今日、奇妙な出会いがあった。
最初はネット上にあった「宮地嶽神社古墳の被葬者は宗像君ではなく、「藤」という氏の人だ」という記事からである。
宗像君徳善は天武朝の外戚関係を持った人である。史学では宮地嶽神社古墳の被葬者は徳善であり、筆者もそういうことを何度もここに書いてきた。それを否定している意見と出会ったのだ。
そこで、まずは早速、宮地嶽神社に電話してみた。
「調べます」ということで、待っていると、ちゃんとご連絡があり、その記事を書いた人らしきへのアクセスを教えていただいた。
F氏という同県人であった。
電話で話すと、共感することの多いご意見の人だった。
そのまえに、友人の古墳研究者に電話していた。すると彼が言うには、その記事は女性のもので、Mなんたらさんだが、神社やには詳しいが・・・とのことだった。
F氏は地名、神社を中心に研究されている人であった。
それでわかったことだが、宮地嶽神社の第一祭神は、ある時期神功皇后にとってかわられてそのままだと。これはすぐにピンときた。戦時中のことである。
それまでは地元の人物だったが、皇国史観の時代に、どうやら多くの九州の神社の祭神が神功皇后に入れ替えられたというのが彼の主張であった。それはすぐに納得できた。近畿周辺ではそれがアマテラスになってしまったからだ。
そして肝心の藤氏(とう・うじ)の祭神はかえられておらず、それは籐 勝頼と今一人であると。神社社伝にもその二人?の人物が祭られているとある。筆者が一番気になったのは、F氏らが所属されているらしきある古代史研究会の、たまたま同じ会員であるという「ある女性作家Mさん」の書いているその「磐井氏」の筑紫君磐井の孫である「藤氏」が、「宮地嶽神社古墳の被葬者であり、徳善ではない」という意見の出所は、彼女が書いているには、宮地嶽神社の「神官」さんに「直接聞いたのだ」という話である。その「お話」の根拠が気になったのである。その神官さんとはいったい宮地嶽神社の誰なのか?宮司だったらえらい問題であろう。
これに関して神社事務方は、いろいろな社伝もあり、複雑。というようなあいまいな答えであった。しかし、彼女が「神官さんに聞いた」というのがうそでなければ、そういうことを統一して答えないことなどが神社にあるのは、いい加減ではあるまいか?統一した史観がない、そのようなものは与太でしかないと思うのが当然であろう。そういうことを、なぜF氏に振ったのか、筆者にはまったき理解不能である。
さておき、ではこの古墳は徳善の墓ではないのかであるが、年代的に、この古墳の時代は、確かに薄葬令が出されたと「記紀が」書く時代である。ところが東国を見るとむしろ7世紀からこそ大古墳はどんどん作られているのだ。つまり遠隔地では、中央が何を言おうが、勝手に大前方後円墳が作られた。いわんや九州も、ではなかろうか?
筑紫君磐井が『日本書紀』に「国造」と書かれていても、国造がその時代(継体大王時代)に本当にあったのかどうかも問題で、学者によっては、筑紫君は君でしかなかったが、あえて国造と書かれたという意見もある。
それはつまり「殺したからの持ち上げ」であり、祟り封じでもあっただろう。
もし、彼女が書くとおりに、また彼女が言うところの「神官」なる人物がそう言った「藤氏」が磐井氏なるものの出自であって、それが筑紫君磐井の三代目の孫だったにせよ、これはいささか、いや非常に怪しくなる。
捏造である可能性はないかと考えたところで、では、それは彼女を苦しめることになるやも知れない。
だから、神社とかを民俗学的に見つめるのなら許せるが、神々で考える人はちと困るものがある。
とまあ、そういうことは、彼女もF氏の研究会に身をおくわけだから、F氏だって悪くはいえまい。
ということは、そういうなあなあ関係を持つことは、自分自身ではマイナスである。
それだけ書いておく。
そもそも信仰からの古代への接近遭遇は信用しない。それがぼくのスタンスである。
だが、F氏のいろいろなご意見は「これはぜひ一献やりつつやりあうに耐える」素晴らしい見識が垣間見えたので、電話交換をしておいた。
いずれにせよ、この女性が、さしたる重要性も考慮せずに書いたことがらは、すでにネット上で数軒のサイトが孫引きしており、その責任について、神社も彼女も、さほど気にもしていないことは、やはり神社、信仰からの意見は、所詮カルトでしかないものであると、筆者は認識をあらたにしたものである。無責任。
このことで筆者の宮地嶽神社、あるいは神道の言うことは、信憑性なしと判断しようという気持ちは、残念ながらいよいよ深まる結果となった。ただそれだけである。
彼らはますます信用をなくしていく。
だから捏造だといわれても仕方があるまい。
そもそも地方の神社関係者が大古墳を持つ、その背景はまったく見えてはこなかった。
「みまつ」は百済王家である。
と、そういうことを書いたってぜんぜんかまわんということでしょうね。
神社の言うことはまずもって面白い。
笑えた。
藤とは鉱山開発の部民だった名前である。
これぞ敗者の言い分であろうと如実に感じただけだった。
九州の信憑性、それは科学でしか証明できない。
主観的な社伝や、神社側の意見には政治性がある。
資料にはまったくならない。
信じるものは救われぬ。いつも書いてきたことだ。まただ・ま・され・かかったわい。
自ら信憑性をなくしてゆく彼らに救いはあるまい。
なにを書いてもいいのなら、何を書かれてもいいということであろう。
あいまいなことを言えば、当然、しうちは覚悟のはずである。
言ったことは帰ってくる。それが言霊である。
この件はこれ以上扱う価値なし。
女性の意見は類推でしかない。
そもそも藤氏であろうと祭神勝頼であろうと、古代史にはまったく関係がない。
地元の神社関係者の希望、夢でしかないと判断した。以上。