武内宿禰と甘美内宿禰は「うち」の氏族である。
それは内臣(うちつおみ)の代表ということになる。
彼らは紀氏という氏族集団の中で兄弟つまり同じハラカラから出た。
そして「うち」は濁って「うぢ」なのであるが、では「うづ」でもあったのか?
倭直氏(やまとのあたい・うじ)の祖・珍彦(うづひこ)の「うづ」は物部氏の系譜に出てくる「うつ」という集団の欝色雄命 ( うつしこおのみこと )の「うつ」. と同じく渦=生命の再生模様をステータスとした氏族だと考えていい。渦とは例えばある人間の持っている輪廻の姿でもあった。
福島県浜通りにある清戸迫横穴古墳の壁画。先の大地震でかろうじて破壊をまぬかれた。
海人族が古くから移住していた福島の海浜地帯にあるこの横穴墳の壁画には、人物の肩口から彼の魂とおぼしき渦巻きがまるでオーラのように噴出す画像が描かれている。これによって渦こそは世界中で、まずは海洋民族の太陽信仰に伴って始まる、生命の復活、再生の象徴であったことが理解できるのである。
つまり海人族にとって生命の始まりが太陽なら、その蘇りを現すのは渦だった。
渦=内=宇治=氏つまり運命共同体=氏族を永遠につなぐもの、なのである。
であるならば、すぐに理解できるはずだ。
武内の「うち」は紀氏が弥生時代の山背で最初に住まった宇智郡の「宇治」(小倉遺跡)であり、次に住まったおとなりの紀伊郡の深草(深草弥生遺跡)の弥生人なのである。それが次に山背南部内里、宇智郡を経て、大和宇智郡に住まったのだろう。
そしてそこのすべてに紀氏とともになぜか南九州の隼人が隣接して住み、大隅・大住・阿多などの地名が残されたわけである。
これはいったいなぜなのかをちゃんと解明できなければ、武内宿禰という「うちつおみ」の正体はわかるはずもない。
この国にいた海人族にはどういう種族があったか?
それらはまったく別々に独立して動き続けたのか、それとも海のネットワークで常に知識と血脈を共有してきたか、である。当然、後者であろう。なぜなら海と言う危険な交通網を単独では誰も動けない。詳細な海図は常に共有されるものだからだ、つまり海人族はあらゆる民族の中で、最も死に近いところを棲家とする民族だからだ。太陽も、星も、ウミヘビも、より来る精霊も、シャーマニズムも、彼らの中から最も濃い色合いで派生する。
それだけ彼らの先祖達は、はかなく死んでいったのである。それが経験と知識を彼らに持たせた。生命の再生、魂の復元がかなわぬことを彼らは痛いほど知っていた。だからこそ太陽信仰はいっそう輝きを増したのであろう。
南より寄り来るウミヘビと、北から寄り来る白熊は、海路で陸路で出遭う。それを1万年の邂逅、と筆者は感じ取っている。はるかなる大陸のどこかで起きた人類の分岐から1万年後、はらからたちは、この狭小な島国で再会する。そのはかない確率を思え。まるで奇跡ではあるまいか?それは海流がひき起こした運命の奇跡なのだ。ぼくたちはその運命の奇跡が作り出した悠久の歴史の果てに、この世に生を受けた、世界でも希なひとりなのである。生きよ、生きてつなげ、稀有な生命の円環をつなげ。