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南九州墓制分布図でわかる神話の真実

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久しぶりに書き込みます。
と申しますか、近頃、すっかり歴史への興味を失っていて、そろそろこのブログへの書き込みはジ・エンドにしたいかなと。
 
で、今は情景写真と情景・叙情詩の組み合わせ記事にはまっている。
数日に分けて切り取ってきた、ばらばらな巷のひとこま、季節の画像をコラージュし、文章をコラボレーションするのが楽しくてたまらない。
なにしろ罪がなく、肩が凝らない。
 
ここなどは、もう疲れるばかりで一銭にもならず、骨折り損ばかりで、つらいだけ。
 
ほっときたいのが本音。
 
もちろん、またいい知識に出会って、いつまたどこで引き出しの中にしまったものとが組み合わさって脳内花火に引火するとも限らないけれど。
 
 
なにしろほっといてもすぐに100万アクセスという「更新終了数値」にはいずれ近いうちに行き着くだろうが・・・。そのとき、やめるのか、あるいはたまに何か爆発したときだけ書き込んでいくのかは、そのときになってみにゃわからない。
 
 
 
 


 
 
 
 
イメージ 1
内倉武久 『熊襲は列島を席巻していた』2013より編集
 
 
 
 
この図のタイトルは「熊曽於族の古墳分布図」と内倉は命名しているが、それはやや間違っている。
 
どうせ言うのなら「熊襲」は「球磨・曽於族」で、彼らの地下式横穴や板石積み地下式横穴墓は正確には「近畿中心の考古学」では「古墳」とは言いにくい。
 
それはさておき、内倉の熊襲・隼人分析が用いている考古資料や文献資料の各論は、ほとんどが筆者が過去、ここに書いてきたヒントと重複している。偶然の一致であろうが、ほとんど同じ部分から南九州氏族に切り込んでいる。武内宿禰の内の氏族、紀氏海人族との関連性、海の道、広田遺跡、済州島などなど、ほとんどすでに筆者がここで扱ってきた同じ分析があふれている。
 
ところがまったく違うのが、鹿児島県出身の内倉にとっての熊襲・隼人は列島を席巻した実力者であり、日本全土に彼らは独立した王国を築いた狗奴国(くとこく。このよみ方も筆者仮説と同じ)であったということであろう。Kawakatuは熊襲はヤマトタケル=多氏によって管理され、多氏王家をとともに列島を北上していった内の王家の家臣団となったのだと考えている。
 
 
さて図に前方後円墳のある地域を紫色で示してみた。
この前方後円墳は、南九州の阿多君や曽君(あたのきみ・そのきみ)が大和からやってきた支配者層に帰順した証拠になるのだと、近畿考古学が言うだろう。それに対して内倉は当然反発する。Kawakatuはそのとおりだが、そもそもその支配にやってきた人々とは南九州から近畿へ移住し、近畿の先住王者となっていたところを、あとから来た北部九州由来の渡来系氏族によって王権の共有を迫られた人々・・・それが紀氏・内臣氏らである、と考えている。微妙に違いがある。
 
かつて狗奴国は列島を席巻していた・・・は正しい。
 
 
さて、薩摩半島には弥生時代の甕棺墓制がわずかに存在する。薩摩半島の西海岸、つまり開聞岳のある側・・・矢筈岳のある頴娃(えい)の地域である。旧揖宿(いぶすき)郡と言い換えてもよいか。この揖宿は、あの指宿とは違う。温泉で有名な指宿は薩摩半島南端南側海岸になる。
 
 
そして揖宿の頴娃は、かつての隼人の乱の首謀者に関わる地域であるから、揖宿郡と指宿のあいだにはどかんと立派な枚聞神社という中央権威の象徴が置かれてある。当時の神社は=監督官庁である。分かりやすい。
 
 
この甕棺墓がどこから来たのかというと、近畿考古学では当然、北部九州天孫族の祖先が南下して熊襲をやっつけて・・・となるが、実際は中国から直接きた可能性も否めない。しかし支石墓もあるので、朝鮮半島からも来ていることとなるので、まずは北部九州の東西から、景行天皇のような渡来人が熊襲の船と鉄を求めて軟化し、婚姻したと考えたほうがわかりやすい。地下式墓という隼人の墓の人々と、甕棺、支石墓の人々が「かささのみさき」のある地域に・・・である。
 
その天孫降臨神話を、もし北部九州に置き換えてしまうと、高千穂や日向地名はまあ一致する場所は見つかるけれど、困ったことに「笠沙御岬」地名は北部九州には見当たらなくなってしまう。だから「日向の高千穂の」は宮崎県北部の高千穂町ではなく、霧島の高千穂山にしておくほうがよい。なにしろ地名も姶良だから姫の名前と一致する。
 
 
 
地下式横穴墓は実は中国の山東半島の紀元前3世紀前後にも存在する。つまり熊襲とか隼人の前身たちは、”対面する”山東半島とのつきあいが、たぶん紀元前3世紀頃にはあった、と言ってよいだろうと思う。
 
イメージ 2
 
 
 
 
山東半島には例の曹操の先祖の本拠地があったわけで、そこに「倭人は同盟して来てくれるか」と書かれているレンガが出ているのだから、当然日本人の往来は1世紀前後からあったことは間違いがないのである。それはどうやら縄文時代の後期までに完成していると見られる。とまり隼人とか、久米とか言われた南九州の人々は
、安曇等の北部の海人族が半島を往来していた時期までに、すでに華北、漢との交流を持っていたと見てまず間違いなかろう。
 
 
 
言うならば、九州における南北の民族の相違は、そのまま近畿地方では東西にそっくりそのまま時間がずれて移動した気配がないとは言えないのである。つまり神話が言うニギハヤヒの先行、神武の後追い、のようなことが起きた可能性はあるわけだ。
 
 
紀氏になるような南九州の内の氏族=多氏に連れられてやってくる曽於族たちは、ヤマトの先住氏族を形成し、吉備を経てヤマト盆地西南部の葛城や紀ノ川周辺にいたのだろう。また物部氏や和邇氏らのように盆地東部の山の辺界隈の小高い丘陵地にいた氏族も先住者である。そして湿地だった中央部は墓場と祭祀場であり、そこには多氏がいたのだった。祭祀者は水辺に住む。再生の神が蛇だからだろう。その蛇の信仰は海人族と縄文と出雲と琉球の共通アイテムだった。
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
 

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