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藤原純友の乱2 意外な真相? 純友と修験道と秦氏

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そもそも将門・純友の乱についての記事は『将門純友東西軍記』『将門記』『神皇正統記』『本朝世紀』『扶桑略記』「和漢合図抜萃」「元亨釈書」「古事談」『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」 『摂政忠平宛将門書状』など多数の史書・書簡の断片記事をまとめることで歴史的事実だったことにされている。「東西軍記」のような軍記には多少の誇張やひいきがあるが、『扶桑略記』は一応、六国史の解説本なので信憑性は高いと見られるし、書簡はもちろん彼らが本当に存在していたことの証拠になる。ただし、なにぶん記録は後付で書かれるので、どうしても謎の部分が出てきてしまう。
藤原純友の乱については、このように始まる。


天慶2年12月(940年1月)腹心藤原文元に備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹を襲撃させる。子を殺害し、妻を略奪し、次に摂津を襲う。備前、播磨をまず襲ったのは、京への最短コースだった淀川ルートの確保のためと考えられるので、純友の平安京占領計画は間違いなく計画されたことだったのだろう。

これが藤原純友の乱の発端になった。朝廷は翌天慶3年(941年)に純友に従五位下に叙すことで、懐柔策として乱を抑制しようとした。その際に文元にも官職(備前介)が与えられたという。天台座主・義海は同年8月には石清水八幡宮以下の十二社に文元らの討伐を祈らせている(『日本紀略』)。

純友の副将には、系譜がまったく不詳の藤原恒利(つねとし)なる人物がおり、結局、最後に彼が大将純友を裏切って朝廷側に、秘密基地だった伊予宇和島の沖にある日振島の場所を教えたばかりか、恒利自身が乗り込んで一味を灰燼に帰していて、そのほうびで中央で官職をもらっているのだが、その後、恒利自身の消息はまったく記録から消えている。伝承では鳥取、備前の池田氏の祖となっているけれど、そうした地元の伝説はもちろん後世の付会である。純友にもそうした後裔伝承を持つ氏族は多く、英雄にあやかろうというものであまり信憑性はないだろう。

そもそも、藤原純友自身の出自にさえ、藤原北家子孫を否定するものがたくさんある。栄耀栄華を極める道長以来、平安時代の藤原氏は、もうあまりにも子孫が多くなって、諸派・諸流、妾腹、落胤、勝手な血縁自称まで入れていけば、いくらでも自称、他称は可能なのである。将門の助けた藤原玄明にしても、明玄という実在の藤原氏人物から作り出された想像人物かも知れないのである。

そこで純友よりも恒利を中心に、彼らの出自を系図にしてみたら、おかしなことに気がついた。

藤原鎌足-不比等-房前(北家祖)-冬嗣 
これが純友の出自であるという藤原北家の最初の構造になっているので、ここから始よう。

冬嗣から分かれて三系統は
冬嗣-良世-恒佐-懐忠-邦昌-邦恒・・・
-長世-遠経-良範-純友(七男)・・・
-良仁-恒実(長男)
-有実(次男)-保家---恒正--恒利?まったく不明。もともと海賊だともいう。

「恒」という文字がついている者がいる系統と純友の系譜である。
恒利の祖先については名前の一文字からのまったくの想像でしかない。貴族の名前は、武士とは違って、あまり諡号の送り名習慣にはとらわれていないようである。してみるとどうも、藤原恒利なるものが中央藤原氏とどう関係があったのかは疑わしいとせざるを得なくなるのである。また純友自身も、北家直系の冬嗣系譜であったかどうかも、どうも疑っておくほうがよいかもしれない。北家直系子孫が伊予のような地方官吏の、しかも三番手の掾(じょう)だったというのも、そのほうが納得しやすいだろう。

純友が、実際には伊予水軍の越智氏出身だった可能性を言う説もある。

なによりもこの系図を正しいと見ると、純友と恒利の存在年代が三代以上も離れてしまうのである。そこで冬嗣のもう一分流である良世の息子・恒佐(つねすけ)に「恒」の文字を発見。彼は別名を「土御門大臣」とも呼ばれており身分も上位にいる。北家にはふさわしい地位で、しかも陰陽師土御門を別名に持っているわけである。実は恒利系譜の祖・有実は兄(恒実)がいて次男なので分家である。その子供に保家(やすいえ)という人がいるが、この藤原保家で検索するとまったく別人の藤原氏の人物にたどり着いてしまう。それが持明院保家だった。この人物はなんと土御門家を主とした人である。

さてここで寄り道して、土御門とは例の安倍清明のような陰陽師集団の長である。藤原氏が中臣神道の一派から出たことはつとに知られるが、その中臣神道というのはもともと、中臣氏が従属してきた物部神道の分派だと言ってもいい。奈良~平安時代に、神道は仏教と混交していくわけだが、そこから生まれたのは新羅系密教の渡来民間信仰である修験道だ。

そこではたと気づいた。
四国宇和島から遠くないのが豊前英彦山である。

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ここの開祖は忍辱(にんじょく)という伝説的始祖であるが、又の名を「藤原恒雄 ふじわら・かんゆう」といって、継体天皇時代に英彦山を開いたとされているのだ。しかし英彦山のはじまりは不明で、いつの時代から始まったかはよくわかっていない。英彦山にはもともと聖地が原始信仰の聖地があったらしいが(縄文時代の遺跡もある)、修験道としては865年、宇佐法連という、これまた伝説的人物(豊国法師か?)がここを再興させたと言われ(「英彦山縁起」)、865年に従四位上を受けた記録がある。階位を受けたのは公式記録なので、9世紀には間違いなく開山されていたのだろう。その後11世紀になって中興された。純友と恒利という乱の首謀者がふたりとも行方知れずになってしまったのが900年代中盤で、英彦山の再興から中興までの間のすっぽり不明な100年間がちょうどここに相当してしまうのだ。

あとはご想像に任せたいが、英彦山にはもともと、秦氏の祭っていた豊前香春岳の神である天忍骨命(あめのおしほね)を祭る廟があったとも伝承がある。今は英彦山神宮祭神は天忍穂耳命で、その名前は実によく似ているから、同一神だろうとすでに筆者は著書にも書いている。

そもそも豊前・筑豊・豊後は秦氏の多かった土地柄であるので、修験道の開基に秦氏もかなり関わったことは想像に難くない。香春の神の息長帯大目にせよ、豊姫にせよ、三つの神を祭る八幡・宗像系祭神様式は玄界灘~伊予灘~豊後水道を基点として、瀬戸内経由で大阪住吉神社までを原初の範囲としている。これは四国大三島信仰の大山積=越智水軍・村上水軍の神・・・を中継地として海人ネットワークの祭る形式である。純友が本拠地とした宇和島海は豊後水道に面して、非常に水流が速く、冷たい海で、さらに大三島のあるしまなみ海道もこれまた島々が多く連なり、水流が狭い島の間を走り抜ける航海危険地帯で、隠れ家にするには宇和島は非常に要衝である。記紀ではそれを「はやすなと 速吸瀬戸」と表現している。その名前の姫が、愛媛県宇和島の対岸である大分県佐賀関半島には祀られている。

純友らが隠れ家にするには宇和島は最高の立地である。そしてこの宇和島周辺佐多岬周辺が今も漁師たちの大事な居住地であったり、四国唯一の伊方原発があることなど、古代から少々やっかいな人々の住まう地域だった・・・つまり修験者や原始信仰や渡来人や秦氏には深く深く関わった地方だということも大事なことになるだろう。

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平将門の伝説は実際にあった史実を元にやや誇張した軍記ものであるが、藤原純友の話は、筆者はどうも出来すぎた、彼らのような貴種伝承を持ちたがる職能民特有の眉唾話が基礎に潜んでいる気がしてきたのである。


少なくとも、英彦山のような山深い高山なら、その後の純友らが隠れ住み、修験道に隠れ蓑を求める場所にはふさわしかろう。継体天皇が滅ぼした筑紫君磐井も、豊前に隠れたと風土記は書いていることだし、豊前一帯に秦氏の古墳や遺跡は蔓延している。そればかりでなく隼人や安曇の伝説の、ここは宝庫である。




ちなみに、香春岳すぐそばにある河内王古墳のある鏡山は、「梓弓 あずさゆみ」の歌を額田王女の母・鏡女王(かがみのおおきみ)が詠んだ場所である。「あずさゆみ」とは往古の巫女の鳴らした琴弓のことで、つまりかんなぎ、シャーマンの大事な神がかり、憑依の道具だった。要するに鏡の巫女とは卑弥呼のようなシャーマンのことになる。日振島の名前も、「日=太陽」と捉えてみたら面白くなる。灯台のようにかがり火で船を誘導したというのが由来であるが、とりもなおさず、それは光りや明りで誘導するものの島と言う意味である。



次回、関連で、『源氏物語』「葵」の「照日の巫女」の持つ梓弓及び、『風姿花伝』「秦河勝神楽の祖」の部分、さらにスサノヲ=牛王権現すなわち動物解体のセンミンの隠語か?をくみ合わせて、民間信仰の奥底にある被差別と血の匂い、祭祀と穢れを明らかにする。乞うご期待!



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能葵上に登場する梓弓の弦(つる)を鳴らして六条御息所の生霊を 呼び寄せ、生霊の思いを口寄せする照日の巫女。ひきよせ、口寄せたのは葵の上の悪鬼の精の生霊であった。



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世阿弥は、能葵上で、いったいどのような幽玄を導き出そうとしたのか?それは女の怖ろしさか?あるいは後戸に隠れたスサノヲ牛王権現の本性か?

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