『隋書』「東夷傳俀國傳」
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
大意
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
大意
王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大といい、次に小、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。
軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。
大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
大意
大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。
使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
同じ内容部分を『日本書記』から抜粋する。
『日本書記』推古天皇
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作利爲通事。是歲冬、於倭國作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池、山背國掘大溝於栗隈、且河內國作戸苅池・依網池、亦毎國置屯倉。
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作利爲通事。是歲冬、於倭國作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池、山背國掘大溝於栗隈、且河內國作戸苅池・依網池、亦毎國置屯倉。
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。辛巳、唐客裴世罷歸。則復以小野妹子臣爲大使、吉士雄成爲小使、利爲通事、副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝、其辭曰「東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世等至、久憶方解。季秋薄冷、尊何如、想悆。此卽如常。今遣大禮蘇因高・大禮乎那利等往。謹白不具。」是時、遣於唐國學生倭漢直因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟等幷八人也。是歲、新羅人多化來。
『日本書記』「東天皇敬白西皇帝」記事 「天皇」称号は聖徳太子時代にあったか?
●「日出處天子致書日沒處天子無恙」と「東天皇敬白西皇帝」
『隋書』は「天子」、『日本書記』は「天皇」としている。
当然、国書を受けた側の時代に近接した唐の時代に書かれた『隋書』の記述のほうが信頼度は圧倒的に高い。『日本書記』の記事のほとんどは律令制度が完成した天武時代~8世紀初頭の書き手によっており、そのために「天皇」が使われたと見てよい。
『隋書』は「天子」、『日本書記』は「天皇」としている。
当然、国書を受けた側の時代に近接した唐の時代に書かれた『隋書』の記述のほうが信頼度は圧倒的に高い。『日本書記』の記事のほとんどは律令制度が完成した天武時代~8世紀初頭の書き手によっており、そのために「天皇」が使われたと見てよい。
ところが二つの「天皇」文字記録がその後発見された。
ひとつは天寿国繍帳断片にある刺繍文字。『天寿国繍帳』は、推古天皇の孫で廐戸皇子の正妻で あったといわれる橘大郎女が太子死後に作らせたといわれている刺繍である。部分的に鎌倉時代の修復が入っているが、まずは飛鳥時代の様式で作られており、高松塚よりは古い7世紀の作品であろうとされている。そこに「天皇」という文字があるのだから「天皇」という称号は7世紀にはあったということになる。しかし『日本書記』が書くような聖徳太子の頃にすでにあったかというとわからない。ただ「天皇」と「大王」が書き分けられており、使い分けが当時されていたことは、実在性を後押しすることになる。
もうひとつは法隆寺薬師如来の光背銘にも「天皇」とある。
「1979年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』を刊行し、その中で、「薬師如来像は金銅製であるが、その金鍍金が刻字の内に及んでいないことから、鋳造と刻字は同時ではなく、鍍金後の刻字であることが判別された。(趣意)」と発表した。これを受けて沖森卓也は、「(本銘文は)推古朝の製作とは判断できないものであることが明らかになった。」と述べている。
以上のことから、薬師如来像の造像・刻字の年代は7世紀後半、つまり法隆寺の再建時に新たに造像され、その後、追刻されたとの説が有力である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98#.E9.80.A0.E5.83.8F.E3.83.BB.E5.88.BB.E5.AD.97.E3.81.AE.E5.B9.B4.E4.BB.A3
こちらはどうやら後付けのようである。
ただし繍帳にみられるパルメット文と同様の文様は法隆寺金堂釈迦三尊像光背にもみられ、少なくとも天寿国繍帳文字からは「天皇」という呼称は飛鳥時代の7世紀には確かに存在はしていると考え直してもよくなったと言えるだろう。
しかし・・・
では『隋書』が「天子・天子」としているものを、『日本書記』が「東天皇・西皇帝」とした理由はなぜか?あるいは逆に、天皇と書かれていたものを煬帝は天子だと改変したのか?に焦点は向かう。
『隋書』の書かれた時代は唐代であり煬帝がどうしたかは関係がない。それよりも重要なのは、唐の第三代皇帝高宗は、崩御後、皇后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。その崩御は668年12月であるので、天皇称号はこの年のことである。隋書倭国伝(80巻目)は列伝50巻成立636年~以下編入成立の656年の間に挿入されていると考えられる。つまり高宗天皇崩御と諡号授受よりも前になる。だから『隋書』作者はまだ「天皇」の語を未知だったと考える。ゆえに「天子」とするほかはなかっただろう。
高宗と則天武后の時代は、ちょうど日本の天武~持統の時代と重なる。則天武后が皇帝となり、唐という 国名を周に改めた690年に、日本では、天武の皇后が即位して持統天皇となっており、持統女帝は最初の生きて天皇を称した人物になる(天武は死んでから贈られた諡号である)。要するに(天皇の妻としての)則天武后の即位は、日本が女帝を立てて天皇を名乗るには実にタイムリーな前例となったのであろう。中国の儒教観念からはこれまで女性の王や皇帝は絶対に認められないことだったからだ。これで持統は大手を振って天皇となれる。するとそれより前の推古女帝は、対外的に中国にはどうしても知られたくないことだったことがわかるだろう。だから隋からの使節に女帝は対面させるわけにいかないから、隋書には男帝しか登場しないのは当然である。
言い換えれば720年成立の『日本書記』作者は、高宗の天皇称号と中国初の女帝即位を前もって知ることができた立場にあったわけである。だからここぞと持統女帝に天皇を名乗らせた。つまり日本で天皇称号を実際に使ったのは、やはり天武と持統からであって、それ以前にはあったとしても正式呼称ではなく、二つの遺物がもし正真正銘推古時代の作品であったにしても、外国への正式国書に天皇称号を用いたはずはないのだと言うことになる。中国に天皇号も女帝も前例のない時代に、自国の王が女帝であるとか、天皇であるとか大声で言えたはずがない。まして国書に天皇などと書けるはずがないのである。日本史上、自らが女王であると公言して使節を送ったのは3世紀の卑弥呼や臺與だけである。それは儒教的儀礼など知らなかったからできた行為であろう。しかし『日本書記』の時代には儒教的観念で中国が動いていることはすでに旧知のことである。だからこそ「日出る処の天子」を「東天皇」などとしらっと書けたのだ。
まして『日本書記』は完全なる間違いとして相手中国国家が「大唐」であったとまで書いている。これは『日本書記』成立時代を完全に意識した意図的誤謬であり、もしこれを正しいとするならば、遣隋使そのものの有無すら疑わしいことになってしまうわけである。
従って、二つの遺物証拠品の真偽に関わらず、『日本書記』の記述した「東天皇」の称号は虚偽の記録だということになる。
もちろん『日本書記』「遣唐」記事を肯定し、遣隋使などなかったと考えるならば、それはそれで馬子の時代に、推古女帝も聖徳太子もいなかったのだという結論も導き出せるわけである。するとその時代の日本の大王・アメノタリシ彦が蘇我馬子だったとしてもなにも不思議ではなくなるのである。太子なる人物をもうひとつの明日香・・・大阪の近つ飛鳥に追いやって、馬子が遠つ飛鳥の大王だったと言ったところで、かまわなくなってしまいかねまい。みしろそのほうが歴史は整合に見えてくる。そもそもなぜ蘇我氏は滅ぼされねばならなかったについて、『日本書記』には正当な理由等まったく書かれていないのだから。
次回、隋書の隋使節を迎えた方法と、諸外国の方法比較。さらに馬子時代の方法と入鹿時代=乙巳の変での迎賓方法を比較し、『日本書記』の虚偽を追及する。
最終的に聖徳太子やはり不在説を展開したい。