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古風土記 成立1300年


かつて史学では、風土記は「低い山」と言われていて、研究するものが少なかった。では「高い山」とは何かと言えば『万葉集』である。これは文学界でも同じで、風土記では教授になれないから万葉集をやりなさいと権威学者たちは学生に勧めてきたのである。しかし、それでは歴史は文学かということになってしまう。日本では歴史学を文学部に置く風習があるが、やればやるほど 感じるのは、史学は科学であり、理化学的な知識が必要なのだという痛切な思いである。

いや、そもそも日本の文学というものが、はなから主観的で、まったく分析科学ではありえないので、はっきり言って大学に文学科などあっても意味がないはずなのだ。それは哲学科や宗教学科で扱うほうが本来、いいかも知れない。文学部でも言語学などは科学的であるが、そもそも文学などという学問(西欧的近代分化科学の一環として)が大学には必要がないものだとすら思う。自分が文学部の国文科出身だから、なおさらそう思うのだ。

風土記を低く見て研究対象外にしてきた文学者や歴史学者は、いったい、日本の文学部を科学に発展させる努力を怠ってきた怠け者だとすら感じる。


もっと目から鱗が落ちることを申すと、

国文学や国史学が風土記だけでなく六国史の中のあらゆる地誌として重要な記録に、充分に目をむけ、さらにそれを受けた日本の地理学、地震学などの科学部門がちゃんとその貴重な記録を解析し、日本政府にそれなりの忠告をしてきていたなら、先の大震災と津波におけるさまざまの人災、原発事故などもすべて起こらなかった可能性が非常に高い。つまり日本の大学の科学すべてが、文科系権威の怠慢に始まって引き起こされ、理科系権威たちもまた、日本でしかあり得ない話だが、文科系権威の明治時代から間違ってきた西欧科学=大学という基本の基本をそのまま継承してきており、教育委員会などの古い権威主義と体制の中の文科系>理科系の考え方に、多くの理系学舎も頭が上がらなかったがために、このような世界に大恥をかくことになる大災害を引き起こしたのだ、とすら言えるのではなかろうか?

大学は、一から西欧分化科学を見直し、すべての大学体制をゼロからはじめてしかるべき大犯罪の張本人である。それをマスコミはもっととりあげておくべきだった。
日本の対外的国策や対内的政策の駄目さの根底に、教育そのものの西欧からの受け取り間違いがあることを認識しておきたい。





風土記とは
「広く地誌一般をさすこともあるが,文学史では和銅6 (713) 年の官命に基づいて編纂された各国別のいわゆる「古風土記」をいう。
内容として,郡郷の名に好字をつけること,郡内の産物を具体的に記すこと,土地の沃瘠 (よくせき) ,山川原野の名の由来,古老相伝の旧聞異事を記すことの5点が要求されている」https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98-125439#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8

「風土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす[1]。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。」WIKI風土記

※古風土記以外に、時代によって編纂された新風土記もあるが、ここでは扱わない。


『続日本紀』にその条件がある。

  1. 郡郷の名(好字を用いて)
  2. 産物
  3. 土地の肥沃の状態
  4. 地名の起源
  5. 伝えられている旧聞異事

当初、提出されたものは風土記とは呼んでおらず、資料としての「解 げ」となっていた。それを編集して書物にしたものを初めて風土記という。

「写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る[4]。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。」Wiki風土記


各国の古風土記と逸文のある地域
橋本雅之編『風土記研究の最前線 風土記編纂発令1300年』より
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イメージ 1
まったく逸文にすら出てこない地域ある。
その地域の人々は、なぜそうなのかも考えてみては?
偶然、火事で消えたのでしょうか?
それとも歴史的・政治的理由があって消されたのでしょうか?
あるいは古代にとって、意味のない場所だったのでしょうか?
気になりませんか?気にしてください。
それが古代史の入り口です。





1 九州風土記
九州では「豊後国風土記」と「肥前国風土記」のふたつの古風土記が残っているが、これ以外に豊前や筑前や筑後風土記の逸文が、各記録には引用掲載がある。これらをひっくるめて甲類とし、それ以外に別途編纂されている「筑紫風土記」逸文を集めたものを乙類に分類しており、九州ではこ二種類の風土記が別々に作られたと考えられている。つまり中央が提出させた国風土記以外に、地元用?の風土記が並立して作られた。

ひっくるめて「九州風土記」というが、おしなべてどれも、『日本書記』内容にあまり矛盾のない、準じた内容でできあがっている。


風土記と『日本書記』の関係には諸説ある。

1 風土記が『日本書記』に影響した
2 『日本書記』が風土記に影響した
3 もっと古い原資料があり、それが両者に影響した

の大きく三説が存在する。
小島憲之は、九州の場合、「『日本書記』の文章を参考にした甲類を基として、乙類が生まれた。」とする。
関和彦・井上通泰は1説であるが、井上が「甲類本は往々日本紀に引用されて、乙類はさらにその日本紀の影響を受けている」と述べ、関は「甲乙両風土記が『日本書記』に影響を与えた」とする。

言えることは、甲類本は『日本書記』の影響を受けつつも、独自の立場を明確にする場面が多く、北部九州が概して、中央のいいなりになって政治的・国家信仰の統一的側面に素直に準じていなかった可能性を示唆していると言える。そのことについて橋本雅之は、風土記が地誌であり、『日本書記』が史書であるという立場の違いが大きいとするが、筆者はそれだけではなく、敗者としての北部九州が、中央によって完全に掌握され、支配下に置かれ、海部や国造の一角に放置されることをよしとしない反駁心が筑紫旧勢力にあったためではないかと思え、それは出雲などともよく似たところがあるとも見えるのである。


2 『出雲国風土記』
記紀国譲り神話における天孫から送り込まれた天菩比(あめのほひ)神が、風土記地名説話にある屋代郷楯縫(たてぬい)記事にある「天夫比(あめのふひ)と布都怒志(ふつぬし)」の神が云々について、天菩比=天夫比であり、経津主神=布都怒志であると考えられている。 アメノホヒとは一見、中央支配体制側の神に見えるが、事実は出雲出身者であって、しかも縄文系氏族であると筆者は見る。またフツヌシは物部氏の神剣の御霊の名前であるから、これはやはり縄文系物部氏によって在地系アメノホヒを監視させた形式かとも見え、その原型を、記紀「大物主神話」に求めることができそうである。国譲りで、オオクニヌシは同時に大和大物主がその幸魂として登場するわけで、両者はちょうどホヒとフツヌシの相互関係にリンクしている。また大和で大物主は神やらいされ、それを鎮魂するものとして大三輪氏の祖であるオオタタネコがこれを勤めることになっているが、これもまた二者によるけん制関係を意味している。

さらに、天照国照彦天火明櫛玉饒速日の帰順では、ニギハヤヒが長髄彦を抑えている王であるに対して、そこへ九州南部から神武がやってきて、一方だけを殺させてニギハヤヒを天孫と認めつつも帰順させる。このニギハヤヒ=物部=大物主と考えると、これらは目には目をの自主規制を喚起させる構造になっている共通の話だと考えることが可能である。

つまり出雲には、考古学的にも日本海の東西から民族が交流しあう、そういう「海の八街」的な場所であり、当然、遺跡には東北縄文、九州弥生の双方が同時に存在し、共栄圏であっただろうと思え、それをさらに第三者として神武的な勢力が別途畿内で国家を成立させると、これを支配にやってくる話であると見て取れるのである。


神武を、九州北西部にある中国系遺伝子や、甕棺文化、船文化の継承者と考えると、こうした複数の西から東への移住者集団が何度か動いて、そのたびに民族のピストン運動が起こったが、大陸とは違い、さらに東の海の先に島も大陸もなかった日本では、しかたなく帰順や懐柔によって和合する共立国家しかなかったことが見えてくるのである。



つまり出雲は支配されたというよりも、中央を助けてやるしかなかった、というなんとも白黒のはっきりしない日本文化の代表地と筆者は見る。



3 『常陸国風土記』
最も面白いのは地名の音読み、訓読みの違いが、中央と非常に落差があることである。それはこの風土記が漢文的な表現方法を随所に使うことからも、北関東がどうやら漢字表現が得意な人々によって開かれた地域であることを思わせる。
つまり半島系渡来人たちが多いというべきであろうか。
彼らは倭訓にまだなじまずに、地名などを漢文風に表現している。

「居穴」とか「流東」地名がそれである。

「昔、国巣には山の佐伯、野の佐伯がいて、あまねく土で窟(むろ)を作って常に穴に住んでいた」ゆえにここを「あない」と言うというわけである。この「穴に居る」のところが原文では「居穴」となっており、これは返り点を入れて「穴に居る」と読ませている。そういう箇所が二箇所ある。

「あない」地名を言う場合、そこは「穴居」で充分通じる日本語表現であるのを、わざわざ返り点を入れる漢文にしてある。

北関東がそもそもは東北縄文人の世界への入り口・・・つまりのちの国名である道奥前国=みちのくのくちのくに=常陸(茨城県)であることから、前から縄文人蝦夷の国だったところへ、日本海から半島人が勝手に入り込み、やがて合体した。それが大和の支配を受ける前には、東国尾張などの人々によって仲間になってゆく。すると中央にとっては非常にやっかいなことになりかねない。そこで中央の渡来系氏族を目には目をで投入し、懐柔したい。ところが送り込まれた渡来系たちは在地の縄文系・渡来系共同体になじんでしまい、効果がない。そこで漢字がとくいな彼らに、大和言葉を教え込んで、まず文化からこっちに親しみをもたせよう・・。そういう流れがどうやらあったらしい。それで万葉集も東歌をさかんにとりあげ、あちらでもやたらに万葉仮名使用法を練習していたようだ。木簡にそれが表れている。





このように風土記から見える歴史は大変多い。
これを文学としてみようとするから、「万葉集より価値は下」になってきた。しかし文学ではなく、ちゃんと地誌、歴史としてみたならば、実に多くの意義が見えてくる。


なんとなれば、万葉集を高みに仰いできた文学者・歴史学者ですら、地名の「末の松山」の「波こさじ」の意味がまったく理解できなかったのである。それがあの大津波によってようやく理解できた。なんと1000年間もただの松尾芭蕉の句碑のおある景勝地高台とされていただけの末の松山の丘の上の、一歩手前で今回の津波は止まったのである。つまり、「末の松山波越さぬ」丘であることに、やっと気づかされたのである。そしてもしそれが理解できていたならば、貞観の大津波記事はもっと文学者や歴史学者によって、地震学の資料として訴えることもできていた。ということは宮城の松島あたりの人々は避難場所を末の松山よりも上に設定し、意識して暮らせていたわけになるのである。


文学や歴史が人を殺しも、生かしもする、などといったい誰がこれまで考えたことだろう?学者たちはどれもこれもが「へえ、面白い地名だ。恋愛との関連性って?」ばかり考えてきた。貴族の遊びでしかなかった、いわば恋愛話を歌にしたものばかりが万葉集で、それこそが日本最高の文学なのだと考えてきた。まるで昭和歌謡が日本最高の歌曲だといってきたようなものである。ほれたはれたのノウハウや悲喜劇など、いったいどこが役に立つのか、である。


文系も理系も、いったいなにをやってきたのだろう?
特に風土記をほったらかしてきた史学の罪は、今回重い。







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