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珍説『日本書記』 逆転の不比等作文術/天武と劉邦・持統と卑弥呼・天智と天忍穂耳


これから、不比等には天皇など誰だってよかった、馬に関係しておれば、を書く。
馬とは厩戸、馬子、鸕野讚良に共通する騎馬系渡来人の名前である。そこにキリスト生誕伝承を混ぜ込んだのは秦氏だろう。


あくまでもざっとしたものの見方であるが、『日本書記』編纂者たちが当時、ある程度の過去の知識を持っていて、それらをつなぐ時間帯の知識だけが失われていたとする。
そういうことは歴史上充分にあり得ることである。

するとどうしても日本史を書こうとすれば、忘れられている時間枠の加工編集は編纂者の自由になる。誰も知らないことだからだ。問題はコラージュすべきエピソードの、1いくらかは誰もが知っており変更できない事柄、2うろ覚えだが全大和氏族たちがだいたいは伝承してきたエピソードで、脇役は変更できそうなエピソード、3まったく忘れられている事柄、などにあらかた分類できる。それらを貼り合わせてつなげれば一応の史書の体裁は整うはずである。あとは細かい部分のすり合わせをすればいい。地方の氏族はもちろん大和地方での出来事など知っていたはずもない。そもそも『日本書記』『古事記』などは、大和・畿内の一部氏族しか知らない、地方伝承の貼りあわせでできている。

藤原某という人物が『日本書記』を作らせるさいに、最初に自分たちに操縦しやすい大王を作り出すための最適の方法をどうするかと考えていたとする。そしてそれが対外的にも認めてもらえる「東アジアの中の日本正史」でなければならない。



すると藤原某はまず「誰でもいいから操縦しやすい傀儡王をピックアップ」し、それに都合のいい先祖をつむぎださねばならない。

具体的には当時の飛鳥という田舎の町では有名な美女である鸕野讚良姫(うののさららひめ・実態は渡来系馬飼い氏族の娘か?鸕野も讚良も大阪の馬牧の名前である。また馬が出てきた。聖徳太子・蘇我馬子・鵜野は馬に関係が深すぎる)という高貴な?女性を引っ張り出してくる。しかし彼女には当時のせまい飛鳥の豪族内部に、これは正当だというほどの家柄がない(それまで大した実績もない息長という海人交易氏族である)祖先しか持っていなかったとする。

藤原某たちは「自分たち氏族の正当」のために、まずこの女帝の正当性が必要である。そこで日本最古の、中国王朝が認めた日本女性は誰であるかと考える。するとそれは魏志倭人伝の女王卑弥呼である。持統が女性だから当然、前例も女帝、女王でなければならない。では、そのどうみても大和の王家とは関係がなさそうな書き方をされた卑弥呼を、いかに、日本最初の王は女性だった。それが三国志の勝者・魏皇帝によって認められ、その子孫たちがちゃんと現在の大和の鵜野讃良につながるように系譜を作成することになるだろう。

まず親、夫、祖父・祖母、親戚一同、その先祖である皇祖となる人物の、卑弥呼から直系であるかのごとき遠大な氏族系図とエピソードが必要になる。


父、天智大王という人がおり、われわれ藤原氏の大元である鎌足と二人で、前の王家の飛鳥王家から天命によって天智が王となる必要がある。天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみことという名前の空想の人物である。この人も馬で狩に出かけてのちに死んでいるのである。この人物は白村江での大敗北という大チョンボがあったとされ、それを消してしまわねばならない立場がある。これを「われかつあかつ」の繰り返しと筆者は言っている。あめのおしほみみのみことの名前である。

さらに夫は、その天智の正しい血脈で、さらにできたら中国の伝説的国家樹立者とよく似た人物に仕上げることも重要だろう。それはできれば漢の高祖・劉邦のような人物に仕上げたい。つまりどこかしら天智とは違った出自をにおわせる農民出自でもいいことになる。なぜなら劉邦がそうだったからだ。劉を名乗って漢の正嫡であるかのように劉邦は描かれたが、ただの一地方役人でしかも貧しい農民出身である。それがクーデターによって後漢を復活させ、いっかいの亭長から高祖にまで出世するのである。天武イメージにもそのクーデターが必要である。それが壬申の乱である。

『日本書記』には天武が吉野逼塞前に語った言葉がある。

「若し仕へて名を成さむと欲ふ者は、還りて司に仕へよ」

劉邦はこう言った。
「公等皆去れ、吾も亦此れより逝らむ」。
高祖は国の亭長だったから県令によって「り山」で始皇帝の墓を修復せねばならなかった。だが役夫たちは途中で逃げ出してしまう。そこで豊県の沢中にとどまり、馬から下りて酒を飲み交わし、方策を練った。夜半に残りのすべての役夫を開放し、「みなここから立ち去れ。わたしは決断した」と述べた。

天武も劉邦も追いこめられた状況で、ほぼ同じことを口にし、開放したことになっている。あきらかに決然と立ち上がる前の行動が二人は一致しているのである。(遠山美都夫『天武天皇の企て』2014)
すると敵味方を作り出さねばならない。かたき役と味方役を、当時の実在の人物からより分ける作業がはじまる。さすがに記紀直前のできごとなので、まったくうそは書けないのだから、クーデターとまではいわずとも、似たような政権抗争さえあればよい。

しかしそれが絶対に王朝転覆であっては困る。日本の王家はこれまで一切断絶もなく引き継がれたことにしなければ、最初の卑弥呼の正当性の意味がなくなってしまうからだ。

おそらく実際には弥生末期のどこかにあった邪馬台国を首都にする女王国などなかった可能性は十二分にある。魏が作り出した夢の女王国という発想である。

魏は三国の争いに勝ったとは言え、まだ全土に充分な政治支配の基盤を持っていない。すると誰も知らない外国がいくつか、その権威を知って貢献に来たと書いてみたくなる。隣国では誰でもうそに気づく、海外の未知の国家ならちょうどいい。そこが野蛮な女王シャーマンという一世代も二世代も前の政治組織であることは非常に都合がいい。そう考えた結果、朝鮮の記述はざっと書きなぐったものなのに、倭人のことだけは異常な丁寧さと、丁重な人物の扱いをしてあり、東夷伝中異例のかきっぷりになった。充分に行ってきて、見てきて、われらは知り尽くしているのだという書き方が必要だ、なぜなら呉や蜀は、まだ実際には完璧に敗北しておらず、広い国土にいくらでも残存勢力が潜伏している。それが中国という大陸国家なのである。

そこで倭人の中心地は呉越のすぐそば東側であり、いつでも彼らは攻め込めると思わせる位置にある必要があるわけである。呉の真東は琉球あたりになる。すると倭へは、南へ南へ行くという書き方しかなくなるのである。


一方、『日本書記』編纂者はそれを受けてこう考える。卑弥呼は女王だ。その次の臺與も女王だ。あいだに男王が何人かいたことは間違いない。では鸕野讚良の前にも女帝の前例が必要になる。そこで推古、皇極、称徳らが登場。そしてそれらすべての女帝正当性をさらに強めるカリスマ的巫女王が必要=神功皇后。限りなく卑弥呼によく似たシャーマン女帝で、朝鮮を征服して大国家のきっかけを作った強烈なイメージの肝っ玉かあさん、要するに大地母神のような人で、さらに強力な神通力を持つ子孫を生む必要もある=応神。その応神の王権がたとえ現在新しく差捏造しようとしている女帝一家と、なんらの関係もない別の王家だったとしても、墓の形さえ同じにしてしまうえばよい。それが前例のない巨大なものであれば、なお応神やその子の神通力をさらにイメージアップしてくれるだろうとなる。

実に都合のいいことに、「宋書」には倭五王という倭王のいたことが書かれていた。応神からこっちを倭王だったことにしてしまえば、次の飛鳥がそれを受け継ぐように書けば問題ない。

そこで倭五王と飛鳥王朝の間に、鵜野や神功皇后の先祖としての息長氏直系の継体大王が差し込まれる。応神の血脈だけ受け継いで、気になる反駁勢力である尾張氏の立場も立てつつ、その血脈には消えてもらえばいい(安閑・宣化の死)。また倭五王の系統と飛鳥に関係がないことがばれたときのために、倭王の終末の王をふたりほど、それはそれはめちゃくちゃな乱暴者だとしておけばよい。中国にもそういう書き方をされて政権奪取された前例は山ほどあるから問題ない(雄略・武烈)。

手の込んだごまかしかたをさらに加えて、直系は何通りかあったことにしてもよい(ヲケ・オケ)。


さて、次に飛鳥の前の王家にもなにか悶着をつけて、転覆してもいい理由が必要(蘇我氏三代)。それがさらに前の、実に小うるさい大和の縄文勢力の王者を殺してしまうことにしよう(物部守屋)。そのためには物部氏という縄文人には、そもそも祖神(ニギハヤヒ)の時代から似たような帰順征服事件があったことにすればよかろう(長髄彦の反乱とニギハヤヒの帰順)。そしてシャーマンとして強力だった守屋=大物主さえ手名づける聖者には、あとから祟られないように、丁重に正式に二度の改葬をさせた上で、しかも滅ぼしたのは蘇我氏だけでなく、守屋に匹敵する聖者を作り出し、二者が殺したことにすれば「目には目を」「祟り神には祟り神」だし、雄略のように暴走したアンチ仏法者=破戒者=大物主=長髄彦=先住王家=スサノヲなので滅ぼしていいという理由付けにもなる。そしてその聖者(聖徳太子)にはしばらくあいだ、幽閉も必要だ=夢殿の中の包帯巻きにされた救世観音)。ほとぼりがさめたらこの人物をタイミングよく祭り上げて、国家の聖人にしてゆけば祟りもなくなるはずだ。


じゃあ、その聖人一家を蘇我氏が滅ぼしたことにもしてしまえば、いよいよ鎌足と天智の名声は高くなり、うまくいけば天智こそが倭王の高祖とすることも可能である。
ついでにクーデターでそれを倒した天武も後漢の高祖のような農民からのなりあがり者と思わせるような書き方をしよう。そうすればのちに天智血脈が復活しても違和感はあるまい。ならば結果的に持統女帝とは天智の娘にしてしまおう。その先祖には息長氏の媛を突っ込んで、大嘘の祟りも薄めてしまいたい・・・。



さて、問題は、それ以前の歴史だが、そんなものはもう誰も知りはしない。怖いのはこれまで消えていった前王家のいくつか(吉備王・筑紫王・葛城王など)と列島東西の先住民王族の恨みつらみである。それらすべてがかつては王家の外戚だったことにしてしまおう。さらに筑紫は間違いなく大昔の王家だったが、それも筑紫君という子孫を継体という、朝鮮の三尾氏の子供に殺させてしまえばいい。それで息長の系譜を長期的には気づかれないように系譜上から抹殺していくこととしよう。もともとなかった血脈なのだし、息長氏などはそもそも小さな商売人(中国秦始皇帝の子供・胡亥と同じ「貴貨おくべし」伝説の商人・呂不韋の前例利用)なのだから、文句は言えるはずもない。所詮、海人族などは利用するだけ利用すればよい。いや、それとも尾張や大分君や丹後・丹波なんかももう海部職を与えて名誉職にしてほめ殺しにしておいたらいいわい。いい記録を書いてやって、代わりに人質と神器をとりこにしておけば、当分は反発できまい。そうだ出雲に押し込めた縄文先住民の野蛮で遅れた時代の神々も、そうしよう。でかい神社で蓋をして、中には造化の神を置けば祟り封じになる。さらに真北にスサノヲ、真西には蘇我馬子でも置いて目には目をにしてしまえ。変わりに祭祀権限は縄文人にまかせてやろう。

おお、日向が残った。でかい大古墳群を作らせておけ。五世紀風に作らせろ。今ある墓地の一番いいところをこぼって、前の墓は撤去して五世紀風の前方後円墳を二つおけ。それが阿多の先祖の神武の女房とか、天孫だとかしておけば文句は言わん。


ああ、これでやまかましいやつらは全員封じ込めることができた。しかも藤原氏も万全だ。なに?紀氏や葛城・大伴・物部残党らをどうするか?

そうだな、紀氏・大伴は軍事氏族で祟らないから当分左遷して要職からはずせばいい。葛城は先祖をクローズアップしておこう。それが蘇我の先祖でもあり、紀氏の先祖であるとしてしまえば一石二鳥だ。

なに大和の国魂氏族たち?
王だったことにしておこう。そうさな、崇神とか名前もちゃんとさせてな。ヤマトタケル?尾張氏の伝説か。悲劇のヒーローにしてしまえばよい。さらにタケルは残虐な人殺しにしておくといい。尾張氏は出雲・熊襲に恨まれ、崇神~景行といった地方の王家の野蛮さが象徴できる。

さあて神武か・・・。
九州が先に大和に来たことにして置こう。あのうるさい中国系の連中の対面も保てるし、半島人は中国人には文句は言えないからな。先に来たのはうちだと言うようなら、秦部によって暗殺させればいい。神のたたりだったとしておけば全員黙るだろうさ。もちろんそれが秦の暗躍だと知れば、なおさら口をつぐむしかない。いろいろしゃべれば、今度はわが身が消させるからな。はっはっは。




といった具合で『日本書記』完成。不比等ばんばんざい。持統初代天皇となり、それ以前のことに口を挟むことはタブーとなるはずだ。聖徳太子はうちの娘と聖武さんが鎮魂する。それも持統さんと天智さんがやったことに一部しておけ。なにしろ、あの残虐ばか息子めは、勝手に百済を援護して大失敗したまぬけ王だから、相当立派に書き換えてしまわねばなるまい。墓も藤原京の真北に作り直して皇帝だったことにしてしまおう。なに?親父の墓?それはこの私が改葬し、毒殺とわからぬようにしておくから安心せよ。何?前の古墳の中身は?そんなものは勝手に作って入れておけ。そもそもあの死体は親父のものじゃないじゃないか。あれは百済王になりきれなかった豊璋ちゃんのむくろだ。父鎌足などいなかったことは内緒だ。そもそもこの不比等こそが鎌足だ。父親はただの北関東の田舎のシャーマンだったに過ぎない。だからうそのおわびに神宮を建てておけ。名誉ある大神宮だ。そこから春日山に祖神を分詞したことにすれば親父も浮かばれる。


あああ、そ、それから守屋大聖人の神社も建てて蝦夷どもににらみを利かせておくことも忘れるな。あの蚊のように小ざかしい異民族をたたく聖人だから香取と名づけよ。当家の神宮のほうは「かしま」にしよう。多氏に祭祀させろ。あれはわが同族だ。人が足りない?阿蘇から行かせよ。阿蘇氏でいい。変わりに阿蘇氏には多氏子孫も名乗ってよいと伝えよ。安麻呂たちが生きている?じゃあ、殺しちゃえ。砒素飲ませて徐々にな。そして墓誌を入れさせよう。ちゃんとした死だったことになるからな。多氏大宮司にはこう伝えよ。「今後、おまえたちの祖神は「みしりつひこ」と名前をつけよ。意味がわかるな?知っていたとて、何もしゃべるなという意味だ」

「豊前の秦氏に中臣・藤原の神社を冷水のそばに作らせよ。八幡神とせい」


豊前の畑冷泉のそばにできあがった神社の名はこういうものであった。



「嘯吹八幡神社 うそぶきはちまんじんじゃ」




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すぐ近くに草場邑、赤村がある。草場邑は中臣邑である。
そこに秦氏女性の墓がある。すべては秦氏が作り上げたでっちあげの古墳だろうが、
呰見(あざみ)大塚古墳といい、「あざむく」ための墓という名前がついている。
被葬者は女性で阿射弥勝布施売(あざみの・かつ・ふせめ)と推定できる。「勝」秦氏の村長の尊称ゆえ、彼女は秦人である。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/folder/1605207.html?m=lc


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赤村には天智天皇の伝承がある牛頭山(ぎゅうとうざん)がある。祭神・我勝吾勝天忍穂耳尊で「あかつ神社」という。よほど天智には勝った勝った、本当は勝ったと宣伝する必要があったのだろう。忍穂耳とは要するに天智の実態であり、「あかる」からここは赤村となり、それを演出したのは当然「勝」の氏族であった秦氏であり、そのフィクサーこそは竹内宿禰を祭らねばならなかった大和朝廷最初のドンであった藤原不比等であるに違いない。

八幡である意味は、東の蝦夷封じ・物部封じ・長髄彦=縄文人封じの鹿島・香取神宮同様に、南の蛮族隼人封じとともに、そこが古い筑紫から出た中臣氏を宣伝しておくための広告塔。実際に草葉の陰で泣いているのは葛城氏氏族であろう。隼人から出た葛城一族。それが中臣の裏切りの歴史であることは祭神武内宿禰がおかれたことで明白である。中臣も蘇我も実は葛城氏族の部民だったのかも知れない。だから天武も実はただの海人族だったかも知れないのである。そうなると、日本の天皇はやはり持統女帝が最初で、その前はただの部民であるという妄想すら生まれかねなくなる。

「仁科濫觴記」に、天武のことを 皇極太子とした記録がある。天智・天武が実はまったく存在せず、ほかの女帝のモデルになった可能性すらある。天武が劉邦から、持統が卑弥呼から創作された人物であるとすれば、天智・鎌足も当然、いなかったという推測は成り立ちえるのではないか?





とりあえずは


「これにて一件落着」



不比等の背中に花吹雪は舞い散るのだった・・・。

うそで固めた日本古代史のお話。
おあとがよろしいようで。












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