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「みずら」という言葉は、「耳に連なる」の意で、髪の形状を表した言葉とする説が有名である。ただし、全ての研究者が賛同しているわけではなく、みずらは「美面」の意であり、ミは美称であるとする考え(筑波大教授・増田精一説)もある。その考察に従えば、みずらとは、「いい面」の意ではないかとする。おさげ遊牧民であるモンゴル人は、おさげをクク、あるいはケクといったが、これは「いい面」の意味である。チョンマゲが大陸の南方文化に多いのに対し、みずらのようなおさげ文化は、大陸の北方文化に見られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%AB%AA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%AB%AA
「連なる」とか「面 つら」が語源であるならば読みは「みずら」ではなく「みづら」と表記しなければおかしかろう。
芝居の鬘を「かづら」と言い、略して「づら」とするように。
「桂」を「かづら」、葛城を「かづらき」とカナ表記するようにだ。
思うに「つら」とは髪の古い言い方かもしれない。
みづらの確かにあったという物的証拠は古墳時代の埴輪だけである。
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しかもその時代は古墳時代後期の6後半から7世紀のさきたま古墳群などにかぎられており、なんと関東地方の話になる。近畿でも同じことで、せいぜい後期。
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ましてこれなどはまるでユダヤ人である。
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記録にいくらそういう髪型だったと書いてあったとしても、それは記紀以降の人々のかすかな記憶に基づく書き方でしかなく、まして神代などはいつの時代に設定してあるかもわかったものではない。
それを百歩譲って弥生時代だったとしたところで、記録以外に古墳時代の埴輪以前になんの証拠もないわけである。古墳時代なら物的証拠はあるが、それ以前には記録もあるはずもないし、まして考古学的にもなんらの物的証拠もありはしない、
謎をとく鍵はいつの時代であろうが物的証拠と動機である。ほかになにがあろうか。双方の一致しか説得力ある論理はないのだ。歴史研究家は記録がないといい、考古学者は物的証拠がないと言う。両方がそろえばそれは事実だったのである。それが謎解きである。どっちも否定するような意見はもちろん妄想である。主観でしかない。主観はしょせん科学を論理的に支配できない。論理なき謎解きもありえぬ。妄想はいくら重ねても小説でしかない。ドキュメントの名を借りたエンターテインメントでしかない。推理には必ず推理のあとづけが必要なのだ。あらゆる知識を駆使するためには自分の抱え込んでいる妄想は必要ない。それは論理なき主観=空想でしかない。納得を得られない、ただのSFである。それはただ、面白ければいいだけの思いつきでしかない。そんな論理では大向こうは絶対に納得しない。もしそれで納得する人がいるならば、その人々は妄想家の烏合のやからでしかない。話にならぬ。山師の小説ファンである。証明しようと言う努力をはなから捨去ったやからである。そおようなものは歴史研究から今すぐに去るべきだ。
するとこういう仮説も成り立つ。
みづらが確実に日本人の高貴な男性の髪形であった時代は、どう遡っても考古学的には古墳時代末期の飛鳥時代を遡れないと。象徴的な人物で言うならばそれはせいぜい聖徳太子の時代である。
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しかし聖徳太子の絵画の、姿かたちも、それが描かれたのは太子が死んだ後の、飛鳥時代のずいぶんあとのほうであるので、たいした一級証拠品にもなりはしない。そもそも太子は作られたイメージであり、むしろ当時は少年がみづらを結っていたことの証拠品にしかならない。問題は大人である。
◆倭人伝のどこに「みづら」と書いてあるのか?
3世紀の客観的に倭人を描いた中国の魏志倭人伝には、
「男子皆髪は、木綿を頭にかけ、その着衣 は横幅の広いものを、ただ結束して相連ね、縫うことはない」
とある。この一文のどこにも「みづら」などとは書かれてはいない。どこにも一言も書かれてはいないのである。
ここに「みづら」とあるなどと言っているのはhttp://www.geocities.co.jp/Bookend/6743/katudo09/kami.htm
など少数サイトでしかなく、そんなものは嘘である。みづらは「角髪」などと表記するはずだがここには「髪」としか書いてはいない。
原文を当たればこうである。
男子皆露紒、以木緜招頭。
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これを訳すと、
「その風俗は淫らならず。男子は皆「露紒」し、木綿を以て頭に招け、」
で、一般によく音読される「ろかい」ではなく「ろけい」であり、そうした髪形が間違いなく「みづら」であるかどうかなど、まったく決められないわけである。
「紒」の音はWeblio辞書によれば「ケイ」である。だから「ろかい」や「ろしょう」ではなく「ろけい」と読むのが正しい。
読み:ケイ、 ケツ、 ケチ、 カイ
訓読み:ゆう、 むすふ、 むすぶ
で、訓読の意味は「結う」でしかない。
だから「露紒 ろけい」とは「露にして結んだ」である。
この文字は角川の「新字源」糸偏の項目にない。つまり当て字か相当古い用例になる。
「露紒」の意味は「なにもかぶらないで結んでいる」であり、そのあとの「木綿を頭に招け」とは鉢巻のような布を巻いているという意味である。それは後世でも朝鮮人の風習である。
つまり倭人伝のどこにも一切、倭人男子の髪形を古墳~飛鳥時代の、長髪を真ん中で分けて左右を巻いたいわゆる「みづら」のような髪形だとは表現しておらぬのである。いったいどこからこの倭人伝の一文から「みづら」などという大和言葉を上記URLサイトは導き出せるのかがまったく理解できない。
つまり3世紀、いや弥生時代以前の倭人に「みづら」型の髪形などまだないのである。
ではそれは何を語るのか?
みづらなる髪形は古墳時代、それも中期以降しかないのである。縄文時代にも弥生時代にもないと判断せざるを得ない。では古墳時代のどの年代なのか?それは確実なのは終末期飛鳥時代前期つまり6世紀~7前半以後となる。それが記紀の神代観の正体である。つまり言い換えると、どんなに譲っても雄略以前の知識や時代観で記紀は書かれていないということになるわけであろう。
はっきり言おう。
『古事記』『日本書記』の神代とは6世紀なのである。
『古事記』『日本書記』の神代とは6世紀なのである。
天皇を「すめら・みこと」と呼んだという記録も記紀が最初であり、本当にそうだったかも不明である。「すめら」がシュメールだというのもあながちありえなくはないが、その時代は神代~弥生ではなく、古墳時代・飛鳥時代だからこそ信憑性は出てくる。なぜなら飛鳥時代には黒人もイラン人も飛鳥に来たからだ。それらはすべて中国から下賜された百済経由であり、グローバルな蘇我氏と皇極女帝だったから起きた。筆者はそれがなかったとは言ってはいない。飛鳥時代ならありえると時代を限定できるからだ。
したがって日本の古代のはじまりは、記紀は雄略~飛鳥時代を神代としていると見てほぼ間違いないだろう。
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