◆九州年号一覧表
注;
●武蔵国造の乱とは(Kawakatu加筆・解説)
「 『日本書紀』 (巻十八安閑天皇元年閏十二月の条)の記載によると、笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)と笠原直小杵(おき)は武蔵国造の地位をめぐり争っていた。安閑天皇元年(534年)、小杵は上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おぐま)の力を借りて、使主を殺害しようとした。使主は大和朝廷に助けを求め、小杵を破った。
「 『日本書紀』 (巻十八安閑天皇元年閏十二月の条)の記載によると、笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)と笠原直小杵(おき)は武蔵国造の地位をめぐり争っていた。安閑天皇元年(534年)、小杵は上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おぐま)の力を借りて、使主を殺害しようとした。使主は大和朝廷に助けを求め、小杵を破った。
この結果、使主は大和朝廷から武蔵国造であることを認知された。使主は横渟(よこぬ)、橘花(たちばな。橘樹郡)、多氷(たひ)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐(くらき)郡。)の4ヶ所を屯倉として朝廷に献上した。
敗れた上毛野国(太田天神山古墳)と、武蔵南部(荏原台古墳群)の力が弱くなり、勝利した武蔵北部(埼玉古墳群)の力が強くなったとする説がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1
これは記録どおりなら明らかな関東中央部を巡る内乱である。しかし筆者は筑紫国造磐井の乱との連動をこれに見る。
あたかも将門・純友の乱にも通ずるような、両(旧)王家からの反駁である。旧王家と書いたが、当時の日本に於いて筑紫と武蔵は大和と並立した実力王家だったと見る。これこそが正しい多元的国家観ではなかろうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1
これは記録どおりなら明らかな関東中央部を巡る内乱である。しかし筆者は筑紫国造磐井の乱との連動をこれに見る。
あたかも将門・純友の乱にも通ずるような、両(旧)王家からの反駁である。旧王家と書いたが、当時の日本に於いて筑紫と武蔵は大和と並立した実力王家だったと見る。これこそが正しい多元的国家観ではなかろうか?
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●一覧表で使われている史料の時代と概略
『海東諸国紀』・・・李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%9D%B1%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E7%B4%80
『海東諸国紀』・・・李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%9D%B1%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E7%B4%80
『如是院年代記』・・・三国一覧合運を基として後小松天皇以後の寺伝等を加えた年代記
『麗気記私抄』・・・21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/pdfman/get.php?id=54
解説不明
解説不明
『襲国偽僣考』・・・鶴峯 戊申(つるみね しげのぶ)作の歴史考察書。
天明8年7月22日(1788年8月23日) - 安政6年8月24日(1859年9月20日)豊後国臼杵藩出身)
江戸時代後期の国学者
倭人の邪馬台国などの倭国は記紀の熊襲であり、卑弥呼はその国の女酋(女首長)であるという。また熊襲の国を襲国といい、その元号の痕跡が『麗気記私抄』、『海東諸国記』、『如是院年代記』などにあるとして、九州年号としてまとめた。しかし、これらが金石文として出土した例はなく、一般には後世の偽作と考えられる。
天明8年7月22日(1788年8月23日) - 安政6年8月24日(1859年9月20日)豊後国臼杵藩出身)
江戸時代後期の国学者
倭人の邪馬台国などの倭国は記紀の熊襲であり、卑弥呼はその国の女酋(女首長)であるという。また熊襲の国を襲国といい、その元号の痕跡が『麗気記私抄』、『海東諸国記』、『如是院年代記』などにあるとして、九州年号としてまとめた。しかし、これらが金石文として出土した例はなく、一般には後世の偽作と考えられる。
一覧表を見れば一目瞭然、これらの年号を書きとめた元になる資料とは最上段の『海東諸国紀』であり、これは李氏朝鮮時代(成立1471)に書かれた朝鮮の史書なのである。
またおそらくこれを下敷きに造られたほかの三つの記録も、日本の江戸期のものである。
つまり史料として新しいものであることは念頭に置かれたい。
つまり史料として新しいものであることは念頭に置かれたい。
ついでに言っておくが、古田親派(シンパサイザー、一般にシンパ)はネット上に、上記史料がどういう経路で作成された史料であったかを、ちゃんと掲載しておくべきである。古田が用いたからといって、それをいちいち当たるでもなく、右から左へ流用しているだけでは、正論かどうか以前の問題になってしまい、損であろうと思う。『麗気記私抄』、『如是院年代記』に関してはWikiすら解説がないのだから、ネットを使える愛弟子がいるなら早速すべきである。今回、Kawakatuが一応付録として解説をつけては見たが、『麗気記私抄』だけは解説が一切なく、苦労した。
史料を使って九州年号の実在を証明するなら、引用する史料そのものの信憑性、来歴、成立年代は論考に不可欠であるのは当然。論文内で扱っていたとしても、今はネット時代。ちゃんとネットで広めるのは大切なアイテムである。
史料を使って九州年号の実在を証明するなら、引用する史料そのものの信憑性、来歴、成立年代は論考に不可欠であるのは当然。論文内で扱っていたとしても、今はネット時代。ちゃんとネットで広めるのは大切なアイテムである。
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さて、九州年号をなぜ李氏朝鮮時代の宰相だけが記録に留めたのだろうか?国内では正式にこれを認めて残した記録はいっさいなく、江戸期の研究はすべてこの『海東諸国紀』からの孫引きだと言える。引用が一定でなくまちまちなのは、彼らがいい加減に写したからだろう。
この元史料は「1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、(李氏王の)成宗(ソン・ジョン)の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。」もの。ということはこれは朝鮮にとっても日本にとっても公式記録である。
とにかく公式な朝鮮国王の使者である、しかも宰相という身分のものが、日本側の正式な為政者から聞き取って書かれた正史である。
そこには
「「竊かに観るに、東海に国するもの一つに非ず。而も日本もっと久しく、且つ大なり。その地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接す。其勢い甚だ長し。其初め處々保聚し、各自国をなす。・・・(中略)・・・猶、中国の封建の如し。かつて統属せず。習性強悍にし、剣槊に精し。」
とある。
「「竊かに観るに、東海に国するもの一つに非ず。而も日本もっと久しく、且つ大なり。その地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接す。其勢い甚だ長し。其初め處々保聚し、各自国をなす。・・・(中略)・・・猶、中国の封建の如し。かつて統属せず。習性強悍にし、剣槊に精し。」
とある。
●15世紀の日本の版図が正しく記載
この部分は15世紀の日本国の版図を、朝鮮側の宰相が公式に記録したもので、現在の領土問題にとっても非常に重要な箇所である。
この部分は15世紀の日本国の版図を、朝鮮側の宰相が公式に記録したもので、現在の領土問題にとっても非常に重要な箇所である。
残念ながら竹島はここには載っていない。
であるにも関わらず、なぜ日本側にその記録が残っていないのか?では朝鮮の質問に答えた日本側の王家・王族あるいはその宰相はいったいどこの誰だったのか?ということになる。それが時代的に15世紀だったのだから、足利義政が将軍職に就いたまさにその年である。では足利家が答えたのか?それとも天皇家か?さて?
それを古田は大和朝廷でも足利家でもなく、大宰府に残存していた九州王朝の残党だったとしたいのであろうか?
この時代、大宰府政庁は12世紀の大宰大弐に就任した平清盛によってすでに博多に移動している(今の櫛田神社あたりか?)。理由は日宋貿易の至便性のため、湾岸部に動かされたのだ。その後中世になると武藤氏(のちの少弐(しょうに)氏)に代替わりし、南北朝の混乱で二転三転ののち少弐氏に回復するが、戦国時代には大内氏が統治した。李氏朝鮮から遣使がやってきた1440年頃となるとまさに南北朝動乱時代の真っ最中で、ちょうど北朝がやぶれて太宰に逃げ込んだ時期である。
1443年(嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる、といった動乱期である。九州は結局南朝の支配下に入るのだが、ちょうどその端境期で、おちおち朝鮮使節団が博多にとどまれたかどうかもあやぶまれる。相手にさえしてもらえなかったかも知れない。
とすれば平安京へ行くしかない。となる。
ならば李氏宰相申 叔舟(シン・スクチュ)が情報を得た場所は平安京であると思われる。わかることはここまでだ。
そして帰路、彼らは対馬に立ち寄って対馬宗氏との間にあの嘉吉条約(かきつじょうやく)を締結している。
そもそも、古田がこれを九州年号であるとする根拠となるべき、申 叔舟自身はこれが九州年号なのか、大和年号なのかを知っていたのだろうか?
「『海東諸国紀』に収録された九州年号は次の通りである。比較のため、対応する『二中歴』の九州年号を( )内に記した。なお、『二中歴』には「善記」の前に「継体」があり、これを最初の年号としているが、『海東諸国紀』など他の九州年号史料に「継体」は見えない。
「善化(善紀)」「発倒(教到)」「僧聴」「同要(明要)」「貴楽」「結清(法清)」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接(賢稱)」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴(告貴)」「煩転(願転)」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳(なし)」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和(大化)」「大長(なし)」
なお付言すれば、申叔舟はこれら九州年号を九州王朝の年号と理解していたのか、大和朝廷の年号と理解していたのかという微妙な問題があるが、この点については別に詳述したいと考えている。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou61/kai06101.html
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ここで問題となってくるのが鎌倉時代の『ニ中歴』という書物である。
◆『二中歴』所収「年代歴」
にちゅうれき【二中歴】
「百科全書的な書物。平安時代末期に三善為康が編纂した百科全書《掌中歴》,および同類の《懐中歴》をもとに,《簾中抄》《函中抄》などを参照して編成された。書名は《掌中歴》《懐中歴》の2書を基礎に作られたことに由来する。内容は,事物を部門別に分類し,解説を加えたハンドブック的なもの。編者未詳。また成立年次も明らかでないが,鎌倉時代初期と推定される。今は伝わらない《懐中歴》や《掌中歴》の欠失部分の内容を推定できる注記が多く見られる。 」
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4
◆『二中歴』所収「年代歴」
にちゅうれき【二中歴】
「百科全書的な書物。平安時代末期に三善為康が編纂した百科全書《掌中歴》,および同類の《懐中歴》をもとに,《簾中抄》《函中抄》などを参照して編成された。書名は《掌中歴》《懐中歴》の2書を基礎に作られたことに由来する。内容は,事物を部門別に分類し,解説を加えたハンドブック的なもの。編者未詳。また成立年次も明らかでないが,鎌倉時代初期と推定される。今は伝わらない《懐中歴》や《掌中歴》の欠失部分の内容を推定できる注記が多く見られる。 」
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4
ここに九州年号が出ている。
「問題の九州年号は第二帖 最初にある「年代歴」冒頭に記されている。・・・以後、近畿天皇一元論者はこの所論考をもって九州年号後代偽作説の根拠としてきたようである。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou30/koga30.html
「問題の九州年号は第二帖 最初にある「年代歴」冒頭に記されている。・・・以後、近畿天皇一元論者はこの所論考をもって九州年号後代偽作説の根拠としてきたようである。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou30/koga30.html
しかしながら『ニ中歴』には平安時代の種本としての『掌中歴』があるので、大和学派が言うような九州年号は鎌倉時代で新しいから、あとからの仮冒であるという論拠も怪しい。しかも先の『海東・・』も室町時代である。
だが結局のところ、史料としては平安時代をさかのぼる九州年号の記録はないままである。
だが結局のところ、史料としては平安時代をさかのぼる九州年号の記録はないままである。
従って、これをもって古田のようには、筆者は古代から九州年号があって、それが九州王朝の証拠となるとは言えないと判断せざるを得ない。ほかの証拠をまさぐってみよう。
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