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今月の愛読書と最新考古学古代史観


今月図書館で借りてきた愛読書
松木武彦監修『楽しい古墳案内書』2014
山岸良二『日曜日の考古学』2013
片山一道『海のモンゴロイド』2002 再読
伊藤清司・慶応大学・古代中国研究会『中国の神獣・悪鬼たち 山海経の世界』増補改訂版 2013
和田晴吾『古墳時代の葬制と他界観』2014 再読
中田興吉『倭政権の構造』王権編・支配構造編上巻 2014
古田史学の会編『「九州年号の研究』2012 古田史学とやらを知るために



この中から、まずは松木武彦のとらえるわかりやすい古墳時代を引用。










前方後円墳の変遷
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イメージ 1

「三世紀後半から四世紀中頃にかけての初期の巨大前方後円墳は、大和の盆地の南東部に集まっている。後円部は三段に築かれているものの、前方部が二段で低かったり、三段であっても後円部と段がずれたりしていて、建築様式として未完成なだけにバラエティに富んでいておもしろい。四世紀の後半になると・巨大前方後円墳は盆地の北部に遷り、後円部と前方部とを一続きの三段に造ろうとする傾向が強くなる。云々」


古墳石室の変遷
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古墳の年代を決める手がかりは副葬品と埴輪。
中でも有効な目盛りとなるのは、副葬品として全時代に存在する鏃(やじり)。
円筒埴輪片そして期間は5~6に限られるが高精度で変化してゆく須恵器の三品が、特に重要。
これらから総合して算出される推定年代を「古墳の編年」という。


古墳考古学の始まりは、みなさんよくご存知の水戸黄門さまの栃木の古墳の発掘からである。栃木県 上侍塚古墳・下侍塚古墳(四世紀前方後円墳)発掘は、元禄五年(1692)、徳川光圀の命令で行われた日本最初の学術的発掘調査である。

以後、下野の国の人、蒲生君平(がもう・くんぺい)による前方後円墳という呼称が戦後になって定着した。幕末、勤皇思想が高まるにつれて、記紀などが指定してきた天皇陵の探索と修復が起きる。そして明治期までに、これら水戸国学や勤皇思想の多大な影響下で日本の考古学は開始され、明治時代には民間の勝手な発掘や、堺県令による発掘によって、一部遺物が流出するなどの事件も起きていくようになった。

要するに日本の発掘は、当初から、天皇中心主義のイデオロギーによって始まり、それは戦後の転換期によって左翼思想からの冷徹な科学的な解釈を経ながらも、またいつしか近畿特に京都大学内部にあった近畿中心主義、皇国史観の残照によってのとらえかたが主流となってしまったのであった。現代、それら過去の戦時中までの史観からの脱却が、故・森浩一らを中心とする同志社などの学派による見直しの途中である。編年判断の過渡期であるとも。


日本の古代をざっと俯瞰すると、考古学的には、~2世紀中ごろまでは圧倒的に九州北部に立派な墓と遺物が頻出するゆえに、この時期を九州北部が、「中国へ朝貢して王権に当たるような存在であった時代」とし、やがて2世紀中~後半にかけては出雲・吉備に別の王権が生まれ、西谷古墳や盾築弥生墳丘墓のような、ほかにはない早期古墳が生まれ、それがやがて3世紀には大和の纏向に移動したと考えられている。

九州北部では、2世紀以後、出雲や吉備や大和のような大古墳へと墓が発展していない。九州独特の横穴式石室や石床、石障、装飾などを持つ「特殊な死生観」を表す古墳は、外見上はあくまでも畿内型前方後円墳や円墳であり、登場も4世紀以降になる
。また弥生の墓としては、九州北部のバラエティは巨大化ではなく、朝鮮スタイルのドルメンや畿内型周溝墓や甕棺墓という、北部を那珂川を中心として東西に分かれるスタイルで発展し、やがて消えた。東には甕棺墓、西には支石墓~周溝墓が他出するため、北部九州弥生人には東西に二種類の民族の移住があったと考えられ、遺伝子。人類学分析もそれを後押しする結果が今のところ優勢である。つまり北部九州倭人たちは、オリジナル墓制を3世紀以降なくしてゆき、大和纏向型の前方後円墳を外見上受け入れながら、墓によっては、ほかにはない内部構造や装飾という「見えないところでの独自性」を選択していることになるのである。


また装飾のある古墳とない古墳が5世紀中頃~6世紀にかけて一部地域に見え始めることから、その被葬者が、よそからやってきた国司的、国衙的人物であって、記紀で言うならば倭王武前後の時代の、大和や吉備にゆかりのある官吏たちではないかという想定が可能な時代になっていたようだ。


特に吉備王の大古墳である造山・作山周辺の、吉備王氏らに縁故のあるだろう様式と弧帯文から発展したであろう直弧文を持つ古墳の被葬者は、記紀の景行紀や神功皇后紀にある吉備由来の人名が熊襲征伐に関わったという記録を後押しする。ただし記紀ではその時代を前倒しで配置するために、実際の時代はやはり倭五王時代に起きたことであっただろう。


記紀史観は、あくまでも大和を大王の発祥地としたい水戸以来の皇国史観に引きずられてきた近畿考古学の考え方でとらえられているのだから、考古学もまた文系に置かれている間は、小林考古学の影響から脱皮できていないと判断できる。できるのだが、遺物や古墳様式の移動拡散が、3世紀以降、列島東西への人的派遣があったという判断は、いかに九州人のKawakatuでも、否定できない現状である。客観的に俯瞰して、そうなのである。

大和が合議制大王輪番制・・・つまりゆるやかな西日本支配体制に、協力する地方豪族は徐々に増えていった結果、最終的に飛鳥時代というものがいあがるわけで、当時は明日香村のように狭い空間でしかないけれど、それでもかつがつは「統一」に近い形がどうにかできあがり始めたとなる。それが天武壬申の乱クーデター成功によるかどうかはわからないが、持統と藤原氏という共立女帝の登場によって、いやいやな豪族もいたけれどなんとか律令制を(九州あたりや中国から取り込んでまねしてでも)成し遂げるというのが、スムーズに文献と考古を結びつけた結果の古代史観であろう。


記紀では、その順番を、九州をあとにして、まずは出雲を帰順させ、スサノヲやオオクニヌシに代表させる日本海・高句麗的文化圏の平定として書かれている。ということは大和の歴史にとっては手ごわすぎた九州よりも、先にまずは日本海を制し、九州制覇は遅れて継体大王の出現を待っていることになるわけだ。

この期間は、言い換えると、九州北部には復権のチャンスがあったわけである。北部九州残存勢力は、国造・国衙たちを懐柔し、実質は中国江南王朝との交渉、東南アジア諸王国との交渉、あるいは列島の東国~関東の勢力との往来によって、大和連合体と対峙する力を蓄えたり、新羅や高句麗や燕とも結んで、かつての呉越を復興しようとする大局観も持てたはずだろう。そうしておれば簡単に筑紫君が継体に敗北することもなかったかもしれない。

しかし、その後、北部九州には大和に対抗できるほどの大古墳は登場しない。また東国は7世紀まで大古墳を作り続けたが、結果的には、東北蝦夷、南国大隅隼人は9世紀には平定され、巨大な神社による監視体制と敗者の祟りを封じる政策にもう立ち向かえる実力は失ってゆくのである。これは残念ながら、ひとえに筑紫君の敗北による、旧態連合体が水泡に帰したことしか証明してくれない。それらの巨大神社とは、
宇佐八幡宮、枚聞神社、阿蘇神宮、鹿島・香取神宮などがそれにあたるだろう。その建立がだいたい律令国家が伊勢神宮にアマテラスを祭ることtなった持統朝以後のことであり、それらが各地の国造の住まいであった税務署である神社群をとりまとめる
国税局を勤めていたことは間違いない。

いわゆる記録にある多くの屯倉の設置記事は、ある一時期に突出して作られたとなっているが、これはあきらかな記紀時代の事業の前倒し記事であり、5~6世紀にはまだそれだけの力は大和は持ちえていないと考えてよかろう。ただし国衙クラスの墓からは、大和的な三種の神器に当たる遺物が出てくる。こうした倭王武の時代の派遣が、大和朝廷の律令共立体制の引き継ぐもので、ゆえにこそ、在地九州北部などではその墓に直弧文を張り巡らす棺の登場を生んだとも見えるのである。つまり在地豪族たちはしぶしぶ大和を盟主に選んだが、決して心から彼らの国衙の来訪を喜んでいたわけではなく、それが筑紫君の反駁、上野国の反発という形で爆発したのが二つの乱だったのであろう。



これがKawakatuがあくまでも九州生まれとしてでも、京都在住だったという過去からでもなく、平等に。客観的に眺めた古代史である。




ただし、大和説が言うような三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だなどとはまだ言うつもりはさらさらない。卑弥呼が大和の人だったという証拠も、今後出ることもないだろう。発掘できない古墳がある限りは。


そして邪馬台国が中国にとって、非常に「あったほうがいい」同盟国であるということも間違いがない。中国の王権はどんどん入れ替わり、まったく安定性がない数千年を過ごしていた。ネコの目のように入れ替わるそれを、日本だけは長期間、ほとんど無視する史観を持ちえることになった。そういう位置にあった。実に大和には都合のよい長い時間が流れていった。そのために、日本人は平和ボケした半面で、国風文化や朝鮮渡来の芸術・芸能を磨き上げ、超克し、世界に類のない繊細な高い文化を持つことになった。また儒教の異常な取り込みや、氏姓の漢風への改名もなく、戦国時代という特殊な期間でさえ、外国の背後からの侵入を気にすることなく、まるで欧州中世の縮図のようにして過ごすこともできた。考えてみれば、そんな国家など、大陸世界ではまずありえないものだった。

戦国時代などはいわば内乱の時代であり、そんなことを長々となっていたら、当然、大陸では他国のいい侵略のチャンスにされてしまう。ところが日本が海外勢力と戦ったのは鎌倉時代の北条政権下の鎌倉幕府のときの元寇だけだった。これまたあり得ない幸運である。しかもその危機を、日本人は台風という自然の偶然によって二度も乗り越えている。ゆえにこそ「神国」という勘違いも生まれ、結局は世界大戦での大敗北を喫してしまうのである。司馬遼太郎の言を借りるなら「まことにお人よしと言うべき」わが日本人。明治人だったのである。


無知だったことが日本を不思議の国にしていった。黄金の国とも呼ばれ、蓬莱とも扶桑とも呼ばれた。なぜならば大陸世界から見て、お人よしの無知な人々が暮らす国だったからにほかなるまい。それを、彼らは半ばあきればがら、うらやんだのであろう。この国を今、世界は欲している。簒奪したい。見渡せば中国・韓国・北朝鮮・ロシア・・・すべてが日本を「あの運のいいだけの奴等め」と感じている。お忘れなく。もしアメリカが背後にいなければ、もうすでにこの国の名前は変わっていただろう。これもお忘れなく。



そして戦いなどはアメリカがしてくれる。アメリカにやらせればいい。などという考え方が、実は平安時代の貴族と武家の関係であることも。




心の中に諸外国への隠された差別意識がある限り、日本に本当の安定や安全は訪れないだろう。それが歴史と言うものである。筆者の住むそばに湯布院町がある。その真上に自衛隊の日出生台演習場がある。沖縄がおろかにも米軍を追い出したいというのなら、筆者などはどうぞ日出生台へと言うだろう。それが本当の日本人ではなかろうか?経済効果を考えれば、米軍を追い出せなどあり得ない。ましてそれがいざというときは国土を守る要になってくれるなど、こんな名誉があるだろうか?沖縄の一部県民の「お空の星を取ってくれ」的な夢は、日本人として理解できない。



戦争はそうかんたんには勃発しない。また、こちらから攻め込むほどの力も日本にはいま、ない。可能性を冷静に考えれば、歴史を見つめれば、日本全国に米軍基地があってもおかしくなかった。われわれは一度、敗北したのだから。しかしアメリカはそうはせず、むしろ沖縄・小笠原を返還した。それもお忘れなく。中国やロシアだったら沖縄や福生だけじゃすみませんぞ。



100年先を見越して答えを出さねば。どこの世界に、陣取りゲームの最中に、防衛バリアをはずすばかがいるだろうか?むしろ増やして当たり前ではないか?


あの中国やロシアが、武器を持たない侍の国ニッポンは立派だ、あっぱれだ、攻めるのやめよう・・・なんて言うはずないでしょう?子供だってわかります。転ばぬ先の杖である。アメリカは。最愛の夫ですよ。離婚したら全部丸裸でっせ、わが国は。








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装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U





















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