今、「隼人」と言うと西郷隆盛時代あたりに喧伝された「薩摩隼人」という言葉を思い起こす人が多いが、本来の隼人とは古代南九州から発した海人族で、その種類は
1 阿多(吾田)隼人
2 大隅隼人
3 タネ隼人
4 掖久隼人
5 五島隼人
などが記録されている。ただし、森浩一らは3~5は海の隼人である大隈隼人の移住したものと考えており、大きくは本土にいた二種がいたと思われる。
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2 大隅隼人
3 タネ隼人
4 掖久隼人
5 五島隼人
などが記録されている。ただし、森浩一らは3~5は海の隼人である大隈隼人の移住したものと考えており、大きくは本土にいた二種がいたと思われる。
■おおまかに東の大隈隼人、西の阿多隼人と覚えておくのがいい。
大隅隼人は大隈半島から曽於郡、宮崎平野にまで至る「海の隼人」、阿多隼人は薩摩半島と吾田湾を中心とした「山の隼人」と言われている。
大隅隼人は大隈半島から曽於郡、宮崎平野にまで至る「海の隼人」、阿多隼人は薩摩半島と吾田湾を中心とした「山の隼人」と言われている。
■伝承として「海幸山幸」「トヨタマヒメ」「ウガヤフキアエズ」「阿多の小椅命」「呉太伯子孫」「塩土翁」伝承などを持つ交易の民である。
■かつて熊襲と書かれた曽於郡は今、鹿児島県東部に位置するが、かつては北部の霧島山、韓国岳、高千穂岳周辺にも隼人がいたとされその範囲はかなり広かったようだ。隣接する熊本県南部の人吉を球磨、鹿児島県姶良(あいら)郡から曽於郡を襲とするのがいいようだ。
■記紀では高千穂は「日向の襲の高千穂」と書かれるため、ここの高原町が天孫降臨、高天原の聖地であると主張している。襲とは曽於郡の古称で、もともと一文字の曽であったところが奈良時代に地名二文字の命令が出て曽於郡となったという。
つまり曽於は本来一文字一音で「そ」が正しく、熊襲のいたことを証明する。
つまり曽於は本来一文字一音で「そ」が正しく、熊襲のいたことを証明する。
■大隈隼人は奈良時代大反乱を起こし中央から制圧された。そのときの記事で彼等が巫女的女性を酋長としていたことがわかっている。その名前を「はず」といい、今、幡豆地名のある指宿郡には朝廷が建立した?枚聞神社(ひらきき・じんじゃ)が荘厳なたたずまいで、そこにいた反乱の歴史、鎮圧の歴史を物語っている。このいくさで鹿児島県中央部には正八幡が建てられた。以後、大隅隼人の主力はすべて畿内へ連行され、大和や山背各地に入れられ中央の警備をさせられた。
■一方、阿多隼人は早くから畿内に入り皇室直属の近衛となり、のちに名族となった。その風習には「犬咆」があるのは有名。また「隼人の盾」という置き式の盾も大和で出土している。記紀では天孫の最初の妻を出したとされ、トヨタマヒメはワニの化身だったとも言われる。しかしその後の記紀では、姫の兄・大小椅命が守護した嫡子は異母兄弟の神八井耳命系の嫡子に殺され、天皇にはなれなかった。神八井耳は九州の?(熊本の?あるいは岐阜の?あるいは大和の豪族?不明)多氏の血統で、彼等はのちに神武直系と自称して真人にまでなった。多氏が人吉の球磨族だったとすれば、熊襲が襲を裏切ったとも見えるが不明。
各地に大隈、大住などの地名を残したのは大隈隼人だったと思われ、畿内では山背南部の田辺の大住には大住車塚古墳と大住神社が存在する。
■いわゆる国譲り神話では、天孫はスサノオが開いた出雲を征服したにも関わらず、なぜか南九州に降臨したことになっている。しかし出雲には天皇がその後訪れたという記事は一回も出てこない。一方、日向からは天孫の子孫である神武が船出したとなっている。『日本書紀』はニニギが降りた場所を襲の高千穂峰として譲らない。ではなにゆえに出雲を平定する必要があるのかが何も説明されない。スサノオと国譲りの舞台に出雲を設定することで、大和は出雲を侮蔑し、無視したことになっていると言える。
ところが出雲には、大和から滋賀の海(琵琶湖)を抜けて北陸へ出て、半島交易するための重要な位置にある内海を持っていた。中継基地としてどうしても大和には出雲は必要だったはずだ。しかしそれが実際に港になったのは継体大王前後の時代の話である。前衛基地で、古い王家があった北部九州の交流の歴史があったことから、やがて大和には北部九州の独占を断ち切りたかったのだろう。そのためには北部九州が友好関係にあった日本海側ルートを奪う必要があった。出雲はその代名詞となり、青谷などで大きな争いをした。そして服属のあかしに大量の銅器が神庭荒神谷に埋められた・・・という構造だろうか?不明。
ところが出雲には、大和から滋賀の海(琵琶湖)を抜けて北陸へ出て、半島交易するための重要な位置にある内海を持っていた。中継基地としてどうしても大和には出雲は必要だったはずだ。しかしそれが実際に港になったのは継体大王前後の時代の話である。前衛基地で、古い王家があった北部九州の交流の歴史があったことから、やがて大和には北部九州の独占を断ち切りたかったのだろう。そのためには北部九州が友好関係にあった日本海側ルートを奪う必要があった。出雲はその代名詞となり、青谷などで大きな争いをした。そして服属のあかしに大量の銅器が神庭荒神谷に埋められた・・・という構造だろうか?不明。
■北部九州を攻めるならば南九州を最初に手中にする意味は見えてくるが?
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