敗北した氏族は当然のごとくにそのあと差別された。
それは決して怠惰な生き方をしてきたからではなく、敵対したためにそうなった。
敗北したからそうなった。
怠惰かどうかは、その後の生き方次第である。
少なくともそうなる前には、彼らは君たち以上に、歴史と立ち向かい敗北したのである。
そこから見えてくるのは、むしろ、ぼくにとっては、人の優しさである。
差別は決して、彼らの孤立を望んでされてきたのではない。
孤立とは自らがそう思うことから始まってしまう。
そうだ、韓国のように思い込むことがむしろ孤立を深めてゆく。
心とは開放されることを常に望んでいる。
古代を知るとはそうした差別と被差別、人間の行動原理をいう普遍的な事象を知ることだ。
古代史とは日本人とは何か、どこから来て、どこへゆくのか・・・過去から未来をつむぎだす学問である。
省みられることのなかった人々こそが歴史を作る。積み重ねる。
絶対に史書だけが歴史なのではない。
考古学的発掘には、ときとしてそうした、逆転の構図を内在する真実がある。
それは大衆の生き様の中にも内在し、決して消え去ることはない。
君が歴史をやるならば
あるいは日本人を知りたいのなら。
絶対に、かくされてきた歴史の不都合に背を向けてはならない。
なぜなら、その不都合と差別は、
明日にもぼくたちに襲い掛かるかも知れぬ不都合だからである。
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