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呉鏡を枕元に置く倭人たち/椿井・黒塚・石塚山の王は呉を重視した

 
三角縁神獣鏡が大量に出た古墳と言えば、
まず奈良県の黒塚の33枚、京都南部の椿井大塚山の32枚、兵庫県の枚、福岡県の石塚古墳などがあげられる。
 
その神獣鏡は呉の絵柄を持った鏡ではあるが、こと三角縁という目で見ると、どれもが全部、棺の外側にまとめて置かれたということをご存知だろうか?
 
ではそれぞれの棺内部に一枚だけおかれていたのが、まずは全部呉の鏡であったことは?
 
 
黒塚古墳ではそれがあきらかな状態で出土した。
椿井大塚山は国鉄奈良線の架設工事で出たために、当時の状況がよくわからなかった。しかし再調査によって、古墳内部にある石室がちゃんと壊れずに見ることができた結果、やはり死者の頭部付近には呉鏡があったのである。
こうして過去の神獣鏡他出古墳が次々に再調査され、その結果、紛失されたところでも、すべてが三角縁神獣鏡は棺外、おそらく内部にはたった一枚だけ呉鏡が置かれたであろうと「ヤマト学者の発掘で発表された」。
 
どういうことだろうか?
 
それらの神獣鏡が多く棺の外に置かれた墓は、その地域=国の王であろうと考えらたのである。すると黒塚はヤマトの王であり、椿井大塚山は南山背王、石塚山は伊都国王、播磨の古墳は播磨から吉備の王だろうとなった。それがすべて一番大切な鏡を呉のものだと考えながら死んだのである。
 
そのほかの奈良県の大古墳を調べると、やはり魏鏡は数は多いが、メインは呉のものがほとんどだった。つまり邪馬台国は魏につくか呉に着くかきめかねており、どちらかと言えば呉に勝ってほしかったのではないかという、3世紀当時の国際感情があきらかになったのである。
 
これは大変重大である。
 
当時の地球環境から見ても、中国北部は常に外敵=騎馬民族の侵略の恐怖がある地域だったのである。そして文化の点においても日本は江南のほうが気候も、食生活も、宗教観も近似しており、なにより、倭人の先祖は長江から来たことを知っていたのである。
 
魏は公孫氏をまず滅ぼし、呉と立ち向かう。レッドクリフでは魏が一敗地にまみれた。倭国は呉を挟み込める位置にあり、魏は卑弥呼の朝貢を待ちかねていたのである。しかし最終的に魏が勝利すると、その挟撃関係はもう必要なくなった。4世紀までに、倭と中国は国家としてはまったくつきあいがなくなるのである。この間隙に、突然、半島から応神が河内に入り込んできた。こうして三輪王家は王から転落し、王家へ妻を差し出す側ー母方へ向かうこととなった。
 
 
 参考 西川寿勝
 
 
 

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