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蛇4 三輪山伝説の国内流布と多氏・大三輪氏神長官国造

 
日本国内における三輪山伝説(苧環型) 古い順に
●『古事記』人代一 崇神記大田田根子の条
河内美努邑の意富多多泥古命神の子と知れる所以は、
 上に云へる活玉依毘売 其の容姿端正しかりき。
 是に壮夫有りて、其の形姿威儀、時に比無きが、夜中の時にたちまち到来つ。
 故、相感でて共婚ひして共住る間に、未だ幾時もあらねば、
 其の美人妊身みぬ。爾に父母其の妊身みし事をあやしみて、其の女に問ひて曰ひけらく、
 「汝は自然ら妊みぬ。夫无きに何由か妊身める。」
といへば、答へて曰ひけらく、「麗美しい壮夫有りて、其の姓名もしらぬが、
 夕毎に到来て共住める間に、自然懐妊みぬ。」といひき。
 是を以ちて其の父母、其の人知らむと欲ひて、其の女にをしへて曰ひけらく、
 「赤土を床の前に散らし、閉蘇紡麻(へそを)針に貫きて、其の衣の裾に刺せ。」といひき。
 故。教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通りていでて、
 唯遺れる麻は三勾のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、
 美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子とは知りぬ。
 故、其の麻の三勾遺りしに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。
(この逸話は『日本書記』にも採用されている)
 
 
●『肥前国風土記』 松浦郡褶振峯条 任那出征大伴狭手彦、弟日姫子
大伴の狭手彦の連、發船して任那に渡りける時、
 弟日姫子、此に登りて褶を用ちて振り招ぎぎ。
 因りて褶振の峯と名づく。
 然るに、弟日姫子、狭手彦の連と相分かれて五日を経し後、人あり、
 夜毎に来て婦と共に寝ね、暁に至れば早く帰りけり。
 容止形貌 狭手彦に似たりき。婦、其を恠しと抱ひ忍默えあらず、
 竊に績麻を用ちて其の人の襴に繫け、麻の隨に尋め往きけるに、
 此の峯頭の沼の邊に到りて寝ねたる蛇あり、身は人にして沼の底に沈み、
 頭は蛇にして沼の脣に臥せりき。惣ちに人と化為りて、すなわち語云ひしく、
 篠原の 弟姫の子ぞ さ一夜も 率寝てむ時や 家にくださむ
時に弟日姫子の従女、走りて、親族に告げければ、親族、
 衆を發りて昇りて看けるに、蛇と弟日姫子と並に亡せて存らざりき。
ここに其の沼の底を見るに、但、人の屍のみありき。
 各、弟日姫子の骨なりと謂ひて、
やがて此の峯の南に就きて墓を造りて治め置きけり。其の墓は見に在り。
 (同様の逸話は『日本書記』出征宣化二年、欽明二十三年にも見える。) 
 
 

 

●『新撰姓氏録』 大和国神別大神(おほみわ)朝臣条
大神朝臣。 素佐能雄命の六世孫、大国主の後なり。 初め大国主神、三島溝杭耳の女、玉櫛姫に娶ひたまひき。 夜の曙ぬほどに去りまして、来すに曾に昼到まさざりき。 是に、玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、 明くるに到りて、苧の随に、尋ゆきはれば、茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山に指れり。還りて、苧の遺を視れば、 唯、みわのみ有りき。之に因りて姓をおおみわと号けり。 
 
 
 
●『平家物語』恐ろしき物
 寿永2年(1183年)7月,平氏は安徳天皇を奉じて都を落ち,8月,九州大宰府に入った。
  まず原田種直の宿所に遷座し,やがて豊前宇佐宮に行幸し,宇佐八幡宮大宮司公通(きんみち)の宿所を皇居とした。
  しかし宇佐宮もあまり頼りにはならないとみた平氏は再び大宰府に移った。
  
  豊後国は刑部卿三位藤原頼輔(よりすけ)の領国であった。子息頼経(よりつね)を知行の代官としておいていた。
  その頼経に後白河法皇から頼輔を通じて使者が遣わされた。
 「平家はすでに神々にも見放され,法皇にも見捨てられ,都を脱出し,西海の波の上を漂う落人となった。しかるに九州の者どもがこれを迎え入れていること,けしからぬこと。隣国と一味同心して九州から追い出すように」と申し送ったので,頼経はこの次第を豊後国住人の緒方三郎惟栄に下命した。

 
 かの緒方三郎惟栄という者は,おそろしき者の末裔なり。 と申すは,当時,豊後国の或る片山里に住む夫をもたない独り身の娘がいた。
  ところがいつの頃からか,素性の知れぬ不思議な男が夜な夜な娘のもとに通いつめ,やがて,娘は身ごもってしまった。その母が不審に思い,娘に問い尋ねると,娘は,男の来るときにはわたしの目にも見えるが,帰るときは何も見えないと語った。
 そこで母は,娘に男が帰るとき針で「緒環」(苧環)を通して,そっと男の襟に刺しなさいと,と教えた。
  娘は,その夜,母の教えどおり,男の襟に針を刺した。男が何も知らずに帰ったあとをたどると,日向国の境にそびえる嫗岳(今の祖母山)という山のふもとの大きな岩屋(大分県竹田市穴森神社と伝承がある)の中に糸が続いていた。
 娘が岩屋の入り口にたたずんで耳を澄ませていると,岩屋の奥から異様な唸り声がしたので,娘は「あなた様のお姿を見たさに,ここまで尋ねてまいりました」と言うと,奥から「われこそは人間の姿をしているものにあらず。
  そなたが,われの姿を見れば,肝もつぶれるばかりに驚くことは必定。そなたの腹の中の子は,男子にちがいない。武勇にすぐれ,九州・壱岐・対馬にも並ぶ者とてもあるまいぞ」と答えが返ってきた。
  娘はなおも呼びかけて「たとい,どのようなお姿にもせよ,日々の睦み合いが忘れられましょうぞ。互いの姿を今一度見せあいましょう」と言う。
 
 
 

 「なれば…」という声とともに岩屋の奥から,とぐろを巻けば5,6尺もあろうかという大蛇が身をゆすりながら,這い出てきた。
  これを見た娘は,肝をつぶして,魂も消えるほどに驚いた。
                    
  引き連れてきた侍たちも10人あまりも,悲鳴をあげてその場を逃げ去った。
  娘が,男の狩衣の襟首に刺したと思った針は,大蛇ののど笛のところに突き刺さっていた。

  間もなく娘は,大蛇の予言どおり男子を産んだ。祖父が「大事に育ててみようではないか」と言うので,育てていくと,男の子はまだ10歳にもならないのに背丈は大きく,顔も長い,たくましい男子となった。
  元服させるにあたり,母方の祖父大太夫は,自分の名にちなみ大太(だいた)と名づけた。
  大太は,夏にも冬にも手足にアカギレができたので,アカギレ大太と呼ばれた。
  死んだ大蛇は,日向の国の高千穂大明神だったという。
  その緒方三郎惟栄は,かの大蛇と娘の子である大太の5代の子孫であった。このように恐ろしい者の末孫であったからだろうか,豊後の国司刑部卿三位藤原頼輔(よりすけ)の命令を院宣と称して,九州・壱岐・対馬に回文(めぐらしぶみ)をしたので,一円の名だたる武士たちは,すべて惟栄に従属した。
 
 

●信州北部小県郡一帯の民話
西塩田村にある鉄城山の山頂に寺があり、そこへ毎晩のように通う一人の女性がいた。彼女がどこからやって来たのか分からず、不思議に思った寺の住職は、彼女の衣服に糸を付けた針を刺しておいた。翌朝、住職が糸をたどって行き着いた先は、川の上流にある鞍淵の洞窟であった。中をのぞくと、赤子を産もうと苦しむ大蛇の姿があった。住職は驚いて逃げ出し、出産を終えた大蛇も正体が知られたことを恥じて死んでしまう。赤子は小泉村の老婆に拾われ、小太郎という名前で育てられた。身長は小さいものの、たくましい体に成長した小太郎であったが、食べては遊んでばかりで仕事をしたことがない。14、5歳になった頃、老婆から仕事を手伝うよう促された小太郎は、小泉山へ薪を取りに出かけることにした。夕方、小太郎は萩の束を2つほど持ち帰った。これは山じゅうの萩を束ねたものだから、使うときは1本ずつ抜き取るようにして、決して結びを解いてはいけない、と小太郎は老婆に伝えたが、たった1日でそのようなことができるはずがないと思った老婆は結びを解いてしまう。すると、束がたちまち膨れあがり、家も老婆も押しつぶしてしまった。
※小県は「ちいさがた」であるが「おがた」とも読める。
『信府統記』には小太郎はタケミナカタの化身とあり、谷川はミナカタはムナカタか?と書く。
 
 
●「常陸国記」 鹿袋第八所引
何時ごろの書であるか不明に曰く、として…兄妹があって、田植えをしていたが、日も暮れて遅くなった。すると伊福部神が怒って、妹を蹴殺した。兄が恨んでいると、雌雉が肩にとまる。その尾にヘソ(績麻)をつけて放つと、伊福部丘の神の岩屋へ行き着いた。兄はそこにいた雷神を斬ろうとしたが、命乞いをされて許す。以後、彼の子孫には雷の害がない。
※萬葉集註釋 卷第二に「常陸の國の風土記に云はく、新治の郡。驛家(うまや)あり。名を大と曰ふ。然稱ふ所以は、大蛇多くあり。因りて驛家に名づく。云々。 」とあり、大神(読み知れず)には大蛇が多かったとある。隣県の群馬に大神朝臣の末裔緒方氏がいたと聞く(→下の●群馬赤城山の伝承参照)。
 
 
●群馬赤城山の伝承
「苧環型を唯一伝承しているのは、片品です。赤城山周辺.JPG片品から赤城山の位置は南から若干西に傾いた方向です(地図)。残念ながら太陽が昇る方向ではありません。また古代の遺跡も見あたりません。そこで、もう少し伝承を検討してみました。すると③の赤堀長者の娘の話に、娘の腋の下には鱗があったと伝承しています。このタイプの伝承が、『平家物語』の緒方三郎伝承にあることを、群馬編①で紹介しました。それは、沼田城主が緒方三郎の家系であるとの伝承です。では沼田から見た赤城山の方位はどうでしょう。南東方向に位置します(地図)。沼田から見れば、赤城山はまさに太陽が昇る方位にあるのです。沼田の周辺にも縄文から弥生にかけての遺跡が見られます。しかし古墳の遺跡が見られないのが気になります。私は、この神話は中世においても有効であったのではないかと考えています(佐々木高弘『民話の地理学』古今書院、2003を参照下さい)が、頼朝の時代の、沼田太郎など沼田を中心に活躍をした人物の神話だったと考えてもいいのかも知れません(文・地図・写真:佐々木高弘)。」
http://regionalmyth.seesaa.net/archives/20100430-1.html
 
 
 
 


 
 

大和岩雄は三輪伝説は多氏=阿蘇氏の持ち込んだ伝承とするが、阿蘇から高千穂、祖母山にかけては緒方三郎にまつわる話が多く、それが多氏の伝承であるならば大和大三輪氏と多氏の関係を述べねばなるまい。すると多氏とは天武時代の多品治(おほのほむじ)を祖としてオホタタネコの子孫である大三輪氏の枝族ということがわかる。そして阿蘇氏は持統天皇前後には阿蘇に入り阿蘇国造家となっており、同じ頃諏訪神社大祝(おおはふり)となる神長官守矢氏や宮司・神(じん)氏、戦国時代の金刺・諏訪氏もみな阿蘇氏と同じ多氏系譜となったことがわかる。ただし阿蘇も諏訪もその進入が持統時代になるので、もともとあった多氏系譜を国造として引き継いだ可能性もある。

では、その系譜は遡ればどこにあったかは、大和大三輪氏か、あるいはそれより前の5世紀頃の九州の古墳に見える靫や的をステータスとした日下部にあったかとなろうか。緒方氏や宇佐神宮の大神(おおが)氏が大和大三輪末裔を名乗り、また諏訪の甲賀三郎や泉小太郎も大蛇の子孫であるように、その大元をさらに辿れば宗像神社の海人族安曇・住吉にたどり着くはずである。これらは壱岐対馬や沖ノ島を元とする倭人であるので、天武の伊勢太陽神信仰の形成期には宗像君徳善が天皇の外戚となって宮地嶽神社古墳のような日本第二の長さの大石室を持ち、この頃から宗像神社の沖ノ島祭祀つまり太陽信仰がさかんとなる考古学的時代考証と合致する。
天武・持統時代には、各地で天変地異があり、大地震のあとに大風=台風が起きていると『日本書記』は語っている。そこで持統は阿蘇と諏訪、さらには常陸へそれぞれ多氏つまり大三輪氏の祭祀者を送り込んだ。そのために大和の大三輪伝説が全国に広がったというのがことの起こりであろう。
 
 
 
ちなみに大三輪氏や多氏は多くの工人を持っており、大三輪氏は堺市の須恵器、多氏は鉱山開発が知られていた。末裔に中央には祭祀者神氏、阿蘇氏、日下部氏、また地方には大神氏、緒方氏などがあり、工人には藤内(とうない・ふじうち)などもあるが、この「藤」とは藤ヅルを身に巻いて鉱山の竪穴に下りていた土蜘蛛であり、その管理者にはアジスキタカヒコネの子孫である高鴨氏・葛木氏もある。つまり縄文系が大元で、渡来系工人を率いていた古い氏族であるから、ヤマトが九州より古い、あるいは別系統で同時存在していたであろう。それがたとえば熊本南部の日下部吉見系阿蘇氏ではあるまいか。つまりこれは熊襲系。
 
 
 
 
古くから大豪族になる条件として
1 その身は縄文系海人族なれど
2 半島に南部に往古から進入し(3世紀以前)
3 半島工人を率い
4 在地倭国では縄文系先住者も管理した
 
 
 

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