「隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「隼(はやぶさ)のような人」の形容とも[1]方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも[2](あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA
隼人と関連が指摘される文化
群馬県長瀞西古墳(5世紀前半)出土の鉄鏃の中に、南九州と近畿を中心に出土するタイプのものが見られており(1995年時点で群馬県でも2例が確認されている)、隼人と関連する鏃ではないかとも考えられている。
蛇行剣(豊前竹並横穴郡など多数)。
日向駒 - 『日本書紀』に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『新撰姓氏録』には額田部の先祖伝承で、允恭天皇の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものとの推定もある。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から御崎馬が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、大阪府四條畷市蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類と見られている。」
同上Wiki なおこのWiki隼人記事内容は部分的に、かなり信頼性に疑問を持つところが見える。
Kawakatu追補
京都府南山城郡大住。大住車塚古墳及び大住神社。及び宇智郡。
京都府八幡市内里、内神社。
奈良県宇智郡。
大阪府百済 大住郷
愛知県大住小学校近くの隼人廟
京都府南山城郡大住。大住車塚古墳及び大住神社。及び宇智郡。
京都府八幡市内里、内神社。
奈良県宇智郡。
大阪府百済 大住郷
愛知県大住小学校近くの隼人廟
さて、一般人は鹿児島県人を「薩摩隼人」などと呼ぶことがある。
しかし歴史的に薩摩隼人と呼ばれた隼人族はいない。
大きく大隅半島の隼人は大隅隼人、薩摩半島~霧島周辺の隼人は阿多隼人である。
ほかに、記録では、
日向 宮崎県南部
多褹 種子島
甑 甑島
五島 五島列島
などがあるが、薩摩隼人の記録は一切ない。
薩摩国設置後は、『続日本紀』和銅二年709年で薩摩隼人の呼称が用いられる。
しかし一般的にこの言葉が世間に広まったことはない。
そもそも隼人そのものが大和から名づけられた蔑称であり、その正体は熊襲の中の曽於族である。「そ」が民族名。
しかし歴史的に薩摩隼人と呼ばれた隼人族はいない。
大きく大隅半島の隼人は大隅隼人、薩摩半島~霧島周辺の隼人は阿多隼人である。
ほかに、記録では、
日向 宮崎県南部
多褹 種子島
甑 甑島
五島 五島列島
などがあるが、薩摩隼人の記録は一切ない。
薩摩国設置後は、『続日本紀』和銅二年709年で薩摩隼人の呼称が用いられる。
しかし一般的にこの言葉が世間に広まったことはない。
そもそも隼人そのものが大和から名づけられた蔑称であり、その正体は熊襲の中の曽於族である。「そ」が民族名。
では、いつ、なぜ、どこでそういう言葉が一般に広まったか?
これは鹿児島県民ですら勘違いしている。
幕末~明治時代に西郷隆盛が、明治政府の政策に反発して戦争をはじめ、その悲惨な結果と勇猛さを古代の隼人に重ねて薩摩隼人と呼んだ。それが一般に広まった最初である。
古代の薩摩隼人は、薩摩地域が日向国から別けられて薩摩国になったとき、奈良の朝廷が便宜的に民族名称も分離しただけで、もとは単なる隼人が正しい。その後、藤原仲麻呂の乱のあと、隼人の乱が勃発。このときに勇猛果敢だった大隅隼人はなかなか降参せず、結果的にあまりにも悲惨な終焉の仕方をしてしまう。これが「隼人」名称の全国流布の最初だが、この曽於族はあくまでも「大隅隼人」である。このイメージを、明治政府は西郷らの反骨に重ね合わせ、それから薩摩隼人が定着した。つまり薩摩隼人とは西郷隆盛以後の鹿児島県民の、主に武士のように猛々しく、勇猛果敢・・・鹿児島県民がそうだなどと筆者は一度も感じたことはなく、むしろおとなしく、腰が低く、つましい性格の人が多く、特に祖霊への墓参の回数全国一というのが、彼らの中の江戸時代からの島津藩の持ち込んだ儒教精神を見る思いがある。
そもそも西郷隆盛のイメージも、誤った写真の作り出したところも多く、姓名すら叔父と間違えているので、九州人としては薩摩隼人は作られたイメージでしかないと感じている。
以上、今朝のラジオの投稿に、鹿児島の女性がじぶんたちは薩摩隼人だった、というものがあって気になったので書いておく。
古代隼人の大半は、阿多隼人は飛鳥時代頃には大和へ移住。大隅隼人は奈良時代に全滅してしまう。従って厳密には薩摩隼人という隼人は存在していないと言える。歴史用語に忠実に申すなら明治以後の隼人は本来の隼人ではなく、単に勇猛な薩摩武士である。
これを「心の隼人」と呼びたい。
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