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古代皇統・皇后の形成原理 だまされない古代史


Q; 先生は古代の天皇制について皇統の形成原理があるとして提示されておられます。簡単にご説明ください。
 
A;あくまでも『日本書紀』の話ですが、仁徳以降の古代天皇には明確な三つの皇統論理が描かれています。簡単に申せば、

1 天皇や皇太子は20歳以上の成人が原則。この例外は前は応神、後ろは聖武・清和だけです。

2 天皇は死ぬまで在位する。つまり古代ではまだ譲位という概念がない。例外は皇極ですがこれは作為で、実際に譲位の開始は持統からでしょう。

3 天皇の妻は皇女、皇族女性がほとんど。例外はありますが。これは正妻つまり皇后の条件です。これを初めて破ったのは聖武の光明皇后(藤原光明子)です。彼女ははじめて皇族以外の氏(うじ)から皇后になりました。聖武は言い訳として仁徳の前例を持ち出したとされています。しかし仁徳が葛城氏から妻を迎えた事例は聖武から300年も前の話で、当時はまったく意外な出来事だったと思います。


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Q;相当もめたんじゃないですか?

A;かもしれませんね。(笑)

Q;しかし息長氏や尾張氏からの嫁入りもありましたが・・・。

A;あくまでも正妻、皇后と認められた女性、という意味です。

Q;なるほど、では皇后の詳細な条件としてはほかにはありますか?

A;あります。まず(A)所生子の子孫が皇位についていること (B)皇女であること
ですね。(A)について補足しますと、たとえその子供が即位したとしても一代限りだと皇后とはされていません。清寧・安閑・宣化・用命・崇峻のお母さんは皇后にはなっていません。

逆に言いますと、正妻はすぐには決まらないということですが、まず天皇の子供を生むのが第一条件だったと言えます。武家とはちょっと違いますね。もっとも、平民や武家でも、正妻が子供を生まない場合、家に戻された例はたくさんあります。

Q;例外はありますか?

A;履中の黒媛ですね。彼女の場合はしかし「皇妃」と書かれています。子供の仁賢さんが即位したのだから皇后でいいはずなのですか、なぜか皇妃です。これはのちに武烈で皇統が断絶したためかも知れませんが。

また補足しますが、(B)の場合、妻に皇女が存在しない場合、皇后の対象が皇族に広げられています。垂仁・景行・顕宗・天智。

また仁徳・敏達・履中の正妻は、(A)(B)ともに満たす女性が複数いた場合に、まずは(A)の妻を皇后にし、彼女が死んでから(B)を二番目の皇后にしています。どちらの満たさない女性しかいなかった場合は皇后は存在しません。つまり「立后」記事がない天皇は成務・反正・清寧・武烈・崇峻の例があります。

以上が『日本書紀』の皇后の統一的基準です。しかし、はっきり申して(A)などは、妻の「実績」しだいという選出基準なのですから、本当にそうされていたのかどうかは実は疑わしいですね。そもそも立后記事全体が編纂時になってばたばたっと付加されたんじゃないでしょうか。ですからこれを以て古代の歴史分析にはちょっと使い得ないと思います。あくまでも『日本書紀』編纂時の価値観が影響した記事になったと見ています。

特にこの3の皇后の条件については、それが鮮明、明確に書かれた時代は六世紀以降です。

Q;それより前は、つまり皇后の条件はけこうルーズ?

A;そういうことになりますね。と、申しますか・・・

(ここまで、『古代政治史における天皇制の論理』の内容を勝手に会話体にしてみました。しかし内容は参考文献の河内氏の書いていることをそのまま口語体にしてある。



ここから先は筆者の勝手な妄想であるが、
(これはないないの話ですが、雄略さんより前のことは、われわれはほとんど扱いませんので。

Q;え?雄略以前はアカデミズムは扱わない?それはまたなぜでしょう?

A;そんなことは戦後文献史学では自明の理ですから・・・・・・・・・・。)

とかなるんじゃないか。


さて、何が自明の理かといえば、もちろん、六世紀雄略(または仁徳からとも)から前の『日本書紀』記事は眉唾だということなんだろう。それはなぜか?まずは政治力学の問題がある。戦後直後からしばらくは、まだまだ世間には右よりな勢力が存在し、反対に左より勢力がメインであった。それが気に入らないものが作用反作用でかえって勢力を持てたのだ。すると天皇制について目覚しい斬新な歴史認識論考を発表すれば、学者個人ばかりか大学全体がそうした勢力からの恫喝や糾弾の対象にされかねない。また学者にも生活・家族がある。そうした大人の判断が、戦後しばらくは核心を語れなくしていたことは間違いない。しかも当時の学閥徒弟制度のもとで、そうした暗黙の了解は最近までずるずると尾を引いてきた。これでは言外の思いを自由には語らない学説ばかりになってしまう。変化、革新には常に世代を経て長い時間がかかってしまうのだ。だから当時、斬新そのものの説を発表した水野祐や江上波男先生らは、本当に勇気があったと言う事なのだ。

さて、六世紀から顕著にこうした皇后の条件が『日本書紀』に定型的に取り入れられたということは、まずは雄略から日本の古代史は語ってもよいという雰囲気の中での分析であり、その前後の時代は違うのだということになる。前の時代は虚構が多すぎ、後の時代は天皇政権が天皇本人の手から宰相藤原家によって左右され、それがやがては武家に切り替わるわけである。この前後の時代は天皇などはまさに傀儡となった時代であった。ということは天皇が実権を持っていきいきとしていたのが六世紀~8世紀までだということである。『日本書紀』はこの時代に一番力を入れて、だからこそ書き始めも雄略~天武までを「藤原不比等の持統正統性」の前提として描き出したのである。

前は虚構、中は改変、後は傀儡であるから、これでは『日本書紀』の天皇には実態がないといわれても仕方がない。

しかし雄略には唯一実態があり、しかも彼は武力王・政治王であったのだから、つまり正真正銘の世界史的な「国王」だったのかも知れない。また、そうして考えると、政治王白河法皇のあと実権を手中にした平清盛や源頼朝のような武家と、蘇我氏や藤原氏がよく似た政治性を持っていた・・・武家の天下布武のよい前例となると気づかされるのである。もちろん彼らは貴族であって「武」は持ってはいないが、蘇我氏にはどこか武力の影が見え隠れし、その実態を漢氏や秦氏にさせているフィクサーの感じは、藤原氏にも見えるところがある。少くなくとも蘇我氏 のように突然登場する豪族に武力が皆無だったなど考えにくい。

(どうもIME変換を更新してから変換が変で困っている。いちいち元に戻すのがあとになってしまい申し訳ない。PCが重くなるといろいろ苦労する。)

これは継体もそうである。突然、福井から招聘されたとなってはいるが、どう考えても前の倭五王政権をまともに引き継いだとは思えない。なぜなら継体と応神の間の四世代について『日本書紀』はなにも語ってはいないのである。そこには系図がない。いきなり五世孫とされているだけである。それは同じ息長系譜から敏達に嫁いできた広姫も同様である。つまりこの息長系の人物には系譜がないのである。つまり言い換えればどこの馬の骨かもわからない。

そういう意味では文武の母である宮子もまた、どこの誰かがよくわからない女性であろう。だから伝説がつきまとう。民衆がほっておかない。信仰対象になる。

鎌足もそうだ。談山かいわいでは神様である。聖徳太子などは全国的に信仰者が多い。継体の子供の安閑は滋賀県に神社がある。そういう概念、観念というのは神武さんもアマテラスもスサノヲもオオクニヌシも少彦名もみな同じである。

奈良に行くと、市民の信仰心の深さにはいつも驚かされる。奈良の人たちは、それぞれひいきの氏族を持っており、神様も持っている。それは当然のことである。歴史がよそとは違うのだから。彼らには奈良大和こそが日本の始まりという強い信念がある。それを見たよそ者に、やっぱり奈良から日本は始まるのだと思い込ませる力がある。しかし、その考え方は少し安直にすぎるだろう。それは感化されたのであり、客観的な見方とは言いがたい。客観していたら主観まで影響された・・・ミイラ取りがミイラになる人はけっこう多い。たとえばある俳優研究者などは九州出身なのに邪馬台国大和説になってしまった人がいる。奈良にはそういう神がかり的な霊気があるのである。

最大の理由が学校では『日本書紀』を詳しく教えないからである。そうすれば右や韓国が強く反発する・・・そういうことである。
しかしそれでは正しい日本史を習ったことにはなるまい。史学ですら主観的な外力に影響されて、科学であるべき歴史学を自由に学べない日本は、どこかいびつなままではあるまいか?

頭の中から、かじっただけの『日本書紀』イデオロギーをまずは払拭してこそ、正しい歴史は見えてくる。まず『日本書紀』を否定したほうが平等な考え方が見えてくる。文献に頼って個人的に歴史を勉強する非意図は多い。その人々から『日本書紀』を取り上げたら、さて、何も考えられなくなってしまうだろう。そこからはじめるべきである。子供のようにからっぽな脳みそに更新する。大変難しいことだろう。

神武さんが本当にいたと本気で思う人は少ないだろう。その前の神話もお話だとは思うはずである。しかしこれが崇神以後になると、急に3世紀の魏志との比較がはじまってしまう。卑弥呼と崇神、百襲姫と臺與・・・などが始まる。それはおかしいだろうと思わねばならない。最初から卑弥呼が大和の人だと思うから『日本書紀』と引き比べる。『日本書紀』をさほど知らない、ましてそれが中国や朝鮮の記録を脚色していることも知らない・・・。その程度の知識でファンは研究しはじめる。筆者もそうだった。だから遠回りした。けれど、常に眉につばしながら『日本書紀』を見てきた。「うそかもしれない」・・・そういうややひねくれたものの見方は、実は現代の詐欺商法には絶大な防衛力を発揮するのである。信じるものはたいてい救われない。それが仏教やキリスト教のような平等なものならある程度信じ込んでも大丈夫だ。しかし眉唾信仰は山ほどあり、だまされたとあとで気がつく。それははなっから信仰に他力本願だからだ。

筆者などは仏教すら信じてはいない。戒名など往古は自分で作るものだったのだし、お布施など出さなくても実はなにも問題がない。お布施は坊主の口の糊しろになる。

若い坊主がしたり顔で説教しているのを、経験をつんできた老女・老人が神妙な顔で聞いている。仏教の資格は通信教育と三年修行で手に入る。誰でも取得ができるものだ。そこからさらに研鑽を積んで大修行しているのは高野山や比叡山の人たちだけ。ほんのひとつまみである。あるいは民間から修行に入った大あじゃりもおられる。そういうかたがたの話には傾聴する価値がある。しかし民間のお寺の坊さんはさしたる修行よりも、生きていくための寺院経営の苦労しかしてはおられないわけである。それに百万円、二百万円もはらい、念仏のひとつふたつに三万円・・・あれに何万、これに何万・・・この連中はゆすりたかりかと思うことがある。そんな宗教に価値などない。檀家商売だ。

『日本書紀』もまったく同じことである。

問題はうそから真実をひっぱり出す逆転の着想なのではなかろうか?



次回、王朝交替説で気づくべきこと

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