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出土馬具に鳳凰の透かし彫り 古賀・船原古墳2013年11月01日
「福岡県古賀市で出土した古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)の金銅製馬具に、精巧な鳳凰(ほうおう)の透かし彫りが施されていることが、九州歴史資料館(福岡県小郡市)のエックス線CTスキャナーによる調査でわかった。奈良県の(藤ノ木Kawa)古墳の副葬品と酷似しており、ヤマト政権との密接な関係がうかがわれる。
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あきらかに新羅様式デザイン
(藤ノ木古墳は蘇我氏によって殺されるアナホベ兄弟の墓、あるいは崇峻もここに改葬して放り込まれた=反逆王族の墓つまり百済シンパ蘇我氏VS新羅シンパということかKawa)
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このため、馬具の飾り金具「心葉形杏葉(しんようけいぎょうよう)」(縦約10センチ、横約11センチ)をCTスキャナーで調査したところ、ハート形の枠の内側に、薄板を重ねて透かし彫りが施され、唐草の文様の中に翼をふりあげた2羽の鳳凰が、左右対称に位置しているのが浮かび上がった。
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(あきらかに新羅様式Kawa)
大きさや形、文様は、奈良県桜井市の珠城山(たまきやま)3号墳に副葬されていた杏葉と酷似していた。一帯の大和盆地東南部はヤマト王権の中枢部と目されている。
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-双鳳文杏葉(奈良県桜井市珠城山3号墳出土)
九州国立博物館の河野一隆・文化交流展室長(考古学)は、「これほど似た例は珍しく、朝鮮半島の同一工房で製作されたものではないか。馬具の主は、ヤマトの朝鮮半島出兵にかかわった人物だろう」と話している。
このほかに馬具からは新たに、全国3例目となる馬のかぶと「馬冑(ばちゅう)」(長さ約50センチ、幅約18センチ)や、鞍の後ろに取り付ける旗立てとみられる蛇行鉄器3点が確認された。」
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140418-OYS1T50067.html
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船原古墳遺物埋納坑内部写真
■新羅と筑紫の関係を示すベノルリ古墳
古代日本と朝鮮半島 明らかになる交流史2014年5月7日(水)
「古代史を塗り替える発見は、韓国南西部の小さな島の沿岸部でありました。
ベノルリ古墳。
古代日本と朝鮮半島 明らかになる交流史2014年5月7日(水)
「古代史を塗り替える発見は、韓国南西部の小さな島の沿岸部でありました。
ベノルリ古墳。
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今から3年前、現地ではこれまでほとんど出土した例のない甲冑(かっちゅう)、よろいやカブトが見つかったのです。
2年ががりの保存処理が終わり、ようやく撮影の許可が下りました。
2年ががりの保存処理が終わり、ようやく撮影の許可が下りました。
カブトが作られたのは、5世紀ころとみられます。
そのころの日本、倭国で使われていたカブトとよく似ています。
倭系甲冑(わけいかっちゅう)と呼ばれます。
そのころの日本、倭国で使われていたカブトとよく似ています。
倭系甲冑(わけいかっちゅう)と呼ばれます。
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右側の日本の古墳から出土したものと比べると、朝鮮半島から出土したカブトは、形もそこに用いられている技術もよく似ています。
倭系甲冑の出土は、かつての百済の領域、韓国南西部の沿岸に集中しています。
この発見は韓国の研究者に、驚きを持って迎えられました。
この発見は韓国の研究者に、驚きを持って迎えられました。
トンシン(東新)大 文化財研究所 イ・ジョンホ教授
「これはびっくりする。
(甲冑は)倭系だとは思っている。
こちら(韓国南西部)では、このような甲冑は作られてはいない。」
「これはびっくりする。
(甲冑は)倭系だとは思っている。
こちら(韓国南西部)では、このような甲冑は作られてはいない。」
韓国の考古学者、パク・チョンスさんは、倭系甲冑が日韓の交流史に新しい光をあてるものと注目しています。
パクさんは、こうした甲冑は朝鮮半島から近い北部九州の倭人がもたらしたものだと考えています。
精巧な甲冑は、当時ヤマト王権が、地方の豪族に与えたものでした。
この古墳からは、倭系甲冑とともに百済に関連する意外な品も出土しました。
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百済王権の中で高い地位を示す金銅製(こんどうせい)の冠(かんむり)。
パクさんは、これが百済が北部九州の軍人を受け入れていた証拠と考えています。
九州でも発見! 豪華“新羅系”馬具
一方海峡を挟んだ九州でも、去年(2013年)大きな発見がありました。
その舞台は、福岡県古賀市でした。
ここで去年、朝鮮半島製とみられる金銅製の装飾馬具が大量に発掘されたのです。
その舞台は、福岡県古賀市でした。
ここで去年、朝鮮半島製とみられる金銅製の装飾馬具が大量に発掘されたのです。
出土した装飾馬具は、6世紀末(すえ)から7世紀初頭にかけて、聖徳太子が生きた時代のもの。
これだけまとまって出土するのは、極めてまれです。
福岡大学教授の桃祐輔(ももさき・ゆうすけ)さんは、精緻な加工の様子から、当時、朝鮮半島南東部にあった国、新羅の技術で作られたものだと考えています。
当時、百済と結んでいた倭国は、新羅と敵対していました。
そうした中で新羅は倭国との対立を避けるため、外交に影響力を持つ北部九州の豪族に馬具を贈った可能性があるといいます。
そうした中で新羅は倭国との対立を避けるため、外交に影響力を持つ北部九州の豪族に馬具を贈った可能性があるといいます。
福岡大学 桃祐輔教授
「当時はむしろ九州が、朝鮮半島との関係をデザインして、ヤマト政権はやっぱりそれを当てにしながらじゃないと、国際関係を維持できなかったと思う。」」
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/05/0507.html
「当時はむしろ九州が、朝鮮半島との関係をデザインして、ヤマト政権はやっぱりそれを当てにしながらじゃないと、国際関係を維持できなかったと思う。」」
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/05/0507.html
■在野研究者の重要な意見
「まず、発掘された品々は次々と解析されており、その豪華さならびに意匠の複雑さは他に類を見ない程際立ったものとなっています。上の写真は出土した馬具の中で九州歴史資料館が復元した馬の背につける歩揺付き金具と呼ばれる物です。また、金銅装心葉形杏葉は、馬の尻や胸に回したベルトから吊り下げる飾りですが、CTスキャンの結果そこには鳳凰が描かれていました。
奈良にある藤の木古墳は、6世紀後半に作られた全長50メートルの円墳です。ここからも同様に金銅製の多くの馬具が出土しましたが、その鞍金具に彫り込まれていた鳳凰は、船原古墳でみつかった杏葉の鳳凰と同じ人のデザインであると考えられる程非常によく似ています。藤の木古墳で見つかった鞍の形は、中国北部の遊牧騎馬民族の物だと言われています。また、藤の木古墳の被葬者は、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と宣化天皇の皇子の宅部皇子ではないかと推測されています。
問題は、6世紀の末から7世紀にかけて、この船原古墳に埋葬された人物が、どうして天皇家の皇子と同じ程度か、それ以上の副葬品を持つことができたのかということです。船原古墳は、船原古墳群とされており、現存する3号墳以外に2基の古墳があったとされています。単独の古墳でないことから、それ程古くはなくともこの地域を収めていた有力な豪族の墓であったと言うことができます。
そもそも、古賀市とはどのような役割を持つまちであったのでしょうか。著書「魏志倭人伝を探る」の中で、この古賀市から宗像市一帯を『不弥国』として紹介させていただきました。そこで紹介させていただいているのは、古河市青柳町の弥生遺跡である馬渡・束ヶ浦遺跡です。今回の対象古墳のある谷山は、そこから数百mの地点になります。
そして、不弥国は多岐の港であるとともに、これより西の勢力から北九州にできた伊都国連合を守る防波堤の役割をした地であったと紹介させていただきました。加えて、この地は朝鮮半島の伽羅(金官伽耶、狗邪韓国)からの武力をもった一族の侵略により勢力を奪われ、海上交通の支配権を奪われ、伊都国連合は大和から切り離されて衰退したことを説明させていただきました。また、その一族が宗像一族としてこの地に根付いたこともです。
壱岐の島の都の、原の辻遺跡が忽然と消え、その後に中心地を移し非常に多くの古墳が作られたのも、同じ部族による侵略であったとも説明させていただいています。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を証明する資料が、壱岐と宗像には残っていると説明させていただきました。
この地は古来より、航路や港を支配してきただけに、朝鮮半島と密接な関係にあり重要な外交の地でもあったのです。
時は、6世紀末。朝鮮半島が大きく揺れ動いた時期でもあります。日本書紀には「任那日本府」が新羅によって滅ぼされたとの記述がありあす。任那日本府の存在は議論のあるところですが、そこで起こっていたのは新羅の伸張と、倭(ヤマト政権)の影響力の追い出しでした。私は、少なくとも新羅により朝鮮半島との外交権が奪われたのだと考えています。
推古天皇の時代となり、蘇我氏、聖徳太子との三頭政治が始まります。推古天皇8年(600)任那救援を掲げて、朝鮮半島に出兵します。征討大将軍は境部摩理勢(さかいべのまりせ)でした。蘇我一派のヤマト政権の重鎮です。6つの城を陥落させ、難波吉士神(なにわのきしみわ)が新羅におくられます。この後、任那と新羅は倭に朝貢をはじめたと記されています。しかし、現実は厳しく、倭が退いた後、新羅は再び任那に侵攻します。
推古10年(602)、再び新羅討伐が計画されます。今度の征討大将軍は来目皇子です。蘇我一派から聖徳太子の弟に変わりました。2万5千という大軍を率いて筑紫国に至り、島郡に入ります。島郡は糸島半島。旧伊都国の北にあたります。日本書紀によれば、来目皇子が病気になってしまい、延期となります。2万5千の大軍はどうなったのでしょうか。推古11年(603)来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されます。妻の舎人皇女が死んだからと当麻皇子は大和に戻り、結局新羅討伐は行われなくなります。
NHKの番組では、この新羅と倭との外交を取り持ったのがこの船原古墳の被葬者であったのではないかとしています。同様の内容は、福岡大の桃崎教授も言われており「被葬者は糟屋(かすやの)屯倉(みやけ)にも関与していた有力者だろう。一触即発だった日本と新羅の間で奔走した対外交渉の窓口役だったため、新羅関連の馬具もあったのではないか」とコメントされています。船原古墳の西に、大型建物跡が確認された鹿部田渕(ししぶたぶち)遺跡があり、528年の磐井の乱により、筑紫君葛子(磐井の子供)が献上した糟屋屯倉があったのではないかと言われていることを念頭において話ておられます。
以下、このサイト管理者の個人的意見
私の考えは、少し異なります。528年の磐井の乱がそうであったように、やはり新羅の影響は、遠いヤマト以上に北九州地域に及んでいたのだと思います。日本を唐と対等の国にしようと考えていたのは聖徳太子でなく蘇我氏だと考えますが、蘇我氏は蕃国とし扱っている新羅が倭の領土を侵すなどということを許せなかったのでしょうが、聖徳太子一派は親新羅派であったのではないかと思うのです。病気だとか、妻が死んだという理由で新羅討伐を辞めたというのは、元々新羅など討つつもりはなかったのではないかと考えるからです。
大和政権のものとなった糟屋屯倉のすぐ外側の地を治めていた人、それは、筑紫君葛子に使えていた重鎮であったはずだと考えるのです。新羅に通じていた人、という以上に新羅の駐日大使的な役割を担っていた人物ではないかと考えるのです。だからこそ、新羅の代表者として、倭の皇子に負けないだけの副葬品があった。そして、新羅のあった慶州にあるのと同じ20メートル程度の円墳に埋められたと考えるのが良いのではないでしょうか。」
http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-20/blog-2/files/05c27bb0c1c4a62b36d07052d591a192-14.html
■磐井戦争以後の筑紫が見えてくる
それでも続いた九州王朝の残照は、天皇をも左右する?日本の古代史は筑紫対ヤマト、新羅対百済の交代の連続?天武・持統以後まで続く筑紫の影響。清盛これを押さえ込むしかし・・・?
Kawakatuはこれらの分析を評価しながらもこう思う。
継体・磐井戦争の直後、葛子が献上した糟谷屯倉を支配できたのは、筑紫国造家ではもはやなかった可能性もある。『日本書記』の磐井の乱記述では、継体大王は乱を治めたら物部麁鹿火(もののべのあらかい)に筑紫を治めよとしており、ヤマトと筑紫そして新羅との仲介者になれた実力者はこの麁鹿火の子孫ではないかと見ている。物部氏は中央ではすでに不遇な位置に置かれ、飛鳥時代には石上氏と名も変えており、大伴氏や紀氏などと同様に中央で脆弱となっていた。しかし筑紫(竺紫)物部氏は磐井に変わって北部九州から南部までふくめた九州の王となっていておかしくない。藤ノ木の被葬者がアナホベや崇峻であるならそれを支持したのはヤマト物部氏である。船原3号墳被葬者はつまり物部系の誰かではないか?!
また、磐井は東国から派遣されてきた上毛野(かみつけの・群馬車郡国司)氏を押しとどめる際に「同じ釜の飯を食った間柄ではないか」と述べている。東国と九州には3世紀にまで遡れる古いヤマト挟撃関係があったのではないかと見ている。そんなかつての盟友が新羅けん制の軍隊を率いて筑紫にやってきたわけである。当時のヤマトは百済一辺倒の時代。しかし新興国家新羅はかや・高句麗に続いて百済をも領有しようとしていた。百済挟撃の盟友として筑紫を選んだわけである。だから極上の馬具をプレゼントしたのだろう。その関係はこれ以後も長く続いたはずである。おそらく平安時代になっても筑紫と朝鮮には内密の関係が存続する。船原3号の馬具は、大慌てで坑に埋納されたような状態で出ている。磐井戦争直後に新羅からの贈り物(しかもあきらかな新羅様式の、これまで類例を見ない上等の馬具一式)を糟谷屯倉にすでに多く移住していたヤマトの人びと(例えば畿内紀氏系と思われる片袖式石室※(別記事にする)を持つ中園古墳被葬者のような)に見られたら中央にまたぞろ「すわ反乱?」と思われてしまうわけで、大慌てで馬具を隠したのであろう。のちに掘り出すつもりだっかどうかは知らないが。
こうした九州北部の特に玄界灘、糟谷、宗像周辺の新羅寄りだった「もうひとつの王権」ともいうべきものの残存は、その後も畿内中心へ移行しようとする飛鳥・ヤマト政権の脅威であり続けたことだろうし、もっとつきつめてゆくと、天智・天武の対立にまでつながっていった可能性が大いにある。天武外戚となりえた宗像君の圧倒的財力を見ても、九州がヤマト・奈良の王家を凌駕する存在感をあいかわらず持ち続け、結果的に持統のアマテラス信仰にまで影響力を持ちえたと言うことになりおうな按配である。
少なくとも平清盛の時代になって、ようやく博多はその独自性を剥奪され、今の神戸(福原)に国際貿易港が作られ始めたのである。しかし、清盛死後、平家は滅亡し、源氏によって「東国に中枢部」が置かれた。これが横浜・下田の近世国際的発展への基点となったわけである。その東国こそは、実は3世紀からヤマト中央政権をけん制するために九州が強いえにしを結んできた新羅系武力を内在させるもうひとつの王国なのである。東国は8世紀まで古代豪族王権=のちの武家のパラダイスとなる。歴史はこのように何百年のつながりでできている。
なんとわかりやすい、しかも古代を一貫して把握するに明快な方程式の完成だろう。
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