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中華 1 概論  自然と地域構成

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中華・・・東ユーラシアの一国
その枠組みは南の農耕漁労稲作王朝と北の遊牧畑作王朝との対立関係を基軸に歴史を積み重ねてきた。ゆえに東部ユーラシアという空間の地理的特徴も当然、基本的には中国内地との南北関係をメインにして、北から順に漠北~漠南~華北~江南の四区分で把握できる。
 
 
 
 
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江南・・・日本との関係が中華では最も深い地域である。地理的には秦嶺と淮河(しんれいとわいが)を結ぶ線より北が華中、南嶺より南が華南であるが、東晋あるいは宋の南朝では双方に及ぶ領域となるので、6世紀以前の中華では、華中と華南をあわせて江南(こうなん)と呼ぶのが理解しやすい。
 
江南の北限である秦嶺~淮河間では年間の降水量が800mほどで、これよりも北部の華北では降雨量が減少し砂漠化が著しいし、南部では増加する。この降雨量の差は植生に大きな相違を生んだ。つまり江南は稲作、華北は雑穀である。これに比して日本の年間降雨量は北海道を除いて、ほぼ1000mを越え、水田稲作が中心であるので、江南と気候的に似ていると言える。
 
江南と華北を分けてきた秦嶺~淮河線は、地域の境界線であるのとどまらず、歴史上の境界線をなしてきた。五胡十六国時代や第一次南北朝の頃には、東晋南朝と五胡北朝との境界はだいたい淮河ラインで推移した。
 
 
 
華北・漠北(ばくほく)・・・漠とはゴビ砂漠のことであり、その北側に広がる草原地帯がモンゴル高原である。五胡十六国(実際には二十国ばかりも分立国家があった。十六は便宜的な表現に過ぎない)のうちのいくつかがここに点在し、多くは遊牧の民であるが、農業や交易も行っていた。チンギス・ハンの遺跡である大オルド跡とされるアウラガ遺跡でも小麦・大麦・キビなどの雑穀と、麦作にともなう雑草が出土している。
 
ここで筆者が描き出したいのは、中華が久しく長期政権を作りえないできた歴史の、最大の要因を形成したこの華北や西域との攻防の歴史である。これがあたかもピストンのように周辺諸国へと影響を与え続けたのが東アジアの歴史そのものである。中でも華北の胡、西域の胡諸国は中華王朝最大の強敵であり続ける。その多くはシルクロードの草原地帯を自在に騎馬で闊歩していたスキタイ、トルキスタン、モンゴル民族である。南朝も北朝も、実に彼らの季節による、あるいはエルニーニョなどによった天候不順と不作と不猟による南下侵略によって、翻弄され続けてきたと言っていい。その影響は、3世紀の朝鮮半島や列島に多大な迷惑をかけることになる。また隋・唐時代の同じ理由による琉球属国、半島侵略によって、倭国の白村江敗北も起こった。琉球は周辺諸国の中で、最下位の位置に置かれ続け、いいように利用され続ける。縄文時代からのタカラガイ交易のつながりで、お人よしの琉球人たちは中華を尊崇するべき国家として朝貢したが、中華側から見れば、属国以下の認識しかない地域であった。それは倭国日本もそうであり、要するに海で隔たれて遠隔の諸国は、半島に比べればとって食うほどの脅威も必要のない、埒外諸国に過ぎなかったのである。ただ、それは日本にとって非常に都合のいいことでもあった。常に、半島小国家たちを「援助してくれる」助けになる島国として日本海にしっかりと存在し、中国でさえ倭人を頼りにした曹操先祖すらいた。
 
この分析は、現代日本の東アジアにおけるダブルスタンダードと独自路線を進むためのよき指針となるだろうと考えている。
 
 
 
では次回、漢~宋への流れを扱いたい。
 
 
 
参考文献 廣瀬憲雄『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』
 
 
 
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