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藤原純友の乱 1

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藤原純友は中央貴族だった藤原氏の、それもかなりの身分の出である。
それが、なぜか伊予の三番目の地位の地方官吏として派遣されている。
このあたりは実は非常に大事なことであろう。

純友が平安京に向かい、海賊の頭領として侵略したのは、平将門の関東での決起と呼応しているはずである。その証拠に、将門が殺されるやいなや、純友は軍艦を引いて、伊予日振島に舞い戻っている。


皇室中心主義の体制に不満を持ちえたのは、関東の田舎ものだった平氏よりも、実は体制の中心にあった藤原氏の、末端や中枢にこそ他出するのである。仲麻呂しかり広嗣しかり悪佐府・頼長しかりである。皇室体制の実態を誰より知って、誰よりも憂えているからこそ、つまり知識人だからこそ、憤懣は表出して当然である。


実際、茨城の田舎武士だった平将門には、そもそも朝廷に逆らおうという思いはまったくなく、ただ帰国したら親の在所をすべて、腹違いの伯父らに占領されていた不満から立ち上がっただけで、あとは流されるままに、民衆の中央への反感が彼をして関東の大魔王にしていっただけだったのに、純友の影響で、徐々に、将門も中央の既得権益にまい進してゆく政治体制のばかばかしさに自意識を高揚していっただけだったのであろう。


そもそも中央藤原氏の、それもかなりのよい家柄の出自の純友が、なぜ伊予の守でも介でもなくジョウだったのか、にもかかわらず、侵略を開始したとたんに天皇が彼を従五位下という上級官位を与えたのかというところに、天武~平安まで不安定な天皇支配体制は見えすぎているのである。要するに、平清盛が出現するまで、古代から、この国の中央集権などは有名無実なものだったのだ。


朝廷などと歴史では習い、まるでそれが卑弥呼の時代から奈良時代を経て、平安時代までながながと存続していたなどという既存大和中心主義史観そのものが、実は純友の乱によって、「んなものうたかたの夢」であったことを証明しているのに、史学中心論理は、あくまでもそれを認めたがらないのである。

すべてがつながっていたとしたほうが、大和にとって都合がよく、『日本書記』史観に整合だからだったからにほかならない。それが歴史の教科書の書き方なのである。



純友の翻意に対して、中欧が伊予に送り込んだ新しい守=知事は紀氏であった。紀氏はそもそもが紀州海人族の元締めだったのだから、瀬戸内海人族にもその素性は聞こえていた。だが純友は、その紀氏の伊予守たちが止めるのも振り切って「われは巨海に漕ぎ出す」と言い残して、広い海原へつきすすみ、瀬戸内海人族海賊の盟主となった。紀氏のなかで四国の知事となった有名人には、あの紀貫之がいるように、紀氏は古代に帰順してから、そのように地方海岸部の官吏としてしか存在を得ていない。聞きたくないことかも知れないが、紀貫之は、左遷された土佐へ出向き、期間を終えて京都へ帰国するときには、すでに70代。記録では、瀬戸内の海賊によほどおのののいていたらしく「最大の恐怖は海賊だ」と書いている。なぜなら、当時の中央派遣の官吏は、任務地に於いて搾取するだけ搾取して金銀財宝やらを抱え込んで船で帰京するので、襲われるのが最もこわかったのだ。しかし、左遷されたものとしては、赴任先で財を肥やして帰国し、おちぶれたわが氏族のためにそれを使うのはこれまた当然でも在った。


海賊はそれらを狙って私腹を凝らすしかほかに生きる算段もなかったのである。
それはひとえに中央帰属社会が腐っていたからにほかならない。平安中期から清盛までの時代、貴族世界は政治と言ってなにもしておらず、ただただ天皇にこびて私腹を肥やし、既得権益だけにまい進していたのだった。これでは武家の反発がおきぬはずがない。


源平藤橘(げんぺいとうきつ)の武士氏族の中で、源平はどちらも天皇を祖としたが、藤原氏と橘氏はただの貴族で、宰相家でしかない。しかし藤原氏があれほ多く子孫や、うそにせよ「藤」姓子孫を持つ理由は、その権力のためである。

ちなみに関東藤原氏の祖先を筆者も持ってはいる。けれど、関東武士はその素性も怪しく、どこまで本当かどうかは疑っておくほうがいいと思っている。純友も、また将門が助けた藤原玄明(はるあき)も、国家の倉庫を襲い略奪するような野党である。武士などはそもそも、そういう賊徒から出てくる、いわざ地回りのやくざのような存在である。そんなものにどのようなほまれがあろうとも、所詮は山出しの田舎ものでしかなかった。知恵を働かせて、たとえば仏教門徒のように天下御免の荘園を持つという悪知恵がなかったら、それは中世と呼べるような時代の代表選手には決してなれないやからでしかなかったのである。


西欧における騎士と武士の違いは、あちらがもともと貴族だったのに対して、こちらはその貴族にはなれなかった落ちこぼれ=階級制の敗者だったのである。ただの官僚の用心棒だったに過ぎない。だからこそ、ハングリー精神は地方開拓者として独自で歩き出すしかなく、つまりは在地農民と同化して平民の縄張り守護者となるしか道はなかったのである。


純友は海賊の長となることで、中央政権の腐敗に鉄槌を打とうとした。



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