多氏(おお・うじ)はある意味、秦氏よりも謎の多い氏族である。
どこから彼らが大和に来て、どうして大和で祭祀者として根付き、どうやって『古事記』を編纂することになったかということも、まだ充分にわかっていない。また、彼らの分派氏族がなぜ北関東や九州や信州などに拡大して行ったか、なぜ天武天皇の最重要な騎馬氏族となったかなど、史学では一向に明確にならないまま、ただ時が過ぎている。
多氏といえばまず太安万侶(おおの・やすまろ 養老7年7月6日(723年8月11日)には、奈良 時代の文官と記録)ということになる。そしてその父であろう美濃の多臣品治(おおの・おみ・ほむじ 7世紀後半の人)が知られている。安麻呂はもちろん『古事記』編纂で、品治は天武壬申の乱で、それぞれよく知られる存在である。
だが、この氏族のほかの人名をよく知る人はそうはいないだろう。
多氏は太氏、意富氏とも表記されて記録に登場する。読みは「おふ」つまり「おお」である。久安五年(1149)の「多神宮注進帳」によれば、安麻呂は表記を「多」から「太」に改めるとある。
しかし子孫はやがてまた「多」に改めている。宝亀元年(770)10月23日以後のことだ。
少なくとも天武壬申の乱の頃には父・品治の姓は「多」となっている。
祖神は神八井耳命(かむやいみみのみこと)である(『古事記』『日本書記』『新撰姓氏録』に共通)。安麻呂はその十五代であるとされている。また安麻呂から51代目が現在の多神社宮司の多忠記(おお・ただふみ)である。
これ以後の人名をこれから列挙するが、これ以前は神話的な伝承の名前しかわからない。古族多氏の子孫は、意富(おふ)臣、小子部(ちいさこべ)連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部(さざきべ)臣、雀部造、小長谷造、都祁(つげ)直、伊余國造、科野国造、道奧石城(みちのくのいわき)國造、常道仲(ひたちのみちのなか)國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。
●『日本書記』景行12年九月
多武諸木(おおの・たけもろき)
●『古事記』神武天皇記条
意富~至島田臣全19氏族
●「多氏系図」
第五代多臣祖 武諸木(たけもろき)
第十三代 宇気古(うけこ) 子=多品治 孫=太安万侶
多品治、子は太安万侶、道万侶、宅成、遠建治(をけじ)。
太安万侶、遠建治、國吉、徳足四代、太氏を名乗る。
●『日本書記』斉明七年(661)九月
中大兄皇子、長津宮において、百済義慈王の子余豊璋に織冠を授けて、多臣蒋敷(こもしき)の妹を妻とさせる。宇気古=蒋敷(和田萃説)
●天武十三年(683)
十二月十三日
多朝臣を賜る。
●続日本紀
多(太)朝臣犬養
宝亀元年10月23日以降、犬養は「太」から「多」朝臣に変更。
●日本後紀
多朝臣入鹿(いるか)、同じく人長(ひとなが)
●続日本後紀
多朝臣、
多朝臣清継(きよつぐ)=もと百済連清継
●日本三代実録
貞観元年~(859)多臣宿禰自然麻呂(じねんまろ)
貞観八年~(866)太朝臣貞長
●『新撰姓氏録』
多朝臣追加氏族として
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
山城国皇別 茨田連 - 茨田宿禰同祖。彦八井耳命の後。
摂津国皇別 豊島連 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。
摂津国皇別 松津首 - 豊島連同祖。
河内国皇別 茨田宿禰 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。同条では、子に野現宿禰の名を挙げる。
河内国皇別 下家連 - 彦八井耳命の後。
河内国皇別 江首 - 彦八井耳命七世孫の来目津彦命の後。
河内国皇別 尾張部 - 彦八井耳命の後。
大和の飫富(多)郷に茨田(奈良県田原町満田)と秦庄(奈良県田原本町秦庄)の地名。また河内国茨田郡に幡多郷太秦。
熊本県人吉、球磨郡の草部吉見に彦八井耳墓所あり、九州の神八井耳後裔氏族とされるが、『新撰姓氏録』の記載ではのちに多氏に編入された氏族と見られている。
阿蘇氏・諏訪氏。これも後世、多氏同属と主張しているが不明。阿蘇氏の祖神は神八井耳の子孫であるので、最古からの同族とは考えにくい。
つまり古代氏族には、後世になって婚姻、あるいは氏族派遣によって取り込まれた地元氏族も同族とされた例が多く、それは政治的なものだった可能性が高い。たとえば、持統天皇が阿蘇に派遣した阿蘇氏・諏訪氏などは、本来、多氏直系だったかどうかは判断が難しく、『新撰姓氏録』追加後裔氏族などもそうであろうという。
和田あつむは、筑紫三家や大分、火などの国造も、もともとは中央多氏とは無関係であり、歴史的事件後に吸収され組み込まれた氏族と書いている。
多氏の神武直系母方子孫伝承自体が、そもそも大和祭祀者が九州起源であることを言えばそれに従うだろうという付会である可能性もある。
筆者は多氏を出雲意宇郡から吉備の氏族だったと見る。谷川健一の地名解釈では「あお」は「青」で、そもそも墓場地名である。墓所となる場所を姓名にする氏族はつまりは往古は祭祀者、シャーマン氏族だったということが言える。また色彩の「青」が往古は青色以外に黄色も指していて、それが硫黄などが酸化して生じる色彩に起源があるとも思え、青・黄・緑などの色は、生命力の色彩であることから、多氏はもともと祭祀者で間違いはなく、生命の再生をうながす意味を持った名前であると考える。
のちに太安万侶らが「太」の文字を使った背景には、同じ祭祀者渡来系氏族である秦氏などへの組み込みがあって、太秦に習って改名したかとも考えうる。だからといってでは多氏=秦氏と早計に決め付けるのは間違いであろう。当時の氏族が多くの氏族と同族となるのは政治的に当たり前であり、それは氏族を大きくするための手法である。同族化は時代を追ってなされるため、記録上、あとのものにどんどん追加氏族が増えてくる。それをもともとからの同族だとするのはおかしい。平安遷都前に婚姻関係を持った藤原氏と秦氏の関係を、では同族と主張する研究者がどれほどいるだろうか?そうしたやや乱暴な論調は、結局は氏族というものの本体を見極めるには邪魔になることのほうが多い。
古くから多氏筆頭とされてきた小子部氏と、あとから追加された茨田氏では、当然、「同族」としての度合いに差があるはずである。「ちいさこべ」が体の小さい、鉱山関係者であると判断できるけれど、茨田氏は堤を築く土木氏族である。
多氏が多神社の祭祀者として登場することと、岐阜の騎馬隊軍人だった多品治とがどこでどう結びつくかは重要であるし、その多氏がやがて九州に派遣され日下部などの靫負軍団とどう結びついたのか、それが九州の装飾古墳とどう関与するのかなどなどは、今後も不明のままである。
多くの後世の同族化譚や、派遣によった家臣団への編入の歴史をまずはそぎ落としていかねば多氏の実態は見えてこないだろう。婚姻によって同族となったからそれらがみな同じ仲間だと考えるよりも、逆に、中核の実態へと細分化して区分けする科学的分析がなされるべきであり、それはそのほうが随分と大変な作業である。安易な着想でずべてが同じだったと考えることに、まったく氏族分析の意味はない。
むしろ細かく区別して、注進である多氏にのみ着目してゆくべきである。
氏族分析を科学へ発展させるには、そうした細分化しかありえないし、そもそも科学とは細分化する学問なのである。十把ひとからげにくくってしまうのは確かにわかりやすいし、しろうと受けするだろうが、それではミステリーでしかなくなる。ミステリーにしてしまえば、なんでも空想が成り立ってしまう。客観性や多くの苦労をいとう歴史小説のやり方でしかない。
多氏は今後も多くの伝承をそぎ落とし、顕微鏡的にインナートリップすべき氏族である。
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