行。中大兄がその陰謀を問いただすと有間は「天と赤兄が知っている」と答える。
都へ護送するさい、中大兄は密かに腹臣・丹比小沢連国襲に命じ、藤白坂(海南市)で皇子を絞殺させてしまう。ここで鯯魚らも殉殺された。絞め殺したとは前例のない残虐さである。
辞世の句
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む (2-141)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (2-142)
しかし、密かに絞め殺されたのであれば辞世の句は詠めるはずもなく、有力な一説ではこの二首は後世に哀れんだ誰かが挿入したものではないかとされる。
孝徳と中大兄の確執さえなかったら有間は絞殺などという怨念あふれる殺され方もしなかっただろう。ことほど左様に、中大兄の執念はおぞましい。その血脈が平安の桓武以後の朝廷に受け継がれたことは、なおさら恐ろしい。
近年、東アジアは非常な不安定で、今の情勢は第一次世界大戦直前の昭和初期に非常に似通ってきている。中大兄の残虐な血が、再び怨念の世界情勢を呼び覚まさねばよいのだが・・・。日本は信頼できる頼る先を見失い始めており、中国はロシアに歩み寄って行く。朝鮮半島と日本列島は、米国からはあまりに遠く、目の前にあるのは露中の刃ばかりである。まずい、非常にまずい。肌寒さがいや増す。震撼する事態が10年のうちに起きる気配が刻々と近づいている気がする。
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1